僕が、君の使い魔なのか、と。
彼女は、確かにそう問うた。
「はぁ、使い魔……」
「そう、使い魔!」
思わず呆けてしまった僕が、辛うじて絞り出た鸚鵡返しに。
僕とは正反対のハイテンションを更に一段階引き上げた少女が頷いて答えると、
「お姉様がね、新しく人間の従者を迎え入れたんだって! それで、私も欲しいなって思ったの!」
勢いをそのままに、彼女は説明を続けてくれた。
彼女の知人、姉の友人に魔女がいること。
その魔女が、当の本人が埋もれてしまうほどの量の魔導書を保有していること。
その魔女から生物の召喚、使役に関する術が記された魔導書を借り受けたこと。
そして昨晩。
彼女のコンディションが最も高まるという満月の夜、魔導書を用いて召喚術を行使し。
それから程なくして、天井を突き破って一人の人間が姿を現した、ということ。
つまりは、それが――――。
「――――それが、貴方。空を飛ぶ人間がいるなんて、とても驚いたわ」
生きた人間を見たのも初めてだったのだけれど、と。
少女はからからと笑う。
一方の僕は、理解が追い付かず頭を抱えていた。
寧ろ、その説明を聞いて、分からないことが増えたとさえ思う。
「……僕は、空なんて飛べない普通の人間だからね」
とりあえずの弁明に、しかし彼女は気にも留めず笑い続けていた。僕が空を飛んでやってきたわけではないことくらい、分かっていたのだろう。
……まぁ、それは別にいい。
突拍子も、現実味もない話ではあるが、非現実的な存在そのものと思われる彼女が言うのだから、信用に値する話だと思う。
けれど、彼女やその知人のこと。それから、魔法だとか魔術などといった、何やらよく分からないものの話が本当だったとして。
僕がそれによって、不幸にも空高くに、突然放り出されてしまったのだとして。
天井を突き破るほどの速度で墜ちた人体は――――果たして、無事でいられるものだろうか。
記憶こそないから断言はできないけれど。
それでも、失われることなく残っている多くの知識や常識、価値観は。かつての僕が、ごく一般的な社会生活を営んでいたことの証左ではないかと思うのだ。
だからこそ、僕は自分のことを人間だと信じている。
そう、信じているからこそ。
その一点だけがどうしても呑み込めないのだ。
或いは、その召喚術とやらに召喚物の保護みたいなものが働くような効果があって、勢いそのままに地面に激突しないようになっていただとか、そういう可能性もあるけれど――――。
「なんだか難しい顔しているわ。質問あるならどうぞ!」
思考に耽り黙りこくる僕に、少女はふと思いついたように質問を促した。
聞きたいこと、聞くべきことは山ほどあった。
果たして何から聞くべきか、と暫く考え込んだ僕は、そこで何よりも大切なことを聞いていなかったと思い至って、口を開いた。
「そうだ――――君、名前は?」
「へ?」
「だから、名前。いつまでも君ってのも、ちょっと変だろ」
僕の質問は、彼女の予想の何れにも当て嵌まっていなかったらしい。
ぱちぱちと目を瞬かせると、その意味を噛み砕くように「名前……」と呟いて。それから、
「ふふ……あははっ」
小さく零れた笑い声は、徐々に大きくなっていき。いつの間にか、彼女はお腹を押さえて、声を上げて笑っていた。
確かに、流れとしては少しだけおかしかったかもしれないけれど。
でも、そこまで笑うほどのことだっただろうか。
その目に涙さえ滲ませて笑う姿に僕が困惑していると、彼女も落ち着いてきたのか、くすくすと笑い声を漏らしつつも涙を指先で拭って、
「貴方のこと気に入ったわ。私はフラン、フランドール・スカーレットよ」
残る片方の手を、すっと差し出した。
僕は、咄嗟に服の裾で掌を拭ってから握り返すと、
「よろしく、フラン。僕は――――」
彼女に名乗り返そうとして、しかし未だに、それを思い出せないままであることに気付いた。
突然言葉を途切れさせた僕に対して、流石に不審に思ったらしいフランが顔を顰める。
僕は慌てて謝罪を口にしつつ、彼女から目を逸らすように顔を伏せた。
「僕も名乗りたいところなんだけど……名前、というか。何にも、思い出せなくて」
すると、フランはほんの一瞬、考え込むような表情を浮かべた後に。
ふと思い至ったように、
「一度はあんなになったのだもの、記憶くらいなくなっていても不思議じゃないわ。体は元に戻せたのだから、それで勘弁してよ」
などと。
何やらとんでもないことを口走った。
「あんなになった、って――――」
「? そりゃあ、人間が空から墜ちたのよ?
あっけらかんとフランが笑う。
思い違いではなかった。
都合の良い術の効果など存在しなかった。
この体は、僕の体は、やはり無事なんかではなかったのだ。言葉にするのも憚られるような、無残に砕け散った骸の如き姿を、既に彼女の前に晒していたのだ。
思わず浮かべてしまった、自分が迎えたのだろうその末路に、僕は、背筋が急激に凍り付いていくのを感じた。
「なら、体は元に戻せたってのは……。まさか君が? 一体どうやって――――」
言いかけた僕の脳裏を、ふと、一つの可能性が過った。
もしも、彼女が僕の想像する
確証はない。けれど、在り得ない話ではない。
それは確かに非現実的な話だけれど。
この身は、既に、現実の境界などとうに超えた出来事に直面してきたではないか――――。
「なんだ、もう想像は付いているのね」
僕の心を見透かしたように、フランは言う。
彼女の笑顔は、いつの間にか幼さを感じさせるそれから一変していて。
人を惑わすような、魔性のそれへと成り代わっていた。
薄く開かれた唇に、白く細い指が添えられる。
尖った爪の先で、その口の中を指し示すように。
そして、その口の中から顔を覗かせているのは――――穴を穿つことに特化した凶器とも言えるほどに、鋭く大きな牙。
無意識に動いた手が、首筋へと伸びる。
「あんまり美味しくはなかったけれど……別に、嫌いな味でもなかったわ」
恐る恐る触れたそこには、二つ。
ともすれば気付かないほどに小さな傷痕が、しかし確かに刻まれていた。
◇
「そう言えば」
「今度は何さ」
「人間達の中には、吸血行為と性行為を同一視する考えがあるって聞いたことがあるの」
残された知識を辿ってみれば、少しばかり心当たりがあった。
僕は、生前の己が酷く偏った知識を持っていたことに幾らか訝しみつつも、フランに頷いて答える。
確か、吸血鬼という概念そのものの、由来となったとされる一説だ。
簡潔に言ってしまえば、医療が未発達であった中世に流行った感染症が擬人化した存在こそが『吸血鬼』である、というだけの話である。
ゾンビや狼男辺りでも似たような――病気等と関連付けされた――話はよく聞くところであるし、ヴァンパイアという言葉の語源そのものは別にあったりもするので、それ自体にどこまで信憑性のある話なのかと言われると難しいところではあるが。
まぁ、それはそれとして、映画や創作の中で、吸血シーンが実に艶めかしく描かれるケースが多いこともまた事実である。
しかし、それがどうしたのだろうか?
「私ね、実は初めてだったのよ。生きているヒトから、直接血を吸ったの」
そう言うや否や、彼女は突然僕に抱き着いて。
耳元にぐっと顔を近づけると、小さな、甘えるような声でそう囁いた。
「――――責任、ちゃあんと取ってよね」
あぁ、間違いない。
彼女は、確かに
思わず言葉を失った僕は、悪戯に成功した悪童のような顔で笑うフランから目を逸らして、内心でそんなことを思った。