全く気付かぬ間に、自分が人としての生をリタイアしていた、という割と衝撃的な事実が発覚してから、暫く。
僕を揶揄って遊んでいたフランは、
「――――そうだわ! 貴方の名前、私が付けてあげる」
突然、そんなことを言ってきた。
曰く。
主人が使い魔に名前を与えるのは当然、とのことらしく。
すっかり有耶無耶になっていた問いの答えが、いつの間にか「YES」にされていたことを、僕はこの時初めて知ったわけである。或いは、今し方彼女が取るように求めてきた責任というのは、そういう意味の話だったのかもしれない。
まぁ、今更不都合があるのかと問われれば、返す言葉もないわけで。
「まぁ、ここは一つ頼むよ。誰に名乗っても恥ずかしくない奴をお願いね」
腕を組んで考え込んでいる様子の彼女に、適当な言葉を投げてみる。
すると彼女は「分かった!」と大きく頷いた後、今度はうんうんと唸りながら悩み始めた。
一先ず手持無沙汰となった僕は、先ほど彼女から聞いた話を思い返してみる。
あぁ、そう言えば。
僕がここに喚び出された直接の原因と言えば、"お姉様"。フランの姉君が、新しく人間の従者を雇ったことで、フランは人間に興味を示したのだったっけ。――――尤も、僕は既に人間ではなくなってしまったのだけれど、それは兎も角として。
恐らくは、今後、少なからず関わっていくことになるであろう姉君。彼女も当然吸血鬼なのだろうが、一体、どんな人物なのだろう。
吸血鬼のイメージに、どうにも、マントに身を包んだ男性のそれが先行してしまうからか。とんでもなく恐ろしい人物を思い浮かべてしまった僕は、思わず一人身を震わせる。
……ともあれ、すぐ傍に肉親がいるのだから、直接聞いてみるのが一番か。
「ねぇ、フラン。考えながらでいいから教えてほしいんだけど」
「んー……なぁに?」
「君のお姉さんって、どんな人?」
何気ない、世間話のつもりで投げた僕の問いかけ。それに対して、彼女は一瞬、悩んでいる時のそれとはまた異なる、酷く険しい表情を見せた。
「今のお姉様のことは、あんまりよく知らないの。もう、百年くらいは顔も見ていないから」
感情を落とし切ってしまったような、淡々とした声音。
明確な色一つには染まり切らない、けれど、無表情とは異なる。幾つもの感情が押し込められたような、そんな表情。
そこからは、はっきりと明言されたわけではないけれど。彼女の抱える、姉に対する複雑な感情が見え隠れしていて。
明るく、分かりやすい感情表現を多用してきたフランらしからぬそれに、咄嗟に反応できなかった僕が、返すべき言葉を探しあぐねていると。
いつの間にか、すっかり元の笑顔に戻っていた彼女が、
「でも、近い内に会えると思うわ! 文句があるなら直接来るようにって、昨日メイドに伝えておいたから」
何となく、嫌な予感をさせてくる新情報を齎してくれた。
言いにきたのか。
メイドが、文句を。
しかも昨日、ということは……。
人様の家を打ち抜いて、そのまま意識をすっ飛ばして倒れていたであろう頃の僕の件と見て、まず間違いないわけで。
ううむ、これは、何となく歓迎されていなさそうな気が。
何やら一波乱起こりそうな気配を感じ取った僕は、思わず息を吐き出したのだった。
◇
「――――そうね、決めたわ」
瞑目していた彼女は、その声と共にゆっくりと目を開いた。
まっすぐと見つめてくる朱の瞳に、頷いて続きを促すと、彼女もまた一つ頷いてから、
「貴方に
彼女はどこか誇らしげに、高らかに詠い上げた。
彼女にとって僕は、夜空を星のように駆け、天を穿った矢なのだと。名前の由来を、そう説明してくれた。
苗字については、今宵の空を見上げてみれば分かる、とのことである。
……正直に言うと、僕は、少しばかり驚いていた。
そもそも人ではないという点は置いておくとしても、彼女が日本に縁を持つ存在でないことは、その容姿からして明らかで。
だからこそ、僕としてはギャップを感じざるを得ない、横文字の名前になるものだとすっかり思い込んでいたのだ。
どんな名前であったとしても、二つ返事で受け入れよう。そう思っていた筈なのに。寧ろ、想定よりもずっとしっくりきてしまったせいで、虚を衝かれた僕はすっかり呆然としてしまう。
それを、突然黙り込んだ僕の態度を、気に入らなかったからだと勘違いさせてしまったのか。フランの浮かべていたドヤ顔が、僅かに曇った。
「や、やっぱり変だった? それなら考え直すから――――」
「ううん、大丈夫。とても、いいと思うよ」
僕の言葉が本心からのものであると感じ取ってくれたらしく、フランは、すぐに笑顔を取り戻してくれた。
本当に、不思議な少女だ。
実に愛らしい、幼い少女のような振る舞いを見せる一方で。
感情の機微に敏く、言葉の多くを尽くさずとも、言わんとしていることを悟ってくれるほどに賢い。まるで、心の内を、どこか見透かされているようで。
けれどそれは、同時に、僕の目には酷く歪なものに映っていた。
それは、彼女が、年不相応に賢い子供というよりかは。
どちらかと言えば、年不相応に幼い、けれど確かな知性を持った大人のように感じられるからだろうか。
そんな、言葉にするほどでもない。けれど、どうしても拭い去れない、小さな違和感。
それが、妙に気になってしまって。
関心の比重が、自分自身のことよりも、すっかり彼女の方へと傾いてしまっていることを、僕は認めざるを得なかった。
「……矢夜?」
少し困ったように、どこか控えめに僕を呼ぶフランの声に我に返り思考を止める。
こちらを窺い見るような彼女の目はどこか憂うようで、急に黙り込んだせいか要らぬ心配を掛けさせてしまったようだ。僕はなんでもないと答えつつ、少し迷いながら、彼女の頭に掌を乗せた。
――――いやいや、迷った挙句に何をしているのだ、僕は。
咄嗟に取ったその行動が悪手そのものであると理解した僕は、彼女が不快と訴えるよりも前に、と即座に手を離して。
「ん……」
しかし、どこか迷った様子を見せながらも、こちらの方へと頭を寄せるフランを見て。結局、頭の上に手を戻すことにした。
どうやら、あながち間違いでもなかったらしい。
頭を摺り寄せ、にへらと脱力し切った表情を浮かべる彼女の様子を見ていると。何となくではあるのだが、どこか温もりに飢えているんじゃないかと、そんな気がするのだ。
或いは、自分が飢えていることにさえ気が付いていないほどに、他者と関わる機会がまるでなかったんじゃないか、と。
――――そういえば。
僕は、先ほど姉君のことに触れた際に見せた、フランの、何とも言葉にし難い表情を思い出す。
確か、彼女が最後に姉君と会ったのは、もう百年も前のことだと言っていた。
それが、吸血鬼という、長い時を生きる種族にとってどれだけの時間なのかは、正直僕には分からない。
或いは、人間にとっての一日やそこら程度の、大したことのない時間でしかないのかもしれない。
……けれど。
それでも、例え一日程度の短さだったとしても。存在を感じられるほど、近況が伝わってくるほどの距離にいながら、長い間会わずにいるということは。それは、やっぱり寂しいことだと思うのだ。
彼女も、本当はそうなんじゃないのか。
その寂しさに慣れてしまって、そうではないと思い込んでいるだけで。
会えるのなら、もっと姉君と会いたいと。
実は、そう思っているのじゃないだろうか、なんて。
僕が、そんなことを考えていたからか。
それは突然。
息が詰まるような圧迫感と共に、やってきた。
「――――随分と大人しくしているものだから、すっかり忘れていたけれど」
古びた木造の扉が、軋みを上げる音と共に。
少女の声が、静かに響いた。
「変なモノを許可なく私の館に喚び込むだなんて。本当、困ったものだわ、フラン」
ぴくり、とフランの体が僅かに震えるのを掌越しに感じて、それから、僕は彼女の頭から手を離しゆっくりと振り返る。
開かれた扉の向こう。
広がる闇を裂くようにして現れたのは、従者らしき銀髪の少女を傍らに引き連れた、一人の少女。
淡い水色の髪と、病的なまでに白い肌。
フランのそれによく似た作りの整った顔を、同じく血のように朱い瞳が彩り。けれど、浮かべられた表情は、全く違っていて――――。
――――それは、氷のように冷たい無表情だった。