薄暗い廊下を進み始めて、どれくらいが経っただろうか。
長く続いていた無言。
その終わりは、先を往くレミリアによって突然齎された。
「見苦しいものを見せたという自覚はあるわ。けれどあれは、別に、本心から取ったものではないの」
彼女の言葉に、僕は脳裏に
それは、憂うように目を僅かに伏せて語る彼女の今の姿とは、とても結び付かないものだった。
息の詰まるような重圧。
思考を絡め取るほどの殺気。
それらは、或いは吸血鬼の一側面としては当然持ち得るであろう残虐性、凶暴性を感じさせるもので。
であるならば、今の彼女は、また別側面の。
豊かな知性と、貴族然とした高貴さ、とでも言えばいいのか。ある種のカリスマ性のようなものさえ感じさせる振る舞いを見せている。
その双方を併せ持っている彼女が。
如何なる理由で、初めから会話の余地など捨てるような前者の一面を以って現れたのかが、僕には想像さえできなくて。
「一体どうして」
「貴方には、言えない」
漏れ出た疑問は、しかし淡々とした調子で紡がれるレミリアの声に遮られ。思わず怯んでしまった僕は、そのまま口を噤ませた。
「本当は、貴方に話すかどうか、少し迷っていたのだけれど――――」
どこか躊躇うような、レミリアの声。
続けざまに紡がれた、その拒絶の理由を知った僕に、
「――――貴方は、恐れてしまったから」
一体、何を問い質す権利があるというのだろうか。
拳を握り締める。
爪が僅かに食い込み、痛みが走る。
構わずに力を籠めようとして。けれど、僕自身の弱さを示すように、それ以上の力を籠めることができなかった。
それが、全てだ。
フランのことを。
レミリアのことを。
彼女達の抱える過去を、知ることを。
踏み込むことを、恐れてしまった僕に。
一体、何を知る権利があるというのだろうか。
「その恐怖は人として――――いえ、生物として正常な証。誰だって、知り合ったばかりの相手の為に命までは賭けられないからね」
これは、それくらい
そこで、レミリアは言葉を切ると、一度小さく息を吐いた。
「――――けれど、もし。それでも貴方が、相応の覚悟を以って、あの子に向き合おうと思える時が来たのなら」
振り返ることもなく、前方に視線を向けたままのレミリアは。
その目に何かを――――僕には見ることもできない、彼女にしか見えない何かを、けれど確かに捉えているように見えた。
彼女は、虚空に向けられているその瞳に、一体何を映していたのか。
「その時は。ただ、あの子だけを、見てあげてほしい」
どこか寂しそうな笑みと共に、振り返って言った。
どう返すべきか。
何と答えるのが正しかったのか。
その笑みの理由も知らないまま、何も分からないままで肯定するのは、何かが違う気がして。
結局、僕は彼女に、一言も返すことはできなかった。
◇
紅魔館。
悪魔の一端を担う吸血鬼の一人――――レミリア・スカーレットが棲む洋館である。
主のセンスによって齎された素敵なカラーリングは、この館の特徴の一つと言っても過言ではないそうで。
まぁ、その字面から想像が付く通りのことではあるのだけれど。
この館は、詰まるところ、その名が示す通り赤一色によって染め上げられているのだとか。
自慢げに館を語る、レミリアのそんな説明をぼんやりと受けながら、僕がひっそりと思っていたことと言えば。
何というか、そこまでのものでもないかな、というのが率直なところであった。
正しくは地下牢であるというフランの部屋も含めて、確かに、目にしてきた時点での内装は赤一色であると言える。
けれど、そこまで強烈に『赤』を感じてきたのかと問われると、それは否であった。
それは、地下全体がどこか薄暗く、その赤自体も比較的落ち着いた色合いだったからだ。流石に、フランの部屋は少しばかり目に痛いものがあったけれど……。それそれが彼女の部屋だけだったことを考えると、あくまで標準的には薄暗い方の配色で、フランの部屋のトーンは彼女の趣味趣向によるもの、としか思えなかったのだ。
「――――さぁ、地下を抜けるわよ」
長い廊下を抜けて、階段を上った先。レミリアの言葉に促されるように、両開きの扉を従者の少女が押し開いて、暗い地下に光の奔流が押し寄せる。
……そして僕は、今し方抱いていた考えが、酷く愚かであったことを思い知った。
「うわあ」
思わず、声が漏れる。
それを聞いたレミリアは、歓声の類とでも思ったのだろう、どこか誇らしげに胸を張っていたが。
断言しよう。
これは、悲鳴である。
僕の目は、光と共に飛び込んできたその赤に、一瞬のうちに焼かれてしまっていた。
窓の一切存在しないフロアは、一見すると、地下のそれとあまり変わらない構造である。
故にこそなのだろうか。一目で分かる程度には、その部屋を染め上げる色はより鮮やかな色合いの赤へと差し代わっていて。フランの部屋のそれよりも更に一歩原色へと近付いたそれは、流れ込む光共々、ある種の刺激物と化していた。
「今まで見てきたものなどほんの一部。これこそが私の城、紅魔館よ。『スカーレットデビル』と恐れられる私に相応しいと思わない?」
自慢げな彼女に、とても悪趣味だ――――などとはっきり言える筈もなく。
僕は、力なく笑うことしかできなかった。
しかし、勿論、疑っていたわけではないのだけれど。
なるほど確かに、彼女はこの館の主だという話は事実であるらしい。
翅の生えた、メイド姿の少女達――話にあった妖精メイド、という奴だろうか――は、レミリアの姿を認めると即座に首を垂れて敬意を示してみせたのだ。
……中には、気付かずに雑談を続けるメイド達もいたが、通り過ぎる頃に音もなく現れたナイフによって、漏れなく頭部を貫かれていた。大丈夫なのか、アレ。
「いい腕でしょう? 30mくらい離れていても、林檎を乗せた妖精の頭に寸分違わず当てて見せるのよ、うちの従者は」
自分のことのように自慢げに、実に機嫌良くレミリアは語る。
確かに凄まじい腕だとは思うけれど……いや、もう何も言うまい。
ともあれ、そんな妖精メイド達を見送ること数回。
エントランスホールを抜け、再び階段を上ったその先。僕達は漸く目的地――――彼女の執務室に辿り着いた。
高価そうな赤い椅子に腰を掛けたレミリアは、デスクの中を弄ると。羊皮紙という奴だろうか、見慣れない質感の紙一枚を取り出してから、ペンを手に取った。
黒いインクによって書き綴られていくのは、恐らくは達筆なのだろうと思われる、筆記体の連なるようなアルファベット群。
……漢字の名前を貰った時の感覚で薄々気が付いてはいたのだけれど、それらが全く読めない辺り、生前の僕は生粋の日本人であったらしい。
「うちの子達は大半が無給だけれど……今回はそうもいかないものね」
その口ぶりから察するに、どうやらレミリアは、僕の雇用契約書を作っているようだった。
ツェペシュなる家系が英語圏の貴族なのかはちょっと把握していないけれど、彼女が英語を扱うこと自体には、まぁ、それほど違和感はない。
寧ろ、日本語を話している姿にこそ、よっぽど違和感があるくらいだ。
意外と言えば、吸血鬼が使用人を雇う為にわざわざ雇用契約書を作っているということそのものだろうか。
その手の文化は、勝手に人間特有のものとばかり思っていたけれど。
少なくとも人間と同等以上の知性があって、意思疎通も可能な時点で、そういった考え方それ自体が驕りなのかもしれない。
故にこそ、僕が突っ込んだのはそこではなくて。
「ブラックですか」
「レッドよ、失礼ね」
……勿論、カラーリングの話でもなくて。
妖精メイド達の雇用条件について、である。
とは言っても、何せ吸血鬼と妖精との間に交わされる契約だ。
日米和親条約クラスには不平等な、半ば奴隷扱いに等しい内容であったとしても、おかしくはないとさえ思っていた。
だからこそ、だろうか。
「妖精達にはね、食と自由を与えているのよ。必要なだけの食事は取って構わないし、仕事さえちゃんとしてくれるなら、それなりに自由に休憩を取って、備蓄の紅茶なりお菓子なりを嗜んで貰って構わないわ。それから、うちに入るのも辞めるのも本人の自由」
住み込みのお手伝いさんみたいなものね、と締め括られたレミリアの言葉に、僕は少なからず衝撃を受けてしまった。
妖精といった種族の価値観が分からない以上は何とも言えないのだけれど、あくまで僕個人の主観としては、十分過ぎるほどの好条件だと思う。
特に、休憩自由というのが実に魅力的だ。
労働時間で縛られ、こなせどこなせど仕事の減らないどこぞの国の務め人とはえらい違いである。何なら、給料がなくともその条件で全然構わないのだけれど。
「まぁ、こんなところかしらね」
書き留めた内容にさらりと目を通したレミリアは、紙面を反転させこちらへと差し向けた。
そこには、やはり僕としてはいまいち心得のない、流れるような英文の羅列が続いていて。
けれど、紙面に刻まれた黒のインクは、僕が覗き込んだ途端にぼんやりと青く輝いて浮き上がると。そのまま全く異なる形をした、この体に馴染みのある文字へと組み変わっていった。
「――――!」
「気になるところがあれば、言って頂戴」
浮き上がった文字は、何事もなかったように地面へと吸い込まれて、今やすっかり元の黒インクへと戻っていた。
本音を言うと、契約内容云々よりも、この契約書自体が気になって仕方がないのだけれど。悪魔の契約書とは、ある種のマジックアイテムだったのか。
僕はその奇妙な契約書を手に取り、読めるようになった文字の並ぶ紙面に恐る恐る目を通して給与や勤務日等の各条件を確認していくと、
「……いえ、十分です」
レミリアから受け取ったペンを走らせ、最下段にサインをした。
レミリアの手の中に戻った契約書は、僕が書き込んだ名前を除いた全てが元の英文へと戻り、サインを確かめた彼女は満足げに頷いた。
「さぁ、これで貴方も、晴れて紅魔館の一員よ。契約通り、仕事に入るのは明日からで構わないけれど、そうね――――
「――――はい、ここに」
レミリアの声に、扉の脇に控えていた従者の少女――――咲夜がこちらへと歩み寄って、恭しく頭を下げる。
「矢夜を部屋に連れて行って頂戴。今のうちに間取りくらいは教えておいてね。あぁ、それと、明日から暫くは、彼の仕事の面倒も任せるわ」
矢継ぎ早に投げられていく指示を聞き終えると、咲夜は無表情のまま「畏まりました」とだけ告げ、そのまま身を翻して扉に手を掛けた。
「じゃあ、部屋まで案内するわ。付いてきて」
抑揚のない声で告げ、戸を押し開いて歩き去っていく彼女の背中を、僕はレミリアに一礼してから慌てて追いかけた。