本棚の森を抜けた先にある一角。
少しだけ開けた空間には、ポツリと。
何とか譲り合って、それでもどうにか二人が使えるかどうか、という程度の小さなテーブルが一つ。そして、隣り合うように椅子が二つ、並べられていた。
普段はパチュリーしか利用しないのだろうか、片方の椅子の上には本が山のように積み重なっている。
「ん、しょ……っと。はい、どうぞ」
パチュリーは本の山を机の上に動かすと、椅子を向き合う形に置き直してから指し示した。
「それじゃあ、失礼します」
「ええ、ちょっと待っていて頂戴。お茶でも淹れさせるから」
僕が腰を掛けたのを見届けたパチュリーは、向かいに座ることなくそのまま奥へと立ち去っていく。
一応、本当は僕も給仕をする側の立場の筈なのだけれど。
そう思って腰を浮かせかけたものの、しかし、わざわざ断ったところで微妙な空気になるだけだと思い至った僕は。お言葉に甘えて、その背中は追わずに大人しく座って待つことにした。
しかし、なんだ。
座りが悪いというか、なんだか妙に落ち着かない。一応は勤務時間である所為か、じわじわと膨らんでいく罪悪感に呑まれていくような感覚がある。ええい、休憩のタイミングも長さも自由という最高の労働条件だというのに、どうしてこう……。
遂に耐え切れなくなった僕は、せめて少しくらい整理の手伝いを、と辺りを見回し始めた。
とは言え、勝手も知らぬ大図書館。
そもそも文字が読めないのだから、どの本をどの棚に戻せばいいのかも分からないわけで。せめて、乱雑にばら撒かれたまま放置されている本でもあれば、纏めておいたりとかもできるのだけれど。
結局何も見つけられないまま、ぐるりと辺りを一巡してしまった僕の視線が、最後に目の前の机へと戻ると――――。
「――――読みかけの、本」
出しっぱなしの、散らかりっぱなしが。
すぐ目の前に、ポツリと取り残されていた。……灯台下暗し、とはよく言ったものである。
高く積まれた本の根本に、開かれたままになっている一冊のハードカバー。ページには細かな文字がびっしりと書き込まれていて、魔法陣だろうか、何らかの図形も幾つか描かれていた。……魔導書、という奴だろうか。よく見ると、ページは中ほどから白紙のままとなっていて、すぐ傍らには羽ペンが置かれている。
「いや、違う。これは」
驚いた。
そういった者がいるのは当たり前のことなのだけれど、まさか、初めて会った魔法使いが魔導書の著者だったとは。
どうやら直前まで書いていたらしく、書き込まれたインクは未だ乾いていないらしい。
「――――これじゃあ片付けられないな。しかし、魔導書か」
ちらりと、視線が吸い込まれてしまう。
魔導書というものが、果たしてどういうものなのかは分からないけれど。もしかしたらこれが読むことができれば、或いはこれを手にすれば、魔法が使えるようになったりとか、するのだろうか。
思わず固唾を呑み込んだ。
いけないことだ。本人がいないのに、許可を取っていないのに、勝手に見るだなんて。けれど、頭では分かっていても御しきれなかった体が、既に動き出していて――――。
「覗き見だなんて、感心しないわね」
僅かに身を乗り出すような姿勢のまま、思わず、ビクリと硬直した。
すっかり気を取られてしまっていた僕が全く気付かない内に、いつの間にか戻ってきていたらしいパチュリーがこちらを見ていた。会った時から既に眠たげだったその半目は、少しだけ、先ほどよりも細められているように見えて。
「いや、これはその……ごめんなさい。少し気になってしまって」
「まぁ、別に怒ってはいないのだけど」
平謝りをした僕にパチュリーはそう言うと、向かいの席に腰を下ろした。
その後方には、彼女が連れてきたらしい赤髪の少女が控えていて。サービスカートから二人分のカップを取り出すと、ポットから紅茶を注いでくれた。
ちなみに。
怒られるべき行為を犯した見返りは、一切なかった。誰も彼もが日本語を話してくれているから忘れがちだが、この辺りで一般に使われていると思われる言語は、僕の扱えるものではない。それは昨日の時点で既に分かっていたことであり、つまりは、最初から読める筈もなかったのだ。ああ、この、愚か者め。
「ありがとう」
パチュリーからのお礼を受け取った少女はにこりと笑顔を浮かべ、一礼をしてから去っていった。
その後ろ姿を見て気付いたことだけど、どうやら、彼女もまた人間ではないようだ。
側頭部と背中にそれぞれ生えた羽は余すことなく黒一色に染まっていて、それは正しく悪魔の羽のイメージそのものであった。
「中身は読めた?」
「……いえ。正直、日本語以外は不慣れでして」
「それはあまり関係ないわね。それ、資格がある者になら読めるようにできているから」
その言葉から連想したのは、あの、レミリアが書いた契約書だ。
レミリアの書き連ねた文字は確かに僕の読めないものであったけれど、どういうわけか、僕の手に渡った時には読めるものへと形を変えていた。
この本もまた、『資格』さえあれば同じような動きをするのだろう。
尤も、その資格というものがどういったものかは分からないのだけれど。
一つ確かなことと言えば、とても、とても残念なことに。少なくとも僕には、それは備わっていなかったらしい、ということだ。
「そうがっかりしないで頂戴。そんな簡単に読み解かれたら、私の方が自信をなくしてしまうわ」
パチュリーはくすくすと笑う。
彼女によると、やはりそれは魔導書の類であるらしかった。
大抵の魔導書には、読み解く為には幾らかの条件が必要となる、とのことで。著者によって求められる条件は様々だが、少なくとも、魔法の行使が可能なことが前提となるケースが殆どなのだとか。
「総称して、それらを『資格』、或いは『鍵』と呼ぶこともあるわ。内容それ自体が暗号化されていて、逐一複合化しながら読まなければいけないものもあれば、『鍵』がなければそもそも開くことさえできないものもある」
「今回の場合は前者、ということですか?」
「両方よ。開かれたままだったから必要がなかっただけ」
しかしなるほど、鍵か。
話を概ね理解すると、僕は一つ溜息を零した。
ぱっと見、魔法なるものとは縁も所縁もなさそうなフランにも使えるのだから、魔導書さえあれば簡単に使えるようになるものだとばかり思っていたのに。まさか、その魔導書を読む為に、そもそも魔法が必要だなんて。
そう愚痴を零すと、パチュリーは「酷い思い違いね」と言った。
「魔法に関して言えば、あの子は優秀よ。素質だけ見れば、レミィ――――姉のそれをも凌ぐくらい。本格的に学び始めたのは最近のことだから、実力としてはまだまだ半人前にも満たないけれど、ね」
『優秀』というフランへの評に僅かな希望を抱いた僕は、しかし続く言葉によってあっさり打ち砕かれ肩を落とした。
フランが魔法に精通しているのなら、それはそれで教えを乞えばいいかとも思っていたのだけれど。未だ学びの過程にある者にそれを求めるのは、流石に酷だろう。
それに、これは勝手なイメージに過ぎないけれど。
多分あの子は感覚派というか、天才肌のタイプだと思う。理解するよりも先に実践してみて、一発であっさりと成功させちゃう類のアレ。
……石橋が墜ちるまで叩くタイプの僕とは、何だか、色々と相性が悪いような気もしてきた。うん、推測であれこれ考えるのはやめよう。
「まぁ、貴方に素質と興味があるのなら、簡単な魔法くらいは教えてあげるわよ。……それよりも、今は貴方のことについて、聞かせて頂戴」
「ええ、まぁ……記憶がないので、答えられることでしたら」
パチュリーが本題へと移ろうとするのに合わせて、僕も座り直して背筋を伸ばす。
そうだ、忘れかけていたけれどこれはあくまで業務の一環。彼女に求められてこの場にいるのだ。最大限、その期待に応えなければ。
後は、僕に十分な素質があることを祈るのみである。
「あまりパーソナルな質問はしないつもりだから、安心して。まずは――――そうね。元人間だと言っていたけれど、人でなくなったのはここに来る前?」
「いえ、来てからだと思います。死に掛けた僕を蘇生させる為に、フランが血を吸って食屍鬼にしたのだと聞いています」
僕の答えに、パチュリーは「ふむ」と小さく頷くと、少しだけ考え込むような仕草を見せる。
「それなら貴方は、元々『魔』に関係する何者かの血を引いていた、という可能性が高いと考えられるわね」
「魔……ですか?」
「ええ。あの子に渡した魔導書は、術者の能力や性質に応じた悪魔を召喚する為の術式が刻まれた物。生粋の人間を喚び出すことは不可能なのよ」
パチュリーによれば、魔法とは、奇跡のような不安定で不確かな代物ではなく。誰にでも使えるものではないにせよ、ある一定の、確かな理論に基づいて行使される再現性のあるものであるらしい。
故に、例えば召喚魔法であれば、求める対象に応じてそれぞれ異なる術式を構築する必要があり。おおよそ共通部品と言える大枠こそあるものの、一つの術式を丸々使い回して異なる対象を喚ぶことなどできないのだと語る。
つまり、僕が元から食屍鬼――――悪魔である吸血鬼の成り損ないであったか、元来から悪魔に由来する性質を備えていなければ、此度の召喚は実現し得ないというのだ。
「勿論、魔導書の術式をアレンジして使用することは可能よ。けれど、それには相応の知識、そして経験が必要。フランには、まだそこまでのことは教えていない」
……けれど、自分に悪魔の血が流れているかもしれない、なんていきなり言われたところで、そう納得できるものでもない。
何というか、感覚だとか本能的に「そんな筈はない」と思ってしまうのだ。勿論、記憶がない以上は反論も反証もできないのだけれど。この思いは、一先ず、胸の内にしまっておくことにする。
「そして、フランによって貴方は食屍鬼になった、と。その点も興味深いわね」
続く言葉に、僕は思わず首を傾げた。
咲夜から聞いた通りの話ならば、血を吸われた直後の人間の比較的大半は、食屍鬼を経由するものだということだったけれど。
「その認識は間違っていないわ。私が気になっているのは、『フランが』血を吸ったということ」
「……つまり?」
「あの子はとても不器用で、力加減なんて殆どできないのよ。だから、殆どのものを壊してしまう。とても、素体を傷付けずに血を吸うことなんてできないでしょうね」
下手にやろうものならそれこそ粉微塵よ、と締め括られたパチュリーの言葉に、背筋をぞっと冷たいものが駆け上がる。
つまり、僕は。
たまたま、本当に運が良かったからこうして生きていられているだけで、本当なら今頃、影も形もなくなっている筈だった、と――――?
「たまたま運が良かったのかもしれないし、魔法を学ぶ過程で、あの子が想定よりもうまく加減できるようになっていたのかもしれない。或いは、貴方が特別頑丈だった、という可能性もあるわ。今この場で検証できることと言えば――――」
「人体実験とかそういうのはちょっと」
「あら、残念」
指先に奇妙な光を灯らせ始めたパチュリーに、身の危険を感じた僕は間髪入れずに拒絶の意思を示した。
少なくとも今は、或いは人間の頃よりもずっと丈夫になっているのかもしれないけれど、だからと言って痛いのは嫌だ。
「気が変わったなら、いつでも言って頂戴。歓迎するわ」
「……多分、気が変わることはないと思います」
何やら物騒なことを口走るパチュリーであったが、しかし強行はせずに矛を収めてくれたらしい。指先の光が霧散したのを見て、僕はほっと胸を撫で下ろした。
「けれど、他に可能性なんて――――まさか。或いは……いえ、でもそんなこと」
「どうか、したんですか?」
小さな声で呟くと、そのまま俯いて考え込んでしまったパチュリーに問い掛けるも、反応はない。その表情はどこか深刻そうで、ぶつぶつと何かを口にしては即座に否定して、のサイクルを幾度か繰り返すと。
やがて、声を発することも止めてしまった。
「パチュリー様……? あの、パチュリー様っ!」
少し心配になった僕が、少し身を乗り出すようにして肩を叩くと、彼女ははっとした顔を浮かべてから僕に視線を向けた。
何かを言おうと口を開き掛けて、しかし噤んで。
逡巡するような様子を見せたパチュリーは、最終的に、首を小さく振った。
「……可能性が、もう一つだけあったの。けれどあまりにも不確かで、現実味のないことだったから。この件については、一旦こちらで預からせて頂戴」
いずれ協力をお願いすることになるかも、と言うパチュリーに対して、僕は頷いて答える。
正直に言えば、自分のことではあるのだけれど、どうしても解明したいという類の話でもなかった。
或いは、在り得ないような奇跡が起きたのかもしれない。或いは、僕の出自に、生い立ちに隠された謎があったのかもしれない。けれどそれらは、全て過去の話で。全てはもう起きてしまったことで。今更――――。
そう。今更何かを知ったところで、得るものなんて一つも、何一つとしてないのだ。
けれど彼女にとって。ある意味では研究職とも言える彼女にとっては、そういった謎をこそ解き明かしたいという欲求があるのだろう。
ならば、一介の従者という立場である僕にすべきことは、その求めに応じて協力する。ただ、それだけのことである。
「ごめんなさいね、次に進みましょうか。用意するものがあるから、少しだけ待っていて頂戴」
席を立ったパチュリーを見送った僕は、すっかり飲み忘れていた紅茶に気付いて、口に運んでみる。
……勿体ないことをしてしまったな。後で、あの赤髪の少女に謝らなければ。
僕はすっかり冷めて、香りも飛んでしまったそれを乾いた喉に流し込みながら一人そう思う。
カップをソーサーへと戻すという、簡単な、たったそれだけの動作を。
どういうわけか、僕の意思に反して意味もなく小刻みに震える手が、酷く困難なものにしていて。
……静かな大図書館に暫く。
擦れ、ぶつかり合うような不愉快な物音が響き続けたのだった。