彼にとって森山は己の領土だった。ここには生まれ持った強靭な毛皮を害せるような強者は居らず、生い茂る木々は首を垂れ自ら税を差し出してくる。生まれ持っての山の王。それが自分だった。
ある日、いつものように民草からの供物を食んでくれようと彼は寝所を出た。日は照り木々の隙間から溢れた光は目覚めたばかりで心なしか冷えていた体を柔らかく温めてくれる。冬は遠くない。まだまだ秋の実りは多く今はまだ食べるに事欠く事は無いが、暫くすればあの厳しい季節がまた訪れ眠って過ごす事を余儀なくされてしまうだろう。だからその日が来る前にでき得る限り体に力を蓄えておかなければならない。故に今日も一日胃に食料を詰め込むのだ。
しかし、と暫く周囲を見回った彼は思い返した。昨日までの散策でもうこの辺り一帯の草の根共は自分に捧げるべき実りを出し尽くしてしまった様子だった。ならばきっと今日再度同じ所を訪れたところで多くの収穫を得るのは難しいだろう。であれば、此度は遠征するのも一興かもしれない。
思い立った彼は山を下った。急な斜面の突き出た岩を器用に飛び移り、道なき道を頑丈な前足で踏破して行く。やがて辿り着いた新たな土地には、まだ手の付けられていない木の実や果実がそこかしこに転がっていた。彼は徴収を行う事に決めた。
噛み砕き、飲み込み、己の血肉へと変えて行く。阻む者は居ない。どうやらここも自分の領地だったようだ。であれば何に憚る事もないだろう。目に付く美味そうなものを彼は次々と口に放り込んだ。
暫く一心不乱に取り立てを行っていると、よく聞こえると自慢の彼の耳が、ふと、何かが蠢く音を察知した。それは己の向かっていた方向のすぐ脇からで、彼にはそれが非常に耳障りだった。仔狸程度であれば気にも留めないが、それは何かもっと、自分ほどに大きな体をした何者かの気配だったのだ。
彼は慎重にそちらに向かって歩き出した。実を言えば、それだけの大きさの他者と遭遇するのはこの土地で暮らし始めてついぞなかった出来事であった。細心の注意を払い、しかし争いになった時自分が負けるなどとは露ほども思わぬ堂々たる足どりで何かを伝え合う声の下へと進んで行く。どうやら侵入者は複数居るようだった。
そこで見た物は二つの足で立つ初めて見る生き物である。分かってはいたが、大きい。四足を地に付ける今の自分を遥か頭上より見下ろしている。だがその体には警戒するべき鋭い爪も、大きな牙も見受けられなかった。四肢は細く、満足に食べられていないのかそういう生物なのかは分からないが、全体の体格も自分に比べれば遥かに見劣りする。表皮もさほど硬そうには見えない。負ける要素は無いように思われた。
しかし問題は数である。相手は二人組だった。追い払う事は可能だろうが未見の相手である、何をやって来るかはまるで分らない。大胆ではあるが浅慮ではない彼はまず出方を窺う事に決めた。
暫くの間、互いに見つめ合いになった。相手は少しずつ後退し、それに合わせ自分も少し距離を縮める。最も己の力を発揮できる間合い、それを崩さない慎重な立ち回りだ。何か、もし自分への害意でも見せれば一息に飛び掛かり、その柔肌を蹂躙してやろうと彼はにらみを利かせていた。
じり、と相手が動く。その足が、急にその速度を速めた。その動きに彼の脳は過敏に反応した。尖らせた神経が全身に攻撃命令を下し、一息でその距離を詰めてくれようと両足に力が掛かる。
その瞬間に、先ほどまでとは比較にならない轟音が鳴り響き、咄嗟の警戒に彼が目を見開いた時には、既に自分の間合い内にそれが入り込んでいた。
なんだこいつ!?
いつの間にそこに居たのか、彼には殆ど理解できなかった。全くそれがいつ出現したのか見えなかったのだ。一応、外見的には背に硬そうな甲羅を背負ってはいるが奥の二人よりはかなり小さい。力強さという物はそこには無く、毛皮に覆われているでもない首元に爪の一撃も見舞ってやれば、そのまま絶命しそうなほどにか弱く見えた。
だが、ああ、何という事だろうか。彼は彼が思っている以上に賢く、愚かではいられなかった。僅かな時間で彼は理解していた。あれは、紛れもない、間違いようもない、自分の死そのものであるのだと。
目の前のそれは自分を目の前にして警戒態勢にすら入っていないように見えた。敵意も悪意も無いのだろう、むしろこちらの存在に驚愕している様子である。しかし、それから受ける印象は、何か全く得体のしれない、ただただ強大な物であった。今まで支配者であったはずの己は酷く矮小な存在でしかなかったと、今初めて感じる五感を越えた何かが告げていた。
湧き上がったのは純粋な恐怖である。四つの足は震え、今まで己の中に聳えていた誇りは自ら砂となって崩れ落ちた。本能が、魂が叫ぶのである。終わりだと。
顕現した己の死と向かい合った者の反応は主に二つ。反抗か、逃避か。だが、彼の選んだものはそのどちらでもなかった。堂々と、崩れ落ちそうになる四肢を辛うじて残った砂粒の自尊心で抑え込み、その顕現した恐怖の化身の前に歩み出て見せたのである」
「どうした急に」
クマーさんの相手してたら突然猫吊るしが何らかの電波を受信し始めた。流石に野生生物がそんな面白いことを考えてはいないだろう常識的に考えて。いや確かにゆっくり静かにこちらに歩み寄って来て停止してるし、なんかこう体勢的に首を差し出してるみたいになってるけども。絞首台に送られた王族が最期まで無様な姿は見せないようにと気高く振舞ってるような風格は感じるけれども。
私は飛び込んで行って突然の熊に驚いてウカツにも動きを止めた。まあその場の全員みんなびっくりしたみたいで人も獣もみんな停止状態になってたから問題は無かったんだけども、そのまま推定ツキノワグマと見つめ合う事数秒。彼、もしくは彼女はこちらに大人しく投降した。そしたら猫吊るしがなんか言い始めた。正しくはないと思う。
しかし襲い掛かって来ないとはいえ相手は野生生物、どうしたものかは普通に困る。後ろの人達もどうしたらいいのか困惑している様子で、逃げるべきなのか留まるべきなのかも分かっていないご様子。
熊さんは大人しいしちょっと撫でてみたくなる衝動に駆られるのだけれども、野生の生き物にそんな事していいのかどうかがよく分からん。とりあえずここから急に襲われても艤装のおかげで怪我とかはしないはずなんだけど、私スルーして後ろに向かわれるとちょっと困る。いや取り押さえる事は普通に可能だろうけど、怖がらせちゃうし。やっぱり熊さんにはどうにかご退散願った方がいいだろう。とりあえず、突然暴力的になるのはどうかと思うので、伝わるかは分からないが目線を合わせて忠告してみる事にした。
「やまへかえるんだなおまえにもかぞくがいるだろう……」
猫吊るしが咽た。いやしょうがないじゃん出ちゃったんだから。ソレントへ帰れよぅとか歌い出さなかっただけマシだよたぶん。
肝心の熊の方はというとじっと何か覚悟の決まってそうな瞳でこちらを見つめるばかりである。当たり前だけど何言われてるか分かってませんねこれは。仕方ないのでちょっと失礼して、体を持ち上げて反対側を向かせる。そしてぐいっと尻を押してやった。特に抵抗もなく前に向かって微動だにせずに少しだけ熊は押し出された。
何度かそれを繰り返すと、そいつはゆっくりと不思議そうに一度こちらを向き、慎重に前に歩き出した。なんか恐る恐ると言った様子に見える。でも二十歩くらい行った所でもう一度振り返ると、突然弾かれたように走り出し木々の中へと消えて行った。
私の耳には熊さんが駆けて駆けてとにかくここから逃れようとするのが視える。一心不乱に走っているのでたぶんこっちに戻ってきたりすることは無いだろう。いったい何から逃げてるんでしょうねえ……野生の希少種っぽい相手に危害加えるつもりなんてこれっぽっちもなかったんだけれど。そんなに怖いのかなあ私。
っていうか、言っといてなんだけどあのツキノワグマって家族とかくまぴょいする相手とか居るんだろうか。最後の一頭とかそんな事無いよな……?
熊の脅威が去ったと見て、後ろの人達は全身から力が抜けたようだった。へたり込んだりするほどではないみたいだし、私へ警戒というか困惑というか猜疑というかなんなんだこいつみたいな目線は向けたままなので緊張が完全に途切れた訳ではないようだけど、先ほどよりも明らかに危機感はないように見える。まあ、言葉が通じるだけ私の方がマシなのは間違いない。
とりあえず振り向いてお怪我はありませんかーと確認し、狼狽した様子ながら特に問題ありませんと帰って来たので通信機で川内さんに連絡を取る事にする。追いつくって言ってたけど、たぶん想定外に私の移動経路が真っ直ぐだったと思うし。
「こちら吹雪、応答願います、どうぞ」
『こちら地上探索班川内、状況を。どうぞ』
出るのは凄い早かった。すぐ出れるようにって構えていたんだろうか。通信機の向こうから漏れ聞こえる息遣いはそんなに変わった所はないけれど、集中すると凄い動いてるような風を切るような音が後ろで鳴っている。これは……走って追いかけて来てる? どうやら本当に合流する気だったようだ。
「生存者と思われる二名を保護しました。迷彩柄の上下を着た男女です。どうぞ」
『了解……襲ってたって奴はどうなった? どうぞ』
「熊だったので山へ帰しました。どうぞ」
ん? と疑問の声の後、川内さんから返答が少し止まった。動く音は続いているが、エンジン音は聞こえないためやっぱり走っているっぽい。
『球磨? ……艦娘?』
「いえ、熊です、ツキノワグマ……ベアーですベアー。どうぞ」
熊ぁ!? と大きな声が通信機と林の入口の両方から聞こえて来た。思ったよりずっと近くに居たようだ。通信している声が漏れ聞こえたようで生き残りであろう二人も苦笑いしていた。
川内さんから指示されて私達は林の傍の整備された道まで降りる事になった。どうやら川内さんは私が発った後に自分も跳躍して、ちょくちょく改造され続けてるらしい暗視ゴーグルの別機能も使って私が林に踏み入るまでは視認していたらしい。でも、そこから先はどこまで行ったかちゃんとは分からなかったのだそうだ。いや足跡残ってるだろうから捜索すれば分かるんだろうけど時間の無駄だしね。
合流し、やっぱり跳んで走って来ていた川内さんと一緒に車を待ちつつ民間人のお二人から話を聞いたのだけど、何でもこの二人、私達が通って来た町とその先にある海の様子を調べにやって来たらしかった。そのために双眼鏡なんかも持っていて、林の中に居たのは敵――つまりは深海棲艦に見つかり辛くするためだったようだ。四国でもそうだったけどあいつら基本道があればそっちを使うみたいだから確かにそれは効果的だろう。まあ全然関係ないとこから突撃してくるようなのも居るみたいだけど少数派らしいし。言ってはいなかったけど迷彩服なのも対策の一環だろう。
海に深海棲艦が少なかったのと同じようにここ最近は内陸部でも深海棲艦の目撃数なんかが減っていたんだそうで、そのためもしや何か変化があったのではないかという事で調査に駆り出されたのが彼らだった。くまさんに出会ったのは完全に想定外だったそうな。そりゃそうだ。
私達の正体についてはお二人はかなり驚いていた。というのも、私はどう見ても成人してないし川内さんも改二になってから若々しさに磨きが掛かっているからだ。川内さん、元々あんまり大人っぽくないというのに改二になって某夜戦忍者の影響を更に受けだしたせいか言われないと学生に間違われるレベルなんだよね……見た目はそんなに変わってないんだけどなんだろう、雰囲気がそう思わせるんだろうか。改二の制服も相まって自衛隊員とは言ってもまず信じられないレベル。実際彼らが完全に信じてくれたのは装甲車で迎えに来た龍驤さんと多摩さんを見てからだった。二人も年を重ねてるように見える訳ではないんだけど、私や川内さんに比べればまだ納得の範囲内だったのだろう。なお島風の服装。
さてこの発見されたお二人であるが、とりあえず本人達が良ければ泊地に案内するようにと提督から指示が来た。っていうのも、避難先に戻って適当な事を吹聴されたら困るからである。誤解を恐れない言い方をするならそもそも私達は彼らを直接救援に来たわけではないし、目的を達成してその救援がやって来れるようにする目途もまだまだ立っていないのだ。だからしっかり現状を理解して貰って、黙っていてもらうかちゃんと正確な情報を伝えてもらわなければいけない。食料支援とかもあんまりできる様な状態じゃないから仕方ないね。
彼らは海に近づく事に難色を示していたのだが、私達が寝泊まりしているような所で見回りや見張りなんかもきっちりされているとちゃんと説明して、ちゃんと戦えるのだとその辺りに放置されてた車を持ち上げて見せたりもして最終的には説得に成功。彼らも情報は欲しかったようで、車の中でお互い情報を交換したりもしたのだけれど、その中には気になる点が幾つかあった。
一つは私達が向かおうとしていた地点の周辺の話。そこは彼らの拠点としている町からは遠くないらしいのだけれど、数か月前にその辺りにあった谷が面影も残さずに崩れ落ち、流れていた川ごと完全に埋まってしまったらしいのだ。その上で、どういう訳かその川の流れ自体はせき止められず、上流からの水は海へと流れ出続けているのだと言う。そして、その谷から流れてる水は、海の水と同じようにどす黒い赤に染まってしまっているらしいのだ。
二つ目はその谷が崩れてしまったと分かる少し前に、その付近で多数の人型の深海棲艦が人型でない者を引き連れて闊歩していたのが発見されている事。そして三つ目はその前後に何か酷い轟音が谷の方から響き渡っていたという事だ。
これは完全に当たりだろう。っていうか、もうこれどう考えても川の上に変色海域の核を設置して谷爆破して埋めて帰っただろあいつら。ふざけんな。土木工事必要なレベルの遅延行為とか誰だよ考え付いた奴。っていうか水が流れ続けてる辺りあいつらも普通に埋めたんじゃなくて何らかの工作してるだろ。地雷とか埋めてあっても何の不思議もないぞこれ……
あと一連の話で少し気になったのだけれど、音のしてた時期がどうも私達が九州どころか四国に到達するよりも前っぽいんだよね。たぶんクジラを解体した後くらいだろうか。埋めるのって向こうにメリットばっかりある訳でも無くて、時間さえ掛ければ確実に核が破壊されるってデメリットもあるはずなんだけどって猫吊るしが言ってるんだけど、深海棲艦はそんな前から九州放棄を視野に入れてたって事なんだろうか。悪い事考えてそうで嫌だなあ。
最後に気になった四つ目の話。なんかぁ、この人たちの上司というかまとめ役みたいな人が居るらしいんだけど、その人、目元に黒子のある髪を青っぽく染めた美人の日系人で月島さんって言うらしいんすよねぇ。やっぱり各地に遍在してんのかあの人。っていうか月島って事は淡路島の件の行方不明者もそうだったっぽいなこれ……間違いなく北海道にもいるんだろうなあ。それできっとそこでも人助けしてるんだ。すげえ有難いな何なんだあの人。
泊地まで二人を送り届けると私達は再出発した。向かう先は同じ方向だけど目標地点はさらに明確になっている。とりあえず崩れたという谷を見に行く事に決まったのだ。そこじゃなかったらマジでもう手がかりが何にも無くなるからこれで終わってくれるといいんだけどねえ。
なんて思いながら同じ道を再び行く。今度は悲鳴が聞こえるようなトラブルもなく、私達はあっという間に市街地を抜けた。そのまま元々人気の無さそうな、でもしっかり舗装された道を装甲車で進んで行く。インフラ整備の賜物である。さらに奥がどうなってるかまでは知らんけど。
聞いた通り行く道にも周囲にも深海棲艦の気配はほとんどなく、あってもイ級が一匹だけでとぼとぼ歩いているだけとかそんなんだった。一応許可を得て狩っておいたけど、軽く調べたらそいつと来たらまともに弾薬すら持っていなかった。きっと迷子になって彷徨ってただけだったんじゃあないだろうかと思われる。考えてたより内部はずっと安全そうで驚きしかないのだけれど、まあ解放後の救援活動や支援物資の運搬は四国よりもかなり楽に進められそうだから良かったんじゃないだろうか。
道のりを快速に突き進み山の方へと分け入って暫くするとさほど大きくはない川が見えて来た。流れはあまり急ではなく深くもなさそうで渡ろうと思えば簡単に渡れる程度の物なのだが、その河水は聞いた通りに赤黒い。これを追って遡上して行けば件の場所にまで着くのだろうと思われる。ただ、川沿いに車が進める道路が存在していなかったため、そこからは徒歩で谷を目指す事になった。
河原……というには狭いそこは整えられてはいなかったが特に歩き辛いという事もなく、私達は順調に進んで行った。やはり変色しているからかそこに命の気配はなく、どことなく周囲はうすら寒い。一応私達は川の上も歩けるのだが、なんとなくみんな地上の方を選択して谷の方へと向かう事になった。
やっぱり敵とか居ないなぁと思いつつ、頭の上で反応完璧にこっちからだわって上流を指してる猫吊るしにも進行方向の正しさを保証されながら早足で歩く事一時間くらい。私達は川の出現地点まで到達した。変な言い方だと思うが、その地面の下から急に赤い水が噴き出しているのだから仕方がない。その奥は何と言えばいいのだろう、急な坂? 20mくらいはあるか、確かに崩れて谷間ごと埋まってしまったような状態で、ただ、川の周囲は明らかに自然の仕業とは思えない程度には押し固められているように見えた。
とりあえず猫吊るしを放り投げて上からも見てもらったのだけど、やっぱり無理矢理崩されてこうなったんじゃないかと思われるらしい。時間が経ってるからそれなりには自然に見えるらしいけど猫吊るしの目は誤魔化し切れないようだ。
方向も上からと下からの反応を合わせて鑑みるにこのすぐ奥、完全に崩れたその地中ではなかろうかという話である。龍驤さんがマジかぁと呟いた。気持ちは分かる。だってここ、重機使って掘り返そうと思ったら道を作る所から始めなきゃならない程度には奥地だもん。いやそこまで距離はないんだけど、地図を確認してもここに昇って来る道も下りて来る道も無いんだよね。明らかに狙ってここに設置されてる。どんだけ遅延行為好きなんだよ。
川内さんが提督に報告している間に、私は新しい斜面と化したそこを少し調べてみる事にした。よく固められている箇所に耳を付け、目を閉じ土砂全体に耳を澄ます。島風が何やってんだこいつって雰囲気でこっち見てるけどこれが一番分かるんだからしょうがないじゃん。
土の向こうから主に聞こえてくるのは下を通っている様子の川の流れ。どうやら金属的な物かとにかく硬い何かで流れを保護されているようで淀みや閊えは全く無く、ある程度なら増水しても溢れ無さそうな気配を感じる。上流がどうなってるかは分からんけど氾濫は今の所してないんじゃないだろうか。そんなに大きな川じゃないからしてもそんなに脅威にはならなそうだけど。
そんな流れのさらに奥、崩れた土砂とその下にある元々の地面に跨るように、何か巨大な塊が鎮座しているのが分かる。直径にして十メートルくらいはあるか、気配からしてもたぶんこれが変色海域の核だろう。普通の物は一メートルあれば大きい方なのでこれはかなりの大物である。質量にしたら千倍近くある事になるし。
構造的には川の幅を無理矢理広げた場所の真ん中にそれが突き刺され、それを何かで固定している感じになっている。周囲を水が流れているみたいで、もしかしたらこんな所に設置するためにそういう構造にする必要があったのかもしれない。普通は海の上か近くにあるもんなぁ。
そしてその周り……というか、埋め立てられた土砂の中に満遍なくなのだが、大きな金属製と思われる塊がばらばらに埋まっている。私としては凄く馴染みのある造形、おそらくイ級とかロ級とかハ級とかニ級だろう。おいおい深海棲艦埋まってんよここ。あれか内側から崩したら自分達ごと埋まったとかなのか。なにやってんだこいつら。
っていうか、たぶんこいつら生きてるよなぁ。今は動いてないみたいだけど、掘り出したりしたら動き出しちゃうんじゃないだろうか。人形っぽいのは居なさそうだし、もしかしてわざと部下を埋めたのか。嫌がらせで。
「……という風に感じられるので普通に掘り出したら危ないと思われます」
「時間稼ぎに全力過ぎだろ……」
川内さんに言ったら説明難しいからって提督に直接報告させられて、終えたら猫吊るしのぼやきが入った。龍驤さんによると周囲に敵影も無いらしいのでここを囮に周囲を囲んでくるとかそういう事もないっぽい。マジで勝つ気のあるやり口じゃないのである。島風もさっさと解決させてくれない事にご立腹だ。速さだけじゃなくて早さもあった方がいいらしい。
宮里提督は報告を基に大淀さん達と対応を考えるとの事で、とりあえず私達は周囲を見張りつつできる範囲で調査を続ける事になった。上流でも見てくりゃいいんだろうか。奥に目標があるのが分かってるのに直接攻撃できない事に島風も不満そうである。普段から少し眠たげな目がさらにジトっと細められた。
「もう吹雪が押しつぶしちゃえば?」
「いや、流石に衝撃分散されちゃうんじゃないかなあ」
「行けたとして思いっきり土が爆発して悲惨な事になりそうだよな」
確かに、多少固められてるとはいえ土砂だから飛散して最悪私が埋まりそうである。っていうか島風は私の事何だと思ってるんですかねぇ。日頃の行いが悪いという自覚はあるけども。
「やるなら衝撃だけ中に貫通させるとかそんな事でもできなきゃ危ないと思う」
「浸透勁とかか? 吹雪って剛拳タイプだもんな戦い方」
「できないの?」
「できる訳ないでしょ」
っていうか実在するのかそんな技。多少ならともかく完全に力を内側にだけピンポイントでぶつけるとかできたらそんなのマジカル太極拳もびっくりじゃん。いや待てよこの世界ファンタジー世界だから無いとは言い切れないかもしれない。でもそんなもん使えそうな人とか心当たりが……心当たりが…………
私がちらりと後ろを振り返るとそこに居るのは川内さんである。龍驤さん多摩さんと一旦休憩にしようかと相談している所だった。いやでもなあ。いくら素手で深海棲艦倒せるからって流石にそんな変な技使えたりはしないと思うんだよ。
あ、でも、もしかして使い手の知り合いとかは居たりしないだろうか。
「川内さん、攻撃した個所より奥に衝撃が貫通する技とかに心当たりってあります?」
「どうした急に」
川内さんは突然話しかけられて訳の分からない事を言われて戸惑ってしまったようだった。流石に急すぎたらしい。
「柔拳とか浸透勁とか言われる奴です」
「いや、それは分かるけど流石に……」
川内さんは難しい顔になった。流石に無いか。
「うちの奥義の一つだから吹雪でも一年、いや一月くらいは……」
「あるんかい!?」
ツッコミは龍驤さんから食い気味に飛んだ。島風はその早さにオウッと目を輝かせていた。
「じゃあ行きまーす」
私は埋まった谷の正面に立ち、背の向こうの皆へ通信機越しに声を掛けた。谷からはちょっと離れて貰っていて、失敗しても安全なはずである。通信機の向こうからはオーライと返答が返って来た。川内さんの声だが諦観に満ち溢れている。
いや、悪い事したような気はしてるんだ。休憩時間中に実演して貰って手取り足取り教えて貰ったら頭の中に電球が浮かんでやり方分かっちゃったのは流石に罪悪感しかない。チート能力さん最近自重なくなってない?
それはともかく、なんかやれそうですって宮里提督に報告したら、少しでも不安点があるようなら絶対やらないでくださいって言われたのでもっと念入りに調べて、別に中に爆発物が仕込まれてるとか特にそういう事はなさそうだったので私達はやる事にした。
両足を地面にしっかり付け、二つの掌も正面の土砂にぴったりと当てる。事前に斜面を少し削り取る事でまっすぐに整形し、力が奥にまで届きやすいよう加工してある。ついでに固めてあるのでもし失敗しても多少崩れにくいだろう。普段頭の上に居る猫吊るしには艤装の中に入って貰っている。最悪の場合私の体を操作してもらう事もあるだろうしね。
そのまま体中の無駄な力を眠らせるように一旦抜いて、私は息を整える。そこから一気に目覚めるように、全身の筋肉に活力を与え、それらから生まれた力を心臓で束ね、体の中心から両の掌へ、そこから目標物へと一斉に撃ち放った。
島風曰くその瞬間、ズン、と地面が揺れたような気がしたらしい。他へ衝撃が行ってるって事は完璧には成功してなかったんだと思う。
でもとりあえず、私には衝撃が土の奥の奥にあるその塊の内部で炸裂したのが感じられた。突然目の前の壁が崩れ落ちたりして来ないだろうかと警戒をしていたがそんな事は無く、やがて噴き出していた赤い水が透明になり、中から細かな色の無い結晶が流れ出て来るのが確認できた。どうやらしっかり内部で粉々に砕け散ってくれたらしい。とりあえず報告を、と思い通信機を手に取ると、逆にコールが掛かって来た。
『もしもし、お姉ちゃん? なんかやった? どーぞー』
「え、初雪?」
通信相手は思ってもない人物だった。あれっと思ったのだけれど、そうか、ここのが本体なら海の方でも分かるのか。
「ああ、うん、核壊したよ。今そっちどうなってる? どうぞ」
『やっぱり……こっちは真っ青だよ。空も海も。どぞー』
どうやら本当に色々終わったらしい。とりあえず報告とか色々せにゃならんので一言断って通信を終え、川内さん達と合流する。ああでもどうしよう。核しか潰さなかったから、深海棲艦は埋まったままなんだよね。
なんてそんな心配をよそに、虚無の表情からいつの間にやら元に戻った川内さんは私の背中をばんばん叩いてくる。何か良いことを思いついたようで、笑顔を浮かべて突然それを言い出した。
「吹雪! 家に養子に来て家業継がない!?」
「いや私の家親子仲悪くないんで」
っていうか普通に嫌だよ、川内さんちの家業ってそれ絶対忍者だもん……
「吹雪、ちょっと思ったんだけどにゃ」
谷や周囲の変化を警戒しつつ、川から流れ出続ける核の破片を勿体ないから皆で回収していると、多摩さんが声を掛けて来た。何だろうと思いそちらの方へ振り向くと、多摩さんは何か非常に言い辛そうな表情で私に向かってこう告げた。
「吹雪なら普通に連装砲で撃てば届いたんじゃないのかにゃ……?」
私は何度か瞬きをした後、あ、と間抜けな声を上げた。
土嚢も基地の壁もぶち抜く凄い砲撃だよ!