暑い。
快晴の青空から爛漫な太陽が紫外線で肌を突き刺してくる。体の水分はとうに抜け、辺りへ霧散し真夏の湿度の一部になった。しっかりと飲んで出たというのにこのままだとミイラにでもなりかねない。座る乾いた木板のベンチも軋んで同意の声を上げていた。
持って来た水筒に口をつけ、中の甘露でのどを潤す。なんの変哲もないただの水だったけれど、あまりに美味なそれはあっという間に半分くらいになってしまった。もう二本くらいは持ってくるべきだっただろうか。取りに戻ることも検討しつつ少し遠くに目をやれば、青々茂った名前も知らない植え込みのまばらに開いた木漏れ日の下で、五人の少年少女が暑さなんて知った事かと和気藹々と戯れている。この時期はどうやら学校も休みのようで、娯楽もない、町というよりもはや村と言った方が近いここでは外で遊ぶほかないのだろう。着任して以来顔ぶれが変わらない辺りに人口密度の低さが窺えた。
昼過ぎの苛烈な気温の攻勢を物ともせずに跳ね回る子供達を視界の隅に収めつつ、遠くの空を見上げて深く息を吐く。抜けるような、雲一つないそこは今日も異常無し。まるで夏休みに田舎に遊びにでも来たようだと呆けた思考に浸りつつ、太陽のあまりの眩しさに瞼を閉じた。
頭部への刺激と起床を促す快活な声が、微睡む意識にねじ込まれる。
軽い額への振動と軽い調子の声に瞼を開くと、目の前ではほんの少し茶色がかった瞳の女の子が悪戯っぽく笑っていた。同じ色の、油断するとすぐはねるという短めの髪の向こうでは陽が陰り、眩しさも少しはましになっている。
どうやら意識が落ちていたらしい。昨晩も早めに寝たというのに、あまりの暑さに体が耐えられなかったのだろうか。もしかしたら眠りではなく気絶だったのかもしれない。
知らない虫の声をBGMにそんな事をぼんやりと考えていたら、もう一度だけ軽く額を叩かれた。やった張本人は微かに笑うとベンチに置かれた水筒を目ざとく見つけ、少し汗ばんだ手でそれをさっと取り上げた。貰っちゃうよと言うが早いか口が開かれ、中身が一息に飲み干される。化粧っ気の全くない、その薄い唇から漏れた一滴を手の甲で拭うと、生き返るわーと彼女は満足気な声を上げた。
自分が口をつけた物であると思い出し、僅かにその口元を見つめてしまうが、彼女の方にそれを気にする素振りはない。半分も中身が減っていた事に気付かなかったはずがないが、そんな事を問題にするような性格ではないのだろう。まだまだ付き合いの浅い間柄ではあるが、色々と大雑把というか、細かい事に囚われない人物である事は散々理解させられていた。
こちらの視線に気付くとむしろ飲み干してしまった事の方を気まずく思った様子で、ほとんど空になった水筒を半笑いで誤魔化すように投げ渡してくる。咄嗟の事に慌てて受け止めれば、その様子がおかしかったのか口元の角度を深くして、厭らしさをまったく感じない本物の笑顔を見せてくれた。若干遺憾である。
一緒に遊んでいた子供達はどうやら家に帰るようで、道なりにある気を惹かれるものを弄りながらゆっくり去って行く所だった。それを二人で見守っていると、彼らは奥の下り坂付近で一度足を止め、大きくこちらに手を振ってきた。また明日との無邪気な声が喧噪のない小さな港町いっぱいに広がった。
道の向こうから掛けられた少年たちの大声に、これまた大きな声で彼女は返す。年の頃が地元の子らより少し上に見えるためか、ここ数日は姉貴分のような扱いをされている。最初は警戒されていたようだったが、子供心を掴むのが上手いのか、打ち解けるのは早かった。
暮れては来ても未だ強い日差しの中、体いっぱいに手を振る少年少女。それは田舎の子供達が早めに帰路についただけの、一見すれば普通の日常風景だろう。きっと未来では、知らない所から来た年上のお姉さんに遊んでもらったある夏の日、という幼心に残る素敵な思い出だとかになるのではないかと思われる。
こんな日が続けばそれがきっと一番いいのだろう。なんとなく老成した気分になった。
舗装も碌にされていない田舎道を、しっかりとした足取りで歩く彼女に先導されながらそこそこのペースで進んで行く。ゆるい坂を上がれば爽やかな潮風の香りがして、日の光で煌めく大海原が見えてくる。横を向けば幾つかの小さな漁船とささやかな港、それに古さを感じさせる木造の家が立ち並ぶ、背の低い街並みも眼下に広がっているだろう。まるで大昔で時が止まったようだと最初は感動したものだ。こんな素敵な場所が残っているものなのだと滞在できることをある種の役得にすら感じたほどだった。
尤も、実際に過ごしてみればその圧倒的な不便さに、すぐ都会が恋しくなってしまった。慣れればなんという事もないのかもしれないが、ネットワークにすら碌に繋がらないというのは大企業のお膝元で生まれ育った人間にはかなり辛いものがある。制御のされていない気候や碌に予知もされない天気なども中々に過酷で、日が照っているのに髪から滴るほどに降られた時など暫く呆然としたものだった。
とはいえ悪い場所ではない。商店が町に一か所しかなく配送もやっていないため片道一時間かけて食料の買い出しに行かなければならなかったり野生生物や羽虫が多く出るため昼夜を問わずそれらに困らされたりはしたが、決して悪い所ではないのだ。
少し警戒されてはいたが住民の当たりは柔らかく親切で、創作話に有りがちな差別的な扱いなどは受けなかった。成人した自分と学生くらいの年齢に見える少女という二人組を怪しんだお巡りさんに声を掛けられたりはしたが、それは職務に忠実が故だろう。見せた身分証に書かれた年齢を見て初老の彼が眼鏡の奥を丸くしていたのはまだまだ記憶に新しかった。
そんな事を思い返していたら、いつの間にか拠点へと帰り付いていた。海岸近くの高台にある木造の平屋。人口密度が低い故に贅沢に土地面積を使われた、少し古めで案外しっかりとした造りの、普通の民家。そこは実の所、郵便受けから鍵を取り出している少し不用心な彼女の、幾つかあるという持ち家の一つだった。
赴任前の顔合わせの際に聞いた話では、彼女は相当な資産家なのだそうだ。運用こそ自分では行っておらず本社のその手の部署に丸投げしているらしいのだが、そのおかげで逆に増えてしまっている……らしいと自分で言っていた。実際どうなっているのかはよく分かっていないらしいので、ちょっと心配になってしまう。いや勿論、任せている人達を信用しての事ではあるのだろうけれど。
基本的に贅沢をする性質ではないそうで、実際、服から食事から一般的なそれと大差はなく、今日まで同じ屋根の下で暮らした印象だと、むしろ質素な暮らしぶりを好んでいるように感じられた。意外な事に自炊も得意なようで、滞在費は予定よりかなり安い金額に収まってしまっている。
そんな意図せず倹約をしている状態の彼女であるが、ただ一つ、気に入った土地に別荘を買うというそこそこ金の掛かる趣味だけは止める事ができないのだという。それ程再訪する事もないとの事で悪癖の部類ではあるそうなのだが、今回それによって白羽の矢が立ったのだから人生分からないものである。
彼女は履き物を脱ぎ捨てると、初日は掃除に手間取らされた屋内にさっさと上がりこんだ。居間に持ち込んだウォーターサーバーから生成された水を少し日に焼けた手でコップに注ぎ、それを口にしながら別のコップに二杯目を入れるとこちらに向かって差し出してくる。有難く受け取ったのだけれど、伸ばされた腕とゆるくたれた半袖の服の隙間から、真っ白なものの紐が覗き、少しだけ気まずい思いをしたのだった。
少し早いが夕食の準備を整え、だんだんと物が増え生活感の出てきたリビングの食卓に並べていく。と言っても大した献立ではない。主食に蒸かしただけの芋、それとゴマ抜きの大学芋というシンプル過ぎる内容だ。蒸かすのはほぼほぼ機械任せで大丈夫だったため、自分がやった事はと言えば彼女の作った大学芋を冷蔵庫から取り出して盛り付けただけである。
勿論、毎日こういう献立だった訳ではない。全体的に茶色系な物が多かった気はするが、毎日そこそこに手の込んだものを彼女は手早く拵えていた。今日の惨状はこの後の予定的に万一にも消化不良などを起こさないものをと相談して決めた結果なのだ。けれど。まあ、侘びしい食卓という印象が拭えないのは確かだった。
せめて茶は淹れようとケトルを火に掛け、椅子の上に乗っていた小物を片付ける。少年らと遊んだ結果増えて行ったもので必要かと言われるとそうではないだろうが、積極的に捨てたいと思うものでもない。とりあえずそれらはテーブルの脇に積んで置き、彼女を呼ぼうと居たはずのソファの方に目を向ければ、そこにあったのは夏の日差しで少し焼けた健康的な四肢を投げ出して、床に放り出されたクッションに気持ちよさそうに頭部を埋める緩み切ったその人の姿だった。
体には薄い生地のTシャツが汗で緩くへばり付いて、その裾が少しめくれ上がっているものだから、軽くへそが覗いてしまっている。短いデニムのパンツは腰のあたりまでずり落ちて、あとほんのちょっとずれただけで下着まで見えてしまいそうだ。高くない鼻からは規則正しい寝息が洩れているが、同時に口元も半分くらい開いてしまっている。この時間でもまだまだ残る熱気に全身は蒸され、首筋を流れた雫がクッションに吸い込まれ消えていった。衛生的には洗った方がいいのだろうか。別に彼女の汗のにおいが気になるだとか、そういう事ではないのだけれど。
起こそうかと声を掛ければ寝返りを打ち、枕代わりのそれに彼女は顔を埋めてしまった。寝起きが悪いという事はないはずなのだが、そのまま動かずまた小さな呼吸音を漏らしだしている。丁度眠りが深くなり始めた頃合いだったのかもしれない。
無理に起こすと後に響く可能性もあるだろうかと一瞬だけ悩んだが、予定が早まる可能性がまったくないと言い切れない以上、無理にでも起きて貰った方が期待値的には安定だろう。声だけでは目覚めてくれないようなので軽く揺さぶろうと手を伸ばし、ちょっと迷って彼女の顔が埋まっているクッションの方へ指を掛けた。
それが良くなかった。急に振動が加わった事で体が反応したのだろうか、彼女の手が伸ばした腕をしっかと掴み、それをそのまま自分の方へと引き寄せたのだ。体がひっくり返る。純然たる力の差で抵抗さえ許される事無く、気が付けば、背中を彼女に向けるような格好で一緒に床に転がっていた。
するりと腕が腰に回され、健康的な肉付きの肢体が己の後ろ半身に押し付けられる。脚も脚で抑え込まれ、柔らかなそれに異様な程にしっかりと固められてしまっていた。背中の上の方に顔が埋められたのか、吐息に肌がくすぐられる。その静かさと規則正しさから、どうやら眠りは継続しているらしいと察せられた。
さきほどまで外で汗をかいていた身、臭わないだろうかと少し心配になるが、むしろ彼女は深く顔を押し付けて来る。同時手足の力も少し増した。完全に抱き枕か何かと思われているようだった。
このままでいるのは何かと問題が多そうなので抜け出してしまいたいところだが、生憎それは不可能だった。純粋に、筋力に差があり過ぎたのだ。しっかりと回された腕は身を捩っても緩まるような事はなく、気付けば自分の片足に彼女の両足が絡み付いている。動かそうとしても固められた部位はまるで動かなかった。
普段通りならば見た目相応の体重しかない彼女ごと無理矢理立ち上がるのは不可能ではない。だが今回は態勢が悪かった。起き上がろうにも横倒しで上側の足を取られていてはまともに姿勢を変えられない。時間的にはまだ余裕があるため起きるのを待つしかないのだろうか。などと考えている間にだんだん腕と足が力を増し、締め付けがきつくなってくる。痛みなどまるで無かった全身にじわじわと彼女の肉体が食い込みだす。軋み始める骨、圧迫されだす内臓、不味い方向に曲がる関節。各所に力を入れ抵抗を試みるがあまりに無意味。儚い通常人類の限界である。
回された腕を全力で叩いてタップを宣言するまでに何十秒も掛からなかった。
あれで本当に眠っていたという彼女と侘びしめの食事を終え、準備を整え夜を待つ。眼下に海岸の広がる縁側に掛け、温めに入れた茶を味わいながら上からの情報を受け取れば、現状異常は無しであるとの事だった。
内容、予定時刻ともに変更無しだと伝えれば、彼女からはとても軽い相槌が返ってくる。あまりに普段通りな声が気になって、靴を地面に放り出して足をぶらつかせる少女のようなその姿に目をやるが、映るバイタルサインは異常無し。普段よりは若干脈拍等は早いためまったく緊張感がないという訳ではなさそうだが、表面上の変化は見られなかった。出張しての仕事は初である自分と違い、ある程度慣れているという事だろう。視界とリンクした端末でこれ以上の詳らかなスキャンまでする必要性は感じなかった。
自分を見つめる視線が気になったのか、ふっと、すこしおかしそうに息を吐くと、今夜あるお祭りに行くかどうか、彼女は笑顔で聞いてきた。まるでいつも通りの曇りのない顔。その表情が沈んで行く夕日にひどく映えて、今の状況を忘れてしまいそうになった。
気が付けば、成否次第だと自分は答えてしまっていた。だよなーと苦笑気味の同意が返ってくる。これが失敗に終わればそんな事をやっている場合ではなくなってしまう。彼女だってそんな事は分かっているだろう。その小さすぎる両肩に、幾多の命の重みが圧し掛かっている事を。それが終わる前に予定を決めておいたって、到底それ通りには行かないだろうという事も。
でも成功したら。成功したら、きっと自分は一緒に行く。断らない事も、たぶん分かられてしまっているのだろう。だから、きっと意味のない質問だった。
後方にある工廠代わりに使っていた部屋からは妖精さんがぱたぱたと走り回る小さな音が聞こえてくる。それをBGMに俄然涼しくなった海風を味わいながら、二人並んで茶を啜る。温いけれど、なんとなく今この瞬間には丁度いい気がした。
日が沈む。それを見届けてから、彼女は腕を使わず器用に靴を履き直すと、軽い動作でひょいと跳び、背負った荷物ごと家の外へと着地した。ちゃちゃっと行って片付けてくる。振りむいてにこやかに言う彼女に向かい、行ってらっしゃいと笑顔で返せば、どこか満足気に彼女は笑みを深くした。
「それじゃ、泊地最強、スペシャルエースの深雪様、出撃しちゃうよ!」
最強も何もこの泊地の艦娘は貴女だけです。とは流石にツッコめなかったので、改装も30回を突破するという大型の艤装を背負っているとは微塵も感じさせない軽い足取りで海に向かって駆けて行く、1000年以上生きた艦娘である彼女を、できる限りの笑顔で見送った。
海に出た深雪――さん付けは要らないと初対面で宣言された――は自身の身長を遥かに上回る、白銀の鋭い円錐形の筒を仰角70度程度に高く掲げ、片膝を立てた状態で上空に狙いを澄ませている。まるで巨大な騎士槍でも構えているような格好だが、当然それは近接用の武器などではない。それどころか用途としてはまるで逆、あれこそは彼女専用の超長距離狙撃用架空粒子加速砲、通称深雪スペシャルである。
疑似的に存在している事にされた理想の粒子で敵を貫くというその武装は、彼女の改三十と同時に生まれた専用の武装なのだという。改装するたびに砲戦能力に特化し先鋭化される彼女の艤装は、ある時からその特性を進化、或いは変異させて行った。その末に産まれたのが、超長距離から一撃で敵を殲滅する、ある種の兵器の理想形と言えるこの大砲だったらしい。その性質から天の川銀河人由来の物理無効化も別星系由来の神秘無効化も貫けるというそれは過去の戦でも何度も振るわれ、寄る敵を射程外から高い精度と火力で撃ち抜いて来たのだと聞かされている。
改二以降の艤装は艦種がかなり細分化される。それは格闘特化や隠密特化、電子戦特化や捕獲特化の艦娘が居る以上仕方のない事である。宇宙で刀振るって戦うような艦娘を巡洋艦として運用する事はできないのだ。
そんな中であれば、彼女の分類は容易だったろう。超長距離を戦端の開く前に貫く高精度射撃特化の艦娘。
狙撃艦。それが彼女に与えられた称号だった。
深海棲艦は自身の存在を集合無意識に溜まった人類の悪意で支えているという構造上、その涌き出る速度には時期によってかなりのムラがある。一度放出してしまえば大発生するまでにはそれなりの年月を要するのだ。
記録によれば一つ前の大発生の時には無数の宇宙要塞が一つの星に押し寄せて、そこでは艦娘と深海棲艦の大戦争が行われたらしい。戦力を集中する事で確実に一星ずつ圧し潰して行こうという深海棲艦と一つたりとも墜とさせまいとする艦娘の戦いは熾烈を極め、最後の要塞がその機能を止めた時には、周囲の無人惑星が五十ほど宇宙から消え去っていたという。
そんな戦いののち百年ほど休眠期に入り、出現数が過去最低レベルにまで落ち込んでいた深海棲艦が、突如活性化を始めたのは丁度十年前の話である。各地で稀に発生するだけにとどまっていた連中が組織立ったような活動を再開し、人類の生存圏の各所、それも人口の少ない辺境の星々に断続的に押し寄せるようになったのだ。
深海棲艦の目的は悪意の達成、即ち主に人間を苦しめる事である。前大戦の失敗から学んだそいつらは、大局的な勝利より局所的な絶望を味わう事を選び実行に移したのだろうと言われている。
実際、その行いの厄介さは大したものだった。まず艦娘を始めとした守護者達というのは人類の数に対してある程度以上の比率を超える事はない。その上で、百年平和だった世界中では志願者自体減っていて、純粋な戦力としては増えていても、人口比で言うなら大戦時の半分を割っていたのだった。
だから、広範囲に展開されると手が足りなかった。それはもう、深雪が一人でこの星の防衛を任されてしまう程、絶望的に艦娘の数は足りていなかったのである。
観測システムは進化している。故にどこで事が起きるかは予知が可能になっていた。だが、深海棲艦にまともな痛撃を与えられるのが守護者たる彼女達しか居ない以上、版図の広がり平均的な人口密度はむしろ下がった人類に対して、今回の深海棲艦の方針は非常に有効と言わざるを得ない。全ての星にまともな戦力を常駐させるのは不可能であり、優秀な艦娘達は日夜戦いに忙殺されているのだった。
そんな世情であるが、狙撃艦と言われる艦娘が一人で戦わされるというのは珍事である。
実力的に十分ではある。深雪は十年前に深海棲艦が大規模な活動を始めた際、たった一人で憑りつかれ暴走した宇宙要塞を無力化した、アベルディ星系の英雄なのだ。その最大威力の砲撃は展開された斥力障壁を貫き、何層もの隔壁を融解させ、一直線にその動力炉までの道を切り開いたという。
だがそれはたまたま彼女が近くの惑星で休暇を過ごしていたからであり、今回のように最初から単騎運用だなんて馬鹿げた作戦を立てられたからではなかったのだ。そもそも近接戦闘が得意でない(旧宮里艦隊基準)と言われる深雪を護衛も付けずに出撃させるというのが通常では有り得ない。万が一が起きれば埋めようのない損失となってしまう。それだけの評価はされていたし、信用も持っている艦娘なのだ。
それなのにこんな事になってしまったのは、ひとえに領主が艦娘の入星を拒んでくれやがったおかげである。実の所、自分達は艦娘と提督としてこの町に赴任してきたわけではない。身分的には別荘に遊びに来たお嬢様とその友人、つまりはただの観光客でしかなかったりするのだ。
それ故に持ち込めた物資は最低限、装備を偽装して小分けに輸送しなければならなかったために何日も前から現地で待機する必要があったし、人数もたったの二人だけ。本来ならば六人程度の艦隊を組み複数のオペレーターを付けた万全で臨むべき案件だったにもかかわらず、深雪はなんの特殊能力も持たないただの提督一人の支援だけで宇宙より降下してくる敵を撃ち落さなければならなくなってしまったのである。
では何故自分の領地を荒らされる……どころか予想される被害規模から言えば滅ぼされると表現できる事態に対し、その地を治める人間が艦娘――それも国と契約していてその地方には料金請求をしない信頼と実績のリンカーネイション社のそれ――の協力を拒んだのかと言えば。これは単純明快。世界最高峰の巨大企業とその天辺に座す女傑への嫉妬と私怨である。大変に馬鹿げた話であるが、ここの領主と来たら、リンカネが勝手に侵入して苦労して倒すと予見した上で、わざと非協力な態度を取ったらしいのである。
当然社長はブチ切れ遊ばされ、出発の際にはお貴族様はこっちで始末を付けるから深海棲艦を倒す事にだけ集中してくれればいいとの確約は貰ったが、なんの慰めにもならないのが悲しい所だった。深雪は死ぬほど笑っていたが、許される範囲を大幅に超えた行いであり、誰にとっても得にならない事態なのは間違いない。特に、この星の住民たちにとっては。
敵の戦法は単純明快、複数のデコイとステルス能力を駆使した成層圏外からの超高速体当たり。それを星にぶちかます事である。
要するに、この星にはこれから一切質量の減らない巨大隕石がえらい勢いで落っこちてくるのだ。
この事はこの星の住民にはとっくに告知されていた。一時的に星外へ逃れている者は多く、中心的な都市なら完備されているシェルターも今頃は人でいっぱいだろうと思われる。星ローカルのニュースでだって盛んに取り上げられていたし、食料品の仕入れ値が酷い事になっていると商店の人も漏らしていた。
それでも、この町の人間はほとんどがここに残っている。お祭りの準備は何日も前から盛んに執り行われていたし、子供たちもずっと元気に遊び回っていた。漁師たちは日の出前に船で出て、日が上り切る前に帰って来ては獲れた魚を市へと送り出して行く。隠居した老夫婦は日課の散歩を欠かすことはなかったし、交番のお巡りさんもしっかり制服を着こんでいた。少し浮ついたような雰囲気が漂ってはいたが、概ね普段通りに彼らは日常を送っていたのである。
これは別に、こんな状況で観光客としてやって来た、明らかに艦娘な深雪を信頼しての事ではない。ただ単に、彼らには避難する当てもそれを作れる金もまったく無かったというだけの話である。そこにあったのは、なるようにしかならないだろうという諦観だった。
似たような襲撃は――あからさまな妨害を除けば――世界各所で起きている。この国はその全てに十分な避難船を供与する事はできなかったのだ。辺境であるこの星の、さらに田舎に住んでいるような人間達は半ば見捨てられたと言っていい状態だった。
勿論、通常であればリンカーネイション社の艦娘達は動かされるし、主立った星であればそもそも自前の戦力も持ち合わせてはいるのだが、残念ながらここの領主は無能を超越した何かだった。本人は別の星に住んでいるのが本当に憎らしい。憎らしいと悪感情を募らせると深海棲艦の糧になるのも憎らしい。考えると負の無限スパイラルが完成しそうになる。溜息と一緒に全部押し流してしまうしかなかった。
そんな訳で、ここでの失敗は許されないというか、そのまま死亡に繋がる可能性がかなり高い。現在地は着弾予想地点直近なのだ。横から狙って当てるのはかなり難しいため一発勝負するならと深雪が選んだ場所だったが、そのすぐ傍に彼女の別荘があった事には何者かの作為を感じずにはいられなかった。
狙撃が完全成功すれば祭りの前に盛大な花火が一発上がるだけ。人類の頭痛の種が四散する姿はさぞかし爽快なことだろう。
不完全な成功なら勢いを殺されはしても未だに健在だろう相手と、深雪は戦闘になってしまう。通常の武装も一応取り付けてはあるのだが、彼女の戦績を見ていると多少不安なところである。本人は大丈夫だと笑っていたが、轟沈女王と呼ばれているのを知っている身としては、素直に笑って返せなかった。
不完全な失敗をした場合、多少速度を落とせただけに留まった場合、着水の衝撃で津波が起こり、町は壊滅してしまう。深雪もただでは済まないだろうし、その後起きるであろう戦闘をこなせるかはかなり怪しい事になる。
完全な失敗ともなれば、町の人々や自分などは即死である。それどころか巻き上げられる粉塵や発生するガスにより、この星の住民が青空を拝む事は向こう数十年なくなるだろうと考えられた。
端末とリンクする事で疑似的に拡張された視界で五キロほど沖で砲を抱える深雪にフォーカスすると、宇宙に置かれた無人機達からの情報を基に射角の微調整を行っている、真剣な顔が目に入った。この星では今まで見せて来なかったその表情からは、歴戦の戦士の風格を少しだけ感じられる。確かに長く生きた艦娘なのだと今更ながらに思わされた。
深雪はしきりに喉を動かし、唾液を嚥下して気を落ち着かせようと努めている。平気そうに振舞ってはいても、やはり緊張は大きいのだろう。敵を拳でぶん殴ったり槍で突き刺したり錨を叩き付けたりする姉妹達に比べると自分は普通と笑っていたが、その精神性も普通の人に近い、という事だったのかもしれない。
それでも彼女の指先も構えられた大砲の先もしっかりとしたもので、それらはまったく震える事なく発射の瞬間を静かに待ちわびている。処理すべき情報を収集し切れない点を加味すればコンピュータに狙わせるよりも精度が高いとそのコンピュータに断言された狙撃の腕が、振るわれる時は近かった。
最後の信号が宇宙から送られてくる。敵の到達時間に異常無し。予定地点まであと十秒。
彼女の視界も自分と同じく通常より拡張している筈で、自分と同じく、いやそれ以上にそいつが見えている筈だ。一キロメートルをゆうに超える真球の装甲を身に纏う深海棲艦。深海揚星姫と呼ばれる、その巨大隕石が。
着弾の威力と搭載された小型機の群れで棲む人々に致命を与える。それがそいつの持った特徴だ。本体はさほど強くないが、そもそも本体とまともに戦闘を行う事になった時点で敗北と言える最悪な敵。逃せば一万未満は非表示でニュースの見出しになるような被害の起こる害悪艦。討てるかどうかは深雪の指先に掛かっていた。
カウントダウンが進んで行く。砲のエネルギーは既に最大まで充填され、砲撃の指示を待っている。深雪の嚥下はいつの間にか止まっていた。
真剣と言うよりは無の表情。それはある種の達人が至る境地なのか。こゆるぎもせず、まばたきもない。息も止まっている。海の波もその体を揺らせはせず、ただ足下を流れて行く。澄んだ瞳は真っ直ぐに天を見つめていた。
吸い込まれそうだ。その瞳に魅入った瞬間、彼女の指先が動いた。
白銀の尖塔から、加速された架空の粒子が噴出する。それは光を放たず、肉眼では確認ができなかったが、しかし、各種の計器達はスプレー状に拡散する破壊的な砲撃が確かに撃ち出されたと観測していた。
それを確認した時には、深海揚星姫はその落下速度を大幅に削られていた。大気圏内に入った丸い巨体は空中でその動きを止め、表面に青黒い文様の浮かぶ装甲は溶けるように霧散し、下側から徐々に消失して行く。
その開いてゆく大穴の中心に、深雪は再度砲撃を撃ち込んだ。一射目とは違う、集約された、最大威力の一撃。それもまた狙いを外す事なく、目標へと吸い込まれて行く。
続けざまに、もう一発。篭められた粒子の最後の一欠片まで、その全てが敵性体へと吐き出された。
上位の深海棲艦は基本的に一撃では斃せない。そのためか、深雪スペシャルは最大威力でも三連射が可能になっている。
今回の場合、その機能は敵装甲の抹消と、本体の確殺のために使われた。一射目で表面を削り、二射目で艤装を完全破壊し、三射目で本体を撃ち抜く。そういう作戦だったのである。
一射目を的確に着弾させられなければ消し切れなかった装甲が地上に降り注ぎ、二射目三射目を外せば敵を殺し切る事ができない。その全てを完璧に命中させなければ何かしらの被害が出てしまう、三連精密射撃作戦。それをやり遂げる深雪の実力も胆力も、やはり並のそれではなかった。
残った装甲が一射目の余波で蒸発してゆく。霊的なそれは自然と星へと還って行くらしく、健康被害が出たりはしないと聞いている。ほう、と自分の口から息が漏れる音がした。無意識のうちに止めてしまっていたらしい。
特に必要は無いのかもしれないが、なにかしら彼女に声を掛けたい。そう思い、深雪に通信を繋ごうとして、その直前に、向こうが先に繋いできた。
『悪い提督、今日残業になりそうだ』
言葉の意味を理解しようと脳を動かそうとした時、溶けて消えていく敵の装甲の向こうに、それが顔を出すのが見えた。
青い血管の浮き出た騎士甲冑に二対の黒鉄の翼を生やしたような、全高数十メートルはあろうかという人型。周囲を覆っていた装甲に比べれば圧倒的に小さい、しかし、明らかにそれ以上に強大な気配を纏う巨大外骨格。それが頭部二つの光学センサーを金に光らせながら、無傷で眼下の海を睥睨していた。
『変異種……の融合型かな?』
伸ばされた腕の先には深海揚星姫の頭部が握られており、それはまさに溶解して消え去ろうとしている。砲撃を防ぐための盾にされたのだろうが、それだけでは攻撃がまったく貫通していない理由にはならない。収束された深雪スペシャルの威力なら本体が剥き出しになった深海揚星姫程度は軽く貫通してしまうからだ。
『なっつかしいなぁ。あれたぶん、昔見たのと同じタイプの奴だ!』
融合型変異種。提督の専門学校で習った記憶が確かなら、それは他の深海棲艦を己の一部に取り込む事で様々な力を発揮する特殊な深海棲艦の総称である。その中でも今上空に浮かんでいるあれは、防御に特化した性能を有しているらしかった。
深海揚星姫の装甲が完全に溶け切り、中の異貌が露わになる。鋼の人型、その背から聳える巨大な翼には、数多の顔が浮かび上がっていた。海で見られる下級の駆逐艦。空を攻めてくる自立型航空艦。デブリ帯によく現れる小型の宇宙艦。その他あらゆる種類の艦を無造作に圧し、形成されたそれは、脳が理解を拒むほどに悍ましい、深海戦艦の生きた骸を晒し首にでもしたような物体だった。
ダメージを取り込んだものに押し付ける事で余波すら無効化し、自身は生き延びる。そんな自分本位過ぎる能力を有した深海棲艦。かつて天の川銀河人が最初に深海棲艦の脅威に直面した際、最強の艦娘によって討伐されたという脅威が、この辺境の星に降り立とうとしていた。
似たようなものは百年に一度くらいのペースで出現しているとは習った。だから深海棲艦の活発化した現代にも産まれてくる可能性があったのは分かる。分かるけれども。よりによって今、こんなところに出て来るだなんて、まったく予想だにしなかった。あれは艦隊で動けていたとしても分の悪い相手、通常であれば百を超える艦娘などの守護者達を動員して掛からなければならないような輩なのだ。
ベースになっているのはおそらく、ティルフォーン銀河人の集合無意識から発生した人型機動兵器タイプの深海棲艦だ。敏捷性や攻撃性に優れ耐久面では他に劣るのが特徴だが、その弱点を特殊能力で見事に克服してしまっている。よく見る量産タイプの下級ではなくワンオフモデルのエース機を基に形作られた個体のようで、その全身には多数の凶悪な砲口が見受けられる。天の川銀河基準で言えば、間違いなく姫級以上の戦力だろう。
『とりあえず捕捉されてるみたいだから引き付ける、余波が行ったらごめ……ん?』
そう言いながら、深雪は既に沖に向かっての航行を開始していた。同時に砲の充填も進められており、余波とはそれを使った時に出るものの事だろう。弾数の問題で通常武装であれを倒せる可能性はまったく無い。燃料さえあれば粒子を生成でき、威力も高い深雪スペシャルをぶつけていく以外、活路は存在しなかった。
ただそれでも、燃料が足りるかというとおそらく足りない。深雪の艤装に満タンに入ったそれをフル活用して、充填し切れる回数は十回ほど。機動にも使う事を考慮すれば九回できればいい方だろう。それを全力で撃つ必要は無いと思われるから十に分けて撃つとして、深雪の全弾は九十程度。それに対し、敵の吸収している深海棲艦は見えているだけで100を超えている。
燃料自体はまだある。これだけは工業にも使うからと簡単に持ち込めたのだ。不測の事態に備えてと潤沢に用意してくれたから、十回補給してもまだ余る。問題は、深雪一人の状態では補給なんて許してくれるはずがないという事だ。
単騎運用の問題点が重くのしかかる。せめて二人、いや三人居ればと思わずにはいられない。海面を撃って蒸気で目くらまし……その程度で時間稼ぎになるか? 陸のどこか人の居ない辺りに誘導して、逃げ隠れしつつ補給……そこまで燃料を持って行くのが難しいだろう。一応車はあるが、隠れる場所があるような所に乗り込めるとは思えない。そもそも深雪は逃げ撃ちはできるのか? 元が駆逐艦だけあって速度は高い水準だが、本人の回避技術は……
できるだけ早く思考を巡らせつつ、深雪の様子を窺う。この事態に動転するでもなく冷静に次の行動に移っていた彼女なら、何か思い付く事もあるだろうかと思ったのだが。その本人は、何故か進めていたはずの足を止め、星の輝く空を仰ぎながら、軽い苦笑を浮かべていた。
『ごめん提督、勝ったわ』
瞬間、一条の光が天を貫き、地を見下ろしていた敵機体に突き刺さった。甲冑のような体表の中央を輝きが突き抜ける。それはそのままの勢いで、海で立ち尽くす深雪のすぐ真横に着弾した。
衝撃はなかった。着水の波も、音も、衝撃波もなかった。嘲笑するように睥睨していた深海棲艦の体が音もなく崩れて行く。まるで元々存在しなかったかのように、それは塵よりも細かく分解されて、星の大気へと還って行った。
理解し切れない光景を飲み込めずにいると、深雪が自分の横に現れたものに笑いかけた。大気圏を超えて熱を帯びているのか足下が茹っているが、それはどうやら黒い髪を海色のリボンで纏めた女の子のように見えた。
『久しぶりー』
『久しぶり』
あまりにも気楽に、二人は挨拶を交わしていた。
『援軍あるなら言えよなー』
『いや、私も来れるか微妙だったからさ』
急に現れた自身と同年代に見える少女の背を深雪は強めに叩き、そしてあっつと叫んで跳び退いた。どうやらまだ冷え切っていなかったらしい。艦娘にそれでダメージは入らないはずなので、ただのオーバーリアクションだろう。
『あ、ちょっと待って』
そう言って、空から来た少女は背負った荷物、艤装だろうそれから何かを取り出すと、それを沖に向かって放り投げる。爆雷だと気付いた頃にはそれは外洋にまで飛んでいて、とっくに見えなくなってしまっていた。
『これで全滅だな、ヨシ!』
『相変わらず何やってんのか分かんねー』
『私も深雪スペシャルがどうしてそうなるのか分かんないから、多少はね?』
けらけらと笑いながら、深雪はさっきまで敵の存在していた空を見上げた。艦娘らしき少女も釣られて同じ方を向く。そこには晴れた夜空があるばかりだった。
『さっきの奴なんてどうやって倒したのさ?』
『浸透勁体の中央に複数同時に叩き込むとなんか粉々になるんだよ』
なんで? さぁ? とお互いに首を傾げ合う二人。おそらくは深雪が意図的に繋げ続けているのだろうと思われるその会話から、本当に斃せたのだと理解できた。それで相手の特殊能力無視できるのかだとか、色々と納得は行かないのだが、彼女達の態度的にそう思うしかないだろう。
『っていうか吹雪、お前ティルフォン出禁じゃないの?』
『あー、なんか今の皇帝、ちょっと前にやってたVRゲーのギルメンだったから頼んだら解いてくれた』
『どういう人脈だよ!?』
ティルフォーン統一帝国、この星も領土としている巨大国家で貴族社会などの残る変わった国だが、それ故か妙なところで柔軟性があるらしい。いや、それでもその理由は明らかにおかしいと思うのだけれども。
それよりも、吹雪だ。吹雪と確かに深雪は言った。成程、彼女こそは複数銀河系に存在した別種人類の集合無意識が出会う事で融合し、そこに潜む深海棲艦の脅威までも融合し、連携する事になった抗体たる複数種類の守護者たちの中にあってなお最強の二文字を背負う、超越者。特型駆逐艦吹雪その人なのだろう。
深雪が気安いのも当然だった。吹雪と深雪は昔馴染みであり、血縁のない姉妹のようなものでもあるのだから。
『吹雪が色々変なのは今更だけどさー』
『私より変な人いっぱい居ない?』
『同じくらい変なのなら結構……じゃなくて、皇帝が許しても領主の掛けた制限とかは? 無視した?』
『ああ、帝国もさ、私利私欲私情私怨で帝国の領土を損なうようなのは、流石に要らないってさ』
今ごろ処されてるんじゃない? と無表情ながら軽い調子でその娘は言ってみせた。成程、どうやらここの領主様は、リンカネだけでなく自身の祖国も怒らせてしまったらしい。援軍にこの方がやってこられるくらいなのだから、協調して事に当たっているのだろうと思われる。逃げ場とか存在しないだろうな、と苦労を掛けさせられた相手ではあるが、同情を禁じ得なかった。
『それで、私これから次の現場行くけど、深雪はどうする? たぶん帰省ラッシュとかで暫く帰りのシャトル出ないと思うんだけど』
必要なら衛星軌道上で待機してる島風呼ぶけど、とちゃんと僚艦と来ていたらしいその最強は提案してくれた。彼女と島風のコンビは有名だ。純粋におかしいくらいの力持ちな彼女と慣性などを制御できるその相方が力を合わせると、重力圏外への脱出を容易に行えてしまうのだ。必要なものだけ手早く纏め、残りの荷物は後日で回収してもらえば特に問題もないだろう。効率を考えるなら確かにその方がいいと思われた。
『小型艇積んでるから、乗ってく?』
それは明らかに、深雪ではなく自分に向けられた言葉だった。何キロも先の海上から、機器で補正されてもいる訳でもない生の視線が、確かにこちらに飛んできていた。
『いや、あたしたちはいいよ。社長もゆっくりしてきていいって言ってたし』
深雪がこちらに振り返る。その顔には、ここ数日もずっと見続けた、悪戯っぽい笑顔が浮かんでいた。
このあと滅茶苦茶屋台回った。