「随分と大きくなったわねぇ」
日曜の昼前。
飛山家のリビングで出迎えてくれたおばさんは、俺を見上げて懐かしそうに笑みを浮かべた。
「昔は霧香より小さかったのに、男の子の成長って早いのねぇ」
「……おばさんも、お変わりないようで何よりです」
「そこそこお変わりあるだろう。僕も妻も白髪が混じるようなったんだ」
ソファに座ってテレビを見ていたおじさんが、苦笑するように口を開く。
「子供の成長を見ると、自分たちもそれだけ歳を取ったのかと驚くよ」
「もう年寄りくさいなぁ」
霧香は鬱陶しそうな表情をおじさんに向けた後、それからころっと表情を変えて俺に向き直った。
「どう? 懐かしい?」
「ああ……変わってないなぁ」
最後に霧香の家を訪れたのは確か、小学生の頃だった。
恐らくは五、六年前。
カーテンや家具はそのままで、当時と変わりなかった。
「二人がセミを取ってきた後、カゴの中は可哀そうだと言って家の中に放った事もあったなぁ」
「……ご迷惑をおかけしました」
叔父さんが笑いながら手を振る。
「いや、いいんだ。懐かしいな、と思ってね」
「あ、座っててね。飲み物いれるから。炭酸でいい?」
「……ああ。ありがとう」
霧香がキッチンへ向かう。
それを見たおばさんがクスクスと笑い声をあげた。
「いつもそれくらい働いてくれたらいいのに」
「うるさいなぁ」
「昨日もね、竜也くんが来るからって掃除をはりきって――」
「もう、うるさいって」
ペットボトルとコップを持った霧香がすぐに戻ってきた。
「竜也、もう部屋行こう。二人ともうるさいから」
「あ、ああ。わかった」
不機嫌な様子の霧香に先導されて霧香の部屋に向かう。
彼女の部屋も昔とあまり変わらなかった。
昔と同じベッド、机の位置。
違いは少しだけ小物が増えているくらいだった。
俺が部屋を見渡している間に、扉を閉めた霧香が真ん中に置かれた丸テーブルにコップを置く。
「あ、適当に座って」
「……なんだか懐かしいな」
「低学年の時って、放課後は毎日どっちかの家で遊んでたよね」
懐かしむような霧香の声に頷く。
「必ず門限まで粘っていたな。そうするのが義務みたいだった」
「うん。でも四年生くらいかな。それくらいから互いに別のグループで行動するようになって、あまり遊ばなくなったよね」
明確なきっかけがあった訳ではない。
ただ霧香は女子のグループと遊ぶようになり、俺は男子のグループと遊ぶようになった。
「……昔一緒に遊んだゲーム、今も残ってるよ。久しぶりにやる?」
「……いや、長くなりそうだしやめておくよ」
長居する気はない。
おばさん達への顔見せは終わった。あとは適当に雑談を済ませたら帰る気だった。
霧香もそれを察したのか、そっか、と短く答えた。
「あ、電話でも言ったけど渡したいものあるんだ」
霧香が立ち上がり、机に置いていたものを手に取る。
帯がついたままの詰将棋の本だった。
「内容の良し悪しなんてよくわかんないから、つまらなかったらごめんね」
「いや、嬉しいよ。ありがとう。あまりこういう本は持ってないんだ」
素直に感謝の言葉を口にすると、霧香は嬉しそうに笑った。
「たまたま見つけて適当に買っただけなんだけどね。それなら良かった」
互いに次の言葉が見つからず沈黙が落ちた。
沈黙は慣れている。部室で長いこと過ごしていれば沈黙で過ごす事のほうが多い。
けれど、今は妙に居心地が悪かった。
次の話題を探すか帰るか迷っている間に、ねえ、と霧香が小さい声で切り出した。
「昔、教えてくれたよね。飛車と角を大事にしすぎだって。そんなもの大事に抱えていても王を取られたら意味ないって」
「ああ……」
霧香の言いたい事がわからず、曖昧な相槌が口から零れる。
「それと同じようにね、私は幼馴染って関係を大事にしすぎていたんだと思う」
話が見えない。
しかし、ただの雑談ではない事だけは分かった。
霧香の言葉にじっと耳を傾ける。
「だから、ここで捨てようかなって」
理解が追い付かない。
俺は困惑したまま、何かを言おうとする霧香を見つめる事しかできなかった。
「ねえ、竜也」
そう言って、霧香は微笑んだ。
「私、竜也のこと好きだよ」
霧香の双眸がまっすぐと突き刺さる。
恥じらう様子も、言葉を誤魔化す様子もなかった。
ただ真正面から真意を伝えようとする強い意思だけが見えた。
「竜也はどうかな。私のこと、意識してくれた事はある?」
意識。
俺たちは多分、互いに意識していたのだろう。
だから一時的に疎遠になった。避けるようになった。
けれど、もうそんな事に意味はない。
すべてが過去のことだった。
「霧香……俺は、先輩と付き合う事になって……」
「知ってるよ。でも私が知りたいのは、私のことを意識した事があるのかっていうこと。そこに先輩は関係ないでしょ」
霧香は引き下がらない。
まっすぐと自分の想いを伝えてくる。
ならば、俺も正直に答えるべきなのだろう。
嘘や誤魔化しの言葉を吐くべきではない。
一瞬の逡巡の後、俺はゆっくりと口を開いた。
「……意識した事は、あるよ。もしかしたら初恋だったのかもしれない」
当時、はっきりと自分の気持ちを掴む事は出来なかった。
けれど、今なら分かる。
疎遠の原因になったのは、幼い恋心だった。
俺たちはまだまだ子供で、それを上手く扱えなかった。
それは多分、今でもあまり変わらない。
だから、こんな状況になってしまっている。
「そっか」
霧香は呟くように言って、ゆっくりと視線を外した。
諦めるような力ない笑みで、自嘲するように言葉を続ける。
「もっと早く伝えてたら、私が竜也と付き合ってたのかな」
そうかもしれない。
俺がもう少し大人になれていたら、そういう未来もあったのかもしれない。
けれど、それは口に出さなかった。
多分それは、先輩への裏切りになってしまう。
「そっか、そっか」
霧香は一人で呟き続ける。
そして、自分自身に確かめるように言った。
「――じゃあ、別に引き下がる必要ないよね」
言葉の意味を理解できなかった俺は、ただ霧香の事を見つめる事しかできなかった。
霧香は先ほどまでと違って自信に満ちた微笑を取り戻していた。
「ただの順番の違いでしかなかったってことでしょ。だから、諦めるには早いかなって」
それに、と霧香は笑う。
どこか残酷な印象を受ける冷たい笑みだった。
「私はこれまで多分、無意味な駒を大事にしすぎていたんだと思う。大事な駒ほど切った時の効果が高いのに、それを理解してなかった。ずっと大事にしようと思っていた」
ようやく分かったよ、と霧香は言った。
「どんな駒でも、捨てるタイミングがあるんだ。だから、順番に捨てていくよ。そうすれば変われる気がする」
次の瞬間、霧香の身体がふわりと舞った。
唇に柔らかいものが触れ、甘い香りが鼻腔をくすぐる。
一瞬の出来事だった。
身体を離した霧香が、どこか勝ち誇ったように頬を綻ばせる。
「順番の問題なら、これで私のほうが上かな?」
呆気に取られていた俺は、動揺を隠すように一歩下がって抗議の言葉を口にした。
「……霧香、こういうのは互いの同意の上で手順を踏むべきで――」
「ごめんね」
遮るように霧香が口を開く。
「ごめん。でも、これ以上後悔したくないから」
だから、と霧香は悪びれる様子もなく宣言した。
「先に謝っておくよ。私はもっと酷い事をするかもしれないけど、それは多分必要な事だから」