翌日の授業はずっと上の空だった。
告白の言葉。唇の感触。
俺はそれを、上手く自分の中で受け止める事が出来なかった。
先輩と付き合っている以上、霧香の想いは断るしかない。
なのに、霧香は自分からそれを口にした。
ここで区切りをつけたかったのだろうか、とはじめは思った。
けれど、霧香はこうも言った。
「――じゃあ、別に引き下がる必要ないよね」
自信を取り戻した顔で、悪びれる様子もなく。
「ただの順番の違いでしかなかったってことでしょ。だから、諦めるには早いかなって」
そう宣言した霧香は、どこか危うい雰囲気を纏っていた。
だから、すぐに霧香の家を出た。
俺たちには冷却期間が必要だと思った。
適当な理由を口にして部屋を後にする俺へ、霧香はいつも通りの笑みを向けていたように思う。
それが更に違和感となって、俺の心の中に滞留していた。
霧香の考えが読めない。
幼少期からずっと一緒だったのに、彼女が何を考えてあんな事をしたのか理解できない。
考えがまとまらない内に全ての授業が終わり、放課後がやってきた。
重い足取りで部室へ向かう。
戸口を開けると、すでに四季さんがいた。
「やあ」
微笑む先輩は、どこか照れるような仕草が見え隠れしていた。
付き合う事になって、はじめての部活。
部室で二人きり。
本来なら俺も、この状況を意識していたのだろう。
しかし今は、霧香の事が気がかりでそれどころではなかった。
「早いですね」
声をかけながら、鞄を教壇の上に置く。
四季さんの前には既に盤面がセットされていた。
「今日が楽しみだったんだ。考え方によっては部活もデートのようなものだからね」
四季さんはどこか浮ついた様子だった。
霧香の事を相談するべきか迷いながら、曖昧な笑みを返す。
相談するにしても、どこまで話すかが問題だった。
キスされた、という事まで話せば霧香と四季さんの間で深刻な亀裂が生じるだろう。
不要な争いを引き起こすだけなら、自分の胸に留めておくべきか。
そんな事を考えた時、戸口の開く音が響いた。
「こんにちはー」
顔を見せた霧香は、いつも通りの様子だった。
俺は少し面食らった後、出来るだけ平静を装って言葉を返した。
「……霧香……指しに来たのか?」
「ん、違うよ。ただ、昨日のお礼言いたかっただけ」
場の空気が、凍った気がした。
四季さんの双眸が、じっと観察するように俺たちへ向けられる。
「お母さんね、久しぶりに竜也に会えて喜んでたよ。お父さんも懐かしがってたし」
「……ああ」
短く言葉を返す。
出来るだけ不要な言葉を言わないように。話が広がらないように。
「後ね、昨日のプレゼントいらなかったら別に捨てて良いからね? 言いたかったのはそれだけ」
じゃあね、と霧香はすぐに部室から出ていった。
引き戸が閉まり、静寂が訪れる。
四季さんの冷たい声が、すぐにそれを破った。
「竜也くん。どういう事かな」
振り返ると、四季さんが椅子から立ち上がっていた。
「私はこう言ったはずだ。例え幼馴染であっても、女子の家に行くのは辞めて欲しい、と。君はそれを了承して、私の前で断りの連絡を入れたはずだろう」
なのに、と四季さんの声が一段と低くなる。
「私に黙って、彼女の家に行ったのか?」
「……霧香の両親とも昔から面識があって、久しぶりに会いたいという話になって……顔を見せるだけのつもりで……」
「そういう事情なら、一言くらい相談してくれても良かっただろう。私だって無茶なことを言うつもりはない。面倒臭い女だから黙っておこうとでも思ったのか?」
「ち、違います。本当にただ霧香の家に寄って、少し立ち話するだけのつもりで……」
下心なんて一切なかった。
霧香の両親には昔からお世話になっている。だから無下に出来なかった。それだけだった。
なのに、先輩に説明すればするほど言い訳がましくなっていく。
「それで、立ち話だけで終わったのか?」
「いえ、リビングで少し談笑して、それで昔話になって、それを恥ずかしがった霧香に連れられて、その、結局部屋に行きました」
先輩の双眸が、徐々に鋭くなっていく。
「さっき話していたプレゼントと言うのは?」
「詰め将棋の本です。本屋で見つけたからっていうだけで、あの、特に深い意味のものじゃなくて」
「わかった」
そこで先輩は一度、話を切った。
小さく息を吐き、それで、と俺を睨む。
「他に隠し事はないだろうね?」
心臓が、とくん、と跳ねた。
どう考えても避けられない問題だった。
視線が泳ぐのが自分でもわかった。
「あの」
場を繋ぐように、無意味な言葉が口から飛び出した。
喉がカラカラに乾き切っていた。
「前から好きだったと、告白されました」
先輩の目が大きく見開かれる。
驚きで、怒りの表情が消えていく。
なのに俺は、更に言葉を続けなければならなかった。
「その後……キスもされました。でも、あの、すぐに断って、そのまま帰りました」
沈黙が落ちた。
俺はそれ以上言葉を続けられず、先輩はもう何も言わなかった。
心臓の部分が軋むように痛み、自分の呼吸音が妙に大きく聞こえた。
まだ春なのに背中のシャツがべったりと汗で濡れ、体温を奪っていく。
俺たちはそのまま、随分と長い間動けなかった。
最初に沈黙を破ったのは先輩だった。
「おかしいじゃないか」
絞り出すような声だった。
「私たちが付き合い始めたのは一昨日だ。まだ三日目だ。なのに何故、こんな浮気を問い詰めるような真似をしなくちゃならないんだ」
「……四季さん、本当に――」
「いいんだ」
俺の言葉を、四季さんが遮る。
「竜也くんにその気がないのは分かっている。しかし結果的にそうなった。竜也くんが異性に対して認識が甘かったからだ」
四季さんはそこで息をついて、思案するように目を閉じた。
それから、ゆっくりと口を開く。
「報告制にしよう」
告げられた言葉を、俺は理解する事が出来なかった。
「報告制?」
「互いに異性と二人きりの状況になった時は必ず報告するようにしよう。一切の例外は認めない。もちろん、飛山さんの家族も対象だ」
意味を咀嚼している間に、四季さんが言葉を続ける。
「行事で女子と二人きりになったら、そういう時は必ず連絡するようにして欲しい。これなら竜也くんの認識が甘くても、私の方で制止する事が出来る」
徐々に意味を理解する。
つまり、知らない所で異性と接触するという不安をなくしたいのだろう。
四季さんがそれで安心出来るなら、それも良いのかもしれない。
「それと」
四季さんの声が、再び冷たいものになる。
「飛山さん以外に仲のいい女子はいるのかな?」
「……霧香みたいに二人っきりで遊んだりとかは、いないです」
「質問を変えよう。飛山さんの次に仲がいい女子は?」
「……霧香の友達の、銀原さんです。でも本当に霧香繋がりというだけで、そんなに仲がいいわけでは……」
とにかく、と四季さんが俺の言葉を遮る。
「とにかく、誰かと二人きりになるような状況の時は私に連絡するように。異論はないだろう?」
「……はい」
そういうつもりがなかったとは言え、今回のことは全面的に俺に落ち度があった。
異論を挟む余地などなかった。
「それと最後にもう一つ」
四季さんはそう言って、ゆっくりと俺の方へ近づいてきた。
怒られるのかと思った。
身を硬くする俺に対し、四季さんが微笑む。
次の瞬間、唇が軽く重なった。
「飛山さんとしていて、彼女である私としていないのはおかしいだろう?」
そう言い切る先輩は、どこか吹っ切れた顔をしていた。
部室で待っていた時のやや照れた様子は消え去り、まるで別人のようだった。
それが一抹の不安として、俺の心の中に水溜まりのように残った。