「真剣勝負をしないか?」
金曜日の放課後。
四季さんは対面に腰を下ろすと、開口一番にそう言った。
「勝負、ですか?」
「そうだ。負けた方は一つだけ何でも言うことを聞く、というのはどうだ?」
少しだけ逡巡する。
四季さんなら無茶な事は言わないだろう。
真剣勝負のスパイスとしては面白いように思えた。
「なんでも、ですか?」
「可能な限りなら何でも、だ」
「一局だけですか?」
「一局だけだ。あとから三本勝負とかは言わないよ」
頷いて、駒袋をひっくり返す。
じゃらじゃらと駒が盤面に広がった。
「わかりました。受けて立ちます」
駒を並べようとすると、四季さんが五枚の『歩』を手にとった。
「振るよ」
「あ、はい」
四季さんが五枚の『歩』を転がす。
振り駒。
普段はジャンケンで適当に先手後手を決めるのに、四季さんは敢えてそれを選択した。
いつもの遊びではない、という事なのだろう。
「四季さんの先手ですね」
「ああ」
転がされた五枚中、四枚が表だった。
表が多い場合、振り手が先手を取る事になる。
四季さんは残った駒を並べると、ゆっくりと息を吐き出した。
「じゃあ始めようか」
「はい。よろしくお願いします」
昨日の様子が嘘のようだった。
指し始めた四季さんは盤面を油断なく睨み、何とも言えない気迫があった。
しん、とした部室に着手の音だけが響く。
久しく感じたことのない緊張感があった。
こういう緊張感は、霧香と指している時には微塵も感じたことがなかった。
対等な相手だからこそ味わえる特別な空気。
肺腑の中の空気をゆっくりと吐き出し、意識を集中させていく。
このために将棋部を創設したのだと、初心を思い出した。
誰かと競い合って、互いの知力を振り絞る。
そういう事が、多分したかったのだと思う。
ずっと忘れていた。
なんとなく将棋を指す毎日に埋没していた。
だから、この一瞬を提供してくれた四季さんには感謝しないといけない。
「……むぅ……」
四季さんの口から、小さな呻き声が漏れた。
将棋は基本的に先手が有利と言われている。
しかし、まだ押し切られていない。四季さんは攻めあぐねているようだった。
ゆっくりと視線をあげ、四季さんの表情を見る。
思考の海に沈む四季さんは、俺の視線に気づかない。
いつもより真剣な表情が気になった。
四季さんは勝てば何を命令する気なのだろう。
購買で昼食をおごって欲しいとか、宴会芸のような何かをさせるとか。
そういうありきたりな事ではないように思えた。
まだ一ヶ月ほどしか一緒に過ごしていないが、人に何かを命令したがる人ではないはず。
勝った時は恐らく、お願いのような形で望みを言うのだろう。
そこまで考えた時、ふいに四季さんが顔をあげた。
視線が合う。
吸い込まれるような大きくて黒い瞳。
時間が止まったような気がした。
目を逸らす暇もなく、互いの視線が正面から絡み合ったまま停止する。
四季さんは何も言わず、俺のことを見ていた。
何か言おうとするも言葉が出てこない。
沈黙が場を支配していた。
反射的に盤面に視線を落とす。
同時に四季さんの右手が動き、着手する音が響いた。
「待たせて悪かったね。竜也くんの番だ」
「え? あ……はい」
頭の中が真っ白になっていた。
考えていた読み筋がどこかに飛んで、思考がまとまらない。
小さく息をつき、盤面から視線をあげる。
四季さんはまだ俺のことを見ていた。
視線が一瞬重なって、そのまま絡み合う前に視線を盤面に戻す。
春の涼しい時期なのに、手に汗が滲んでいた。
心臓の鼓動が早くなっているのが自分でもわかった。
「今日はよく目が合うね」
四季さんが小さく笑いながら言う。
「そう、ですね」
考えがまとまりそうになく、直感に従って着手する。
四季さんはそれを確認すると、一拍置いてからすぐに次の手を指した。
焦りが生まれるのを自覚しながらも、それを抑える術が俺にはなかった。
部室に駒を指す音だけが響く。
対局中、ずっと四季さんが俺を見ているのが分かった。
恐らく、意識してのものではないのだろう。
時折こっちから視線を向けると、四季さんは不思議そうに首を傾げた。
それが余計に思考を狂わせた。
いつもより真剣な四季さんと、いつもより思考が乱れた俺。
結果は目に見えていた。
「……ありません」
投了を告げる。
中盤からは終始劣勢だった。
ずっと主導権を握っていた四季さんは満足そうに一度頷くと、背伸びしながら大きく息を吐いた。
「今日は調子が悪いんじゃないのか?」
「……完敗です」
弁解の言葉も思いつかない。
「それに敬語はナシだと言っただろう、部長」
「……もしかして、それが命令ですか?」
盤面の駒を片付けながら問いかける。
四季さんなら、そういう命令もありそうだった。
しかし、四季さんは首を横に振った。
「いや……命令というかお願いになるんだが……」
珍しく歯切れが悪い。
口に出すことを躊躇するように、四季さんの目が左右に泳ぐ。
「……明後日の日曜日に、飛山さんと遊ぶんだろう?」
「はい。その予定です」
「……じゃあ土曜日は予定がないのか?」
「何もないです」
じゃあ、と四季さんの声が大きくなる。
「ど、土曜日にどこか遊びにいかないか?」
「遊びに、ですか?」
意外な申し出だった。
きっと女子一人では行きづらい所なのだろう。
「どこか行きたいところがあるんですか?」
「い、いや、そういうわけではないんだが……竜也くんはどこか行きたい所はないのか?」
「えっと……ごめんなさい。すぐには思いつかないです」
「そ、そうか……いや、場所はどうでもいいんだ。土曜日は私と遊びに出かけて欲しい」
想像していた中では、ずっとソフトな命令だった。
「それくらいなら大丈夫です。命令はそれだけで良いんですか?」
「ああ……命令と言っても嫌なら別にいいんだ。無理して付き合わなくても……」
「大丈夫ですよ。嫌なんかじゃありません」
それで、と言葉を続ける。
「場所はどうしましょうか。明日出かけるなら今日中に決めておきたいです」
「そ、そうだな……ちょっと待ってくれ」
先輩がスマホを取り出し、調べ物を始める。
「……雨の予報になっているな……」
「屋内だとカラオケとかボウリングでしょうか?」
問いかけると、先輩は少しだけ黙り込んだ。
それから、意を決したように俺の方へ視線を向けた。
「いや……どうせなら私の家にしよう」
対局中に感じた、どこか粘り気のある視線だった。