「清雅」
朝、朝食と身支度を終えた清雅を待ち構えていたのは、彼女の姉だった。
昨日寝るときには彼女はいなかった、おそらくその後に帰ってきたのだろう。彼女は週末に夜遅くまで飲み会をすることがあるから、それが特に珍しいことではなかった。
だが、彼女がいつもどおりかと言うと、決してそうではない。
食卓に座る彼女の前には、自立する鏡と数多くの化粧品があった。当然、その殆どの名前を、清雅は知らない。
彼女は手招きしながら言った。
「座りな、化粧教えてあげる」
「うへえ」
その提案に、清雅は露骨に嫌な顔をした。
当然である、母や姉、もしくはクラスメイトたちがそれをしているのを見たことがないわけではない、女性の多くがそれを必要としていることもわかっているが、まさかそれが自分のことになるとは、一週間前までは予想すらしていなかったし、今この瞬間、何なら今このときにも、それをしなければならない自覚はない。
「嫌だよ」
彼にしては珍しく、姉の提案を露骨に拒否した。
だが、彼女はその拒否を拒否する。
「駄目よ、せっかく女の子になったのに化粧を知らないなんて」
「意味がないよ」
「意味しかないわよ」
こうなると姉というものが強いことを清雅は嫌と言うほどに知っている。
彼は観念するかのように一つため息を付き、姉の隣の椅子を引いた。
「まさか俺が化粧をすることになるなんて」
うなだれて言う清雅に姉が明るく返す。
「逆よ、これからは化粧が出来るの、大手を振ってね」
いくつかの化粧品を手にとった。
「まあ心配しなさんな、私とお母さんの血が入ってるならあんまり凝ったものはしなくても良いはずだから」
もう一つため息を付きながら、ようやく起き始めた頭をひねる。
何かを忘れているような気がした。
そのインターホンが鳴ったのは、清雅が化粧を習い始めてから一時間ほどしてからだった。
「はいはい」
やたら朝の速い客人に対しても機嫌良くそれに対応しに言った母親の声を聞いてから、清雅はようやくそれに気づいて「ああ!!!」と声を上げた。
「ちょっと、動いちゃ駄目でしょ」
「やばい!」
慌てふためく清雅を姉が訝しんでいる間に、玄関の方から「あら~、どうぞ上がって上がって」と機嫌の良い母の声。
そして「お邪魔します」と、男二人分の声がした。
その声、清雅は当然聞き覚えがあったし、姉にも覚えのない声ではなかった。
そして現れる。
「おー、清雅、どした~?」
清雅の兄貴分にして釣り仲間である内海は、特に何かを思うこと無くその部屋を覗き込んだ。
別に無遠慮なわけではない。近所付き合いの中で彼と河流一家は顔なじみであったし、待ち合わせをすっぽかされた彼はそれをする権利がある。
要するに、清雅は釣りの約束をしていたことをすっかりと忘れてしまっていたのだ。まあそれも無理もないだろう、激動の一週間であったし、頭が働くよりも先に化粧を教えられるという本人的にはとんでもない状況だ。
更に不幸が重なったところとしては、いつもならば一緒に釣りを楽しんでいた山上が、今日に限っては柔道部の活動のためにそれに不参加だった。彼がいれば清雅に起こったことを説明してくれただろう。
「お、キヨ姉」
「あー、釣りか」
彼女がいたことに意外そうであった内海に対し、姉こと
「えっ? 清美さんいるの!?」
内海の背後から、今度は鴻上が現れた、金髪を揺らし、その表情はニッコリと嬉しげであった。
「お久しぶりです! 今日も変わること無く美しい!」
話がややこしくなってきた。
内海と違って、鴻上が河流たちと出会ったのは高校に入ってからだ、故に内海と違って清美のプライベートな部分をあまり知らず、彼にとって清美はただの美人なお姉さんであった。
「これ、ショパン堂のシュークリームです! 皆さんでぜひ!」
どこから持ち出したのか、地元有名菓子店の手土産を手渡した。
「まあ、ありがとう」
清美もそれを『そういうモード』で受け取る。幸いなことに、清雅に見せる見本のために自身に化粧を施していた後だった。もしそうではなかったら、決して顔を見せなかっただろう。
「で、清雅どうした?」
そのやり取りを眺めながら、やはり内海が言った。
清美の隣りに座っていた清雅は、うずくまるようにして彼らに背を向けていた。
「丁度いいじゃん、見てもらいなよ」
清美は他人事のようにそう言って背中を擦るが、清雅は頑固拒否の耐性だ。
「どういうこと?」と、内海は首を傾げた、その隣では鴻上も同じく首を傾げている。
「え? 二人は知らないの?」
その様子を眺めていた母親が意外そうに言った。
「はーなるほど」
出されたお茶に手を付けながら、内海は対面に座る清雅を見て言った。
「そりゃ釣りも忘れるわ、仕方ない」
約束をすっぽかされたという事は、すでに内海の中では小さな問題になっているようだった。
「でも化粧似合ってるぜ、そんだけできれば大丈夫だろ。全然街中行けるわ」
「そうだね、やっぱりキヨ姉が若かった頃に似てるよ」
「今も若いつもりなんだけど」
「もちろんですよ! 内海はちょっとそういうところがある」
「俺で点数稼ぐなよ」
などと食卓でかわされるやり取りをほとんど聞き流しながら、清雅は鏡の中に移る自身を眺めていた。
先程に比べたら白い肌に、ほんのり赤い唇。
むず痒い。
「似合ってねえよお」と、ついつい口に出てしまう。
「そりゃあおめえ、髪型が男のまんまだからだよ」と、至極冷静に鴻上が言った。
「遺伝子的には悪かねえんだ、髪型をそれなりにすればもうほぼ女」
「絶対違うわ」
「いや、俺の目を信じろ、正直今のお前なら俺全然街中連れていける」
「気持ち悪ぃ」
「流石鴻上くんね、女を見る目があるわ」
褒められたことに照れる鴻上を尻目に清美が続ける。
「明日はヘアサロンと買い物行くからね」
「は?」
「私の行きつけの所もう予約取ってるから」
「は?」
「相変わらずキヨ姉は動きが早いなあ」
「お前良いお姉さん持ったな。マジで」
こうなってしまった清美がもう止められない事を、清雅はよく知っている。
「それじゃあ、そろそろ失礼しようかな」
「そうだな、状況が状況だし、俺らが邪魔すべきじゃねえ」
「しばらく釣りはお休みだね」
立ち上がりながらそういった大学生達に清雅が「いや、ちょっとまって!」とそれを引き止める。
「来週! 来週は釣り行くから!」
「いやあ、もうちょっと慣れてからのほうが」
「行くから!」
日常が侵食されていると、清雅は漠然と思っていた。
何か、何か一つでいいからいつもと同じことをしなければ。
内海は困ったように鼻を鳴らしてからそれに答える。
「それじゃあ、今日と同じ時間に家に迎えに行くよ」
「流石に朝方に女の子を外でまたせるわけにはいかねえからな、わかってきたな、内海」
挨拶と共に大学生が消えた後、清雅は嫌というほど化粧のいろはを叩き込まれたのであった。