特に深い考えがあるわけではなかった。
時間がかかるだろうと思っていた授業課題と復習が予想より早く終わった。念の為にと数日後の予習も終わらせた。その時図書室には図書委員以外の誰もいなかった。
伊武や山上と一緒に帰る約束をしていた。この体になってから、帰りは幼なじみたちと一緒に帰るようにしている。
だから、このまま図書室で時間を潰すよりかは、女子バスケ部の様子を見に行ったほうがいいんじゃないだろうかと清雅は思ったのだ。
運動をする気なんて微塵もなかった。
「セイちゃん!?」
体育館の片隅で休憩していた伊武は、突然に現れた清雅に驚いているようだった。
彼女の声に反応して、体育館で活動していた運動部員たちは一斉にそれに注目した。
「暇だったから」と、清雅は特にそれらの視線を気にすること無く答える。
他の部員達も、すぐに自分たちの活動に戻っていった。別に体育館に生徒が現れただけのこと、それが練習の手を止める理由にはならない。
だが、女子バスケット部のメンバーたちにとってはそれはそれを止めるだけの理由になり得るようだった。
「おー、来たんだカワリュー!」
朝、伊武と合流するメンバーの一人がいたずらっぽい笑顔を浮かべながら近づいてきた、他の部員たちもそれに続いているようだ。
だが、その目的は清雅を歓迎するだけのものではなさそうだ。
「やったじゃん伊武~、ついに想いが通じたねえ~」
おそらく先輩だろう、伊武の頬を人差し指で突きながらニヤニヤと言う。
「そういうんじゃないですから!」と、彼女は苦笑いを浮かべながら答えた。
いつものことだ、伊武にしろ清雅にしろ、異性の幼馴染の存在をいつもからかわれる。
だから別に、今更それで何かが変わるということは、少なくとも清雅は思っていなかった。
後輩、先輩も入り混じってもう少しそのからかいを続けようとしてた時、それを遮るような、清雅への興味が十割の声が投げかけられる。
「おー、来たのか河流」
ジャージ姿の女性教員が、やはりニコニコと笑いながら歩み寄ってきた。
彼女は新田、丁洲高校の国語教師にして、女子バスケ部の顧問でもある。
彼女は突然として練習の手を止めた部員たちに特に何かを思うことはないようだった。当然、熱意のある顧問であればそれは小一時間の説教を覚悟せねばならない事態であっただろうが、その様子から容易に理解できるように、彼女はいい意味でも悪い意味でも、生徒の自主性にすべてを任せるタイプであるようだった。
最も、それは仕方の無い面もある。彼女はバスケは愚かスポーツの経験すらもなかったし、学生時代は運動部のマネージャーとして活動していたことが唯一の運動部との関わりである。
だが、それは特に問題になるようなことでもなかった。丁洲高校女子バスケット部は部員が多いわけでもなく、特別強いわけでもない、レベルの高い環境を求めるプレイヤーがそれを求めて入学する事は殆ど無いだろう。
「いやー助かるわあ。ほんと猫の手も借りたい状況だったから」
公立高校らしい人事の犠牲者であったが、新田はその立場を不満には思っていなかった。
彼女なりにバスケの勉強は続けていたし、マネージャーの経験から裏方もこなしていた。
だが、やはりそもそも未経験であることは大きなネックであったから、バスケ経験者が一人でも増えることは喜ばしいことであった。時折男子バスケ部の顧問に協力を仰ぐことはあったが、それで全てが埋まるわけではない。
故に、中学レベルとは言えバスケット経験者がいれば心強かった。
「
三年生の問いに彼は頷く。
成前中のバスケ部といえば、その地域その界隈ではそれなりに有名であった。
「ちょっと動いていきなよ」
押しの強い先輩なのだろうか。その三年生は小脇に抱えていたボールを床のバウンドを経由して清雅に手渡した。
「1on1やろ」
「いや、今日はジャージも靴もないんで」
「一回だけなんだからいいじゃん、靴も……誰かに借りる? サイズは?」
やはり押しの強い先輩であったが、おそらくその提案に悪意めいたものはなく、ただただ純粋に清雅の実力への興味だろう。恥をかかせてやろうとか、思い知らせてやろうとか、そういうものは感じられない。
「二十六です」
アチャー、と、その先輩はわかりやすく頭を抱えた。女子にしては大きめのサイズ、男子ならば珍しくはないだろうが、流石に男子の靴を借りて履かせるという発想は彼女にはなかった。
出来ない流れになりかけていたが、それを防いだのは顧問の新田の声であった。
「予備のやつにそのくらいのやつなかった?」
あっそうか、と、部員たちは頷いた。気の早いものなどは、すでにそれを取りに行こうとしている。
予備、とは、更衣室に放置されている体育館シューズの一群であった。卒業と共においていかれた物がほとんどで、持ち主がいない。かと言ってそもそも体育館に来るような人間はほぼ確実に体育館シューズを持っているわけで、殆ど使われることがない。一年に一回程度しか洗われないそれが、まさか役に立つ日が来ようとは。
「できるね」
ニンマリと笑う先輩に、段々と清雅も乗り気になってきた。
「じゃあ、ちょっとやりましょうか」
一旦ボールを置き、カバンを隅に放り投げた。
上着を同じようにカバンの上に放り投げ、ワイシャツのボタンをいくつか外す。
最後にスカートをパサリと落とせば、現れるのはハーフパンツ。
運動ができない格好ではないが、あまり褒められた格好でもない。
だが、それを叱責できる立場である三年生も、顧問の新田もそれに何の異も唱えなかった。当然だ、それを求めたのは彼女らなのだから。
「実際の所どうなん?」
軽く体を捻りながら靴を待つ清雅をコート外から遠目に見ながら、一人の部員が伊武に問うた。それを問うのに、伊武は最も適した人材だろう。
「かなり上手いよ」と、彼女は目を輝かせながらそれに答えた。
だめだこりゃ、とその部員は思った。とてもではないが、客観的な評価ではなさそうだった。
「もう一回!」
垂直に跳ねたボールを手に取りながら、その先輩はそれをワンバウンドさせて清雅に返した。
一回だけ、といった約束はどこに言ったのだろうか、すでに彼女と清雅の首筋には汗が滲み、ワイシャツは透け始めようかとしている。
体育館を利用する他の部員たちも、なんとかそれをさとられぬように気を張りながらチラチラと彼女らを見ていた、彼らの名誉のために言っておくが、助平心からではない。
元々は一回だけという約束だったのだ、点数をつけているわけではない、だが、それでもこの対戦でどちらがより有利なのかということは、見るものの印象のとおりであった。
「いいですよ」と、それを受け取った清雅は、ワイシャツのボタンをもう一つ開けながら答えた。バスケが嫌いなわけではない、繰り返していく内にだんだんと熱が入る。
一度それを先輩にトスし、バウンドを介してからそれを受け取ってから再び勝負が始まる。
先輩はあまり間合いを詰めすぎないように清雅の進路を塞ぐ。
清雅はボールをついて一歩踏み出す。それを見てから先輩は間合いを詰めない。
ドリブルからのディフェンスを抜き去るドライブが得意であるのは、これまでの対戦で嫌というほどに経験していた。相手の動きに多彩に対応できるように、ここは追わない。
だが、今度は清雅が正面から自ら間合いを詰める。先輩はその一瞬の動きに思わず目をやってしまい、反応が一瞬遅れる。
そこで清雅が動きを変えた、内に内に、右手左手と交互にドリブルしていたリズムを、不意に右手を返してドリブルを外にこねる。
左から抜き去るつもりだ! と、先輩は体をそちら側に振った。インサイドアウト、リズムを変えて相手を抜くテクニック。
だが、再び返された右手が、ボールを清雅の足の下に通した。
それに気づいたときには、すでに清雅は右から抜き去っている。インサイドアウトそのものをフェントにしたレッグスルーが本命だった。
先輩はそれでもすぐさま振り返ってそれを追うが、すでにドリブルを真正面から捉える状態ではない。
後は高く飛んで体をゴール方向に流しながらレイアップシュートを決めるだけだった。
「降参! もう降参!」
再び垂直方向にバウンドしたボールを見やりながら、その先輩は天を仰いで言った。
悔しげだったが、そこに怒りのようなものは感じられなかった。大会までまだ日はある、清雅を相手にもっと練習を重ねればまだうまくなれるはずだ。
「はーい、じゃあ練習終わり」
新田の声で、部員たちはようやく時間を認識したようだ。
「また来なさいよ」と、先輩は清雅に言った。
「ええ」と、清雅もそれに返す。爽やかな、清々しい表情だった。
久しぶりに体育館でボールを触り、楽しかった。
ただ、いつもと違ったのは、ボールが少し小さくなっていることだけだった。