「ただいま~」
平日の終わり、清雅はいつもと同じように、それでいて少しばかり明日の休日に心躍らせるような調子を伺わせながら玄関の扉を開いた。
靴を脱ごうと視線を下げた時、彼は玄関に見慣れぬ靴があることに気がついた。
ギラギラと輝く革靴だった。どこのブランドであるのかということは清雅には全くわからないが、おそらく、安物ではないだろう。
「あちゃー」
小さく彼は呟いた。彼はその靴の持ち主に心当たりがある。
見慣れぬ靴ではあったが、見知らぬ靴ではなかった。
清雅がそれより先を考えようとした時、バタンと扉が開かれる大きな音が響き「清雅!」と、低い男の声。
ドタドタとぎこちなく廊下を叩く音が響き、次の瞬間には、清雅はその男に抱きつかれていた。
「すまない! 清雅すまない! お前が大変な時期に! 私はそばにいてやれなかった!」
つけすぎているというわけではないのだろうが、ここまで密着されるとその香水の香りは強烈であった。
「わかった! わかったから一旦離してよ! 父さん!!!」
「清雅、安心しろ」
テーブルを挟んで向かい合わせ、清雅の目をくどいほどに覗き込む彼の父、
「すでに私の知り合いと話はつけてある。お前は新しい土地で全く新しい人間として生活することが出来るんだ」
意味不明な提案に、清雅は思わず横に座る姉の方をちらりと見た。四角いテーブルに母、父、清雅、姉。
姉、清美は諦めたように首を振った。「頼むからあんたが説明してくれ」と、その目が語っている。
今度は母の方を見る、いつもは頼りになる母であるが、今日に限ってはうっとりとした目で父を眺めている。駄目だ、頼りにならない。
「お前が望むなら、明日にでも出発することが出来る」
「……あのさ」
父親がもう前しか見えていないことを確信しながら、清雅が続ける。
「別に、そこまでして貰う必要はないんだけど」
その言葉に、父は神妙な表情をしながら返した。
「清雅、遠慮することはない。父さんはいつだってお前達の幸せを願っているし、そのためなら何だってする。父さんが普段家にいないのも、こういう時にお前たちを助けてやるためなんだ」
「いや……だから……」
清雅の父は、普段家にはいない。彼は普段会社が持つ海外工場の経営責任者として海外に出向しているからだ。
故に、今回のような勘違いが起こる、状況のみが彼に伝わってしまい、肝心の家族の空気感というものがうまく掴めないのだ。
「俺、別にいじめられてないし。マジで」
父の勘違いを、清雅は的確に否定した。
父がそう思うのも仕方がないだろうし、実際にそのようなことが起こりうる危険性があるのかもしれないが、少なくとも今は、彼が恐れているようなことは起こっていない。
「……本当か?」
「本当だって」
「何も辛いことはないのか?」
「別に女になったから辛くなったことがあるわけじゃないよ」
「誰かに無理やり何かをされそうになったりも?」
清雅は一瞬、無理やり女子更衣室に連れ込まれたあの騒動を思い浮かべたが、あれはまあ、別に多少嬉しくもあったから今回の件には入らないだろう。
「無いって」
「そうか……」
父はそう言ってしばらく天を仰いだ後に。
「よかった~」
わかりやすく脱力して、ズルズルと椅子から滑り落ちかけた。
「美咲さん、お茶頂戴」
母はそれを聞いて「はいはい」と我に返ったようになってから席を立った。母の名は
「だからさあ、私何度も言ったよね、心配ないって」
「すまん、しかし本人から直接聞かないことにはどうしても」
父は椅子に座り直してから続ける。
「何も問題がないなら良かった、それが一番だ」
「せめて帰ってくるなら連絡をくれればよかったのに」
「本当に急いで帰ってきたんだぞ、そんな余裕なかったんだ。それに、三日後の朝には帰らなくちゃならない」
事実、彼の立場からすれば、本当にうまく時間調整をして空きを作ったものだった。
「はい」
「ああ、ありがとう」
目の前に置かれた湯呑を傾けてから、父はホッと一息ついた。すぐに飲めるようにぬるく作られているのが、母の想いだろう。
そして、ようやく落ち着いた目で女子の制服を着る清雅を眺める。
ホッとして気が抜けすぎたのか、彼は小さく笑いながら言った。
「母さんの若い頃にそっくりだなあ、清美の小さな頃にもよく似てる」
更にもう一度茶を飲んでから続ける。
「娘が二人か……」
「そろそろご飯の準備するわね」
母が席を立った。
それを気にせず父が続ける。
「よし、それじゃあ明日明後日は父さんと一緒にいような、好きなところに行こう」
その提案に、姉とキッチンの母は目を輝かせたが、清雅はそれに首を振った。
「いや、俺明日は釣りに行くから」
「釣り? 一人でか!?」
「マサ兄達とだよ、いつものメンツ」
ああ、と父は納得したように頷いた。近所に住む清雅の兄貴分は、父もよく知っていた。
「それじゃあ明後日」
「明後日も伊武と買い物行くんだけど」
「おっ、伊武ちゃんとか」
父は嬉しげな表情をした、清雅からすればうっとおしい。
「よし、父さんもそれについて行こう」
「だめに決まってるでしょ」
その提案は姉のほうが真っ先に否定する。
「しかし、女の子二人で街中に行くのは……」
「私中三の頃から行ってたけど、というより父親が女の子二人の買い物についていくほうがヤバいし」
「ううむ」
「まあまあ、いいじゃありませんか」
サラダボウルを机に置きながら、母が言った。
「休日は私達と一緒にいましょうよ、私だって、あなたと合うのは久しぶりなんだし」
「そういう事、私と母さんで我慢しなさいな」
ううむ、ともう一度父は唸った。
「しばらく見ない間に、皆大人になっていくんだなあ」