休日の朝、高校生にしては珍しく、清雅は早くに起床した。
階段を降りてリビングに向かえば、すでに彼の母が食卓に立っている。
「おはよう」
「おはよー」
親子間の何気ない挨拶を交わした後に、彼は身支度を整えるために洗面台へと向かった。
「今日は昼過ぎに帰るよ」
焼いたトーストに雑にマーガリンを塗りながら清雅が母に言った。
「そう、私達もそのくらいまで買い物してるかも。鍵かかってたらごめんね」
「いいよ全然」
彼がトーストを口にしようとした時、よく響く唸り声と共にもう一人リビングに登場する。
「う”~。お”はよ~」
「おはよーさん」
「おはよう」
クッタクタのパジャマに身を包んでいるのは、清雅の姉であった。普段は一人暮らしだが、たまに週末を実家で過ごす。
彼の家族は四人、父と母と姉と、そして清雅だ。
尤も、姉はすでに一人暮らしで、父は物心ついた頃から単身赴任で家にはいない。今では普段家にいるのは清雅と母親だけだ。だが、別に父以外がそれを特別不満に思うことは無かったのだが。
「買い物行くの?」
「そう……お母さんと服見に行くんだ」
「へー」
「あんたは釣り?」
「そう」
「今日は期待できるの?」
「いつも期待してよ」
「無理よ、あんたボウズばっかじゃん」
「そんなことはねえって、四人分釣れないだけだよ」
「四人で行ってるんだから四人分くらい釣りなさいよ」
ふああ、と隠しもしない大あくびをしてから、彼女も洗面台に消える。
あれで世の中じゃ美人で通ってるらしいのだから世の中ってのはちょろいんだなと清雅はいつも思う。
☆
集合場所である道路沿いの公園には、すでにクーラーボックスに座る山上の姿があった。
クーラーボックスに座り込むのは別に変なことではなかったが、かなりの長身である彼がそうしてしまえば、いくら多少は頑丈に作られているとはいえクーラーボックスが悲鳴を上げているように見える。
「おはよー」
「おう、おはよう」
同じくクーラーボックスを地面に置きながら、清雅はそれに座り込む。
彼らはふたりともボロボロのジャージを着ていた。釣りには『どうなってもいい服』で行くのが最低限の自衛だ。
「氷持ってきた?」
「おう、今日はバッチリ」
クーラーボックスには氷が必要不可欠だ。しかし、清雅はたまにそれを忘れることがある。
彼らはもう少しなにか話を続けようとしたが、その時、一台の車が彼らの前に止まった。
ボロボロの車だった。ボディにはいくつもの白い線が入り、ドアの一部にはガムテープが貼られている。ボンネットにはいびつな若葉マークが貼り付けられ、なんとかそれを剥がそうとした跡が見えた。
「おはよーさん」
何故かドアを開けながら助手席の男が言った。金髪にピアスを開けたその男は、あまりその車にふさわしくはなかった。
「ついに窓も開かなくなったの?」と、清雅はそれを指差しながら言った。
「そうだよ」と、今度は運転席の男がため息を付きながら答える。助手席の男と違って彼は平々凡々な見た目の、悪く言えばこんな車に乗っていてもおかしくなさそうな男だった。
「まあでも、まだ特に困ってないから」
「今まさに俺が困ってるんだが」
金髪の男が呆れたように言った。
清雅達はそのようなやり取りを無視してトランクに荷物を積み込む、外面と違って中はそれなりに整理されていた。
「マサ兄はそういう所あるよね」
まるで自分の車であるかのように後部座席に乗り込みながら、清雅が運転席の男に向かって言った。
彼は
「そうは言っても、大学生が気楽に車を変えることが出来るわけないんだから我慢してくれよ」
「だから俺が親父の車借りるって言ってんじゃんいつも」
金髪の男がようやく扉を締めながら言う。彼は
「いやあの車にクーラーボックスは駄目だろ」
よろしくおねがいします。と一つ挨拶してから山上が乗り込んだのを確認してから、内海はエンジンをかける。
気の毒そうなエンジン音が車内に響いた。
待ち合わせ場所であった公園から気の毒な車で十分程行ったところに、その釣りスポットはあった。
夏場は海水浴場として開放されているその公園は、それ以外の時期では釣り場として開放されている。
良質な釣り場だった。遠浅の砂浜であり、波止には手すりもついておりうっかり落下するリスクもない。
釣り竿を放置しながら駄弁るのに最適な場所であった。
「お前らもそろそろ彼女の一人や二人出来たろ?」
鴻上はその話題を放り投げるように言った。
それでもその視線は手すりに立てかけられた竿先に釘付けであった。見た目とは反面に、鴻上は釣りというものに彼らの中で最も熱心であった。
「出来てね―よ」と、清雅は組み立て式の椅子に思い切り背もたれながら答えた。釣りは好きだが、放置されている竿を凝視するほどではない。
「俺も出来てないっす」
山上も同じく答える。それなりに誰もが使えるように作られているであろうその椅子が、彼には窮屈そうだった。
「俺にだっていね―よ」
すべての仕掛けを投げ終わった内海が椅子に座り込みながら答える。最もキャリアが長いだけあって、彼は仕掛けを遠くまで飛ばすことに慣れていた。
「ありえねーわ。内海はそれでもいいけどさ」と、鴻上が金髪をかきあげながらため息をつく。
「そんな事言ったってさ、コールさんにだっていないだろ」
「は? 俺はいるし」
「嘘だ、だって先週も今週も土曜は俺達といたじゃん」
「はー、お前はガキだなあ。女と会うのは夜と朝! 昼は男と遊ぶもんなんだよ」
鴻上のその言葉は強がりではなかった。彼はその件に関しては見た目通りの上級者であり、むしろそれが『普通』のことだとすら捉えていた。
「そういえば」
大きくしなった竿先が、何かに食いつかれたからなのか、それとも波によるものなのかを大学生二人が確かめに行った時に、清雅は不意にそれを思い出した。
「ヤマちゃんさあ、明日暇?」
「明日? まあ何もないと言えばなにもないけど」
不思議そうに首をひねりながら答えた山上に彼は続ける。
「映画いかね?」
「映画?」
山上はそれを不思議に思った。その娯楽が彼の口から出てくることは珍しい。
「そう、なんか伊武が一緒に行こうって言ってきたからさあ、良かったらお前もどうかなって」
「ああー」
山上はその言葉にでかい体を縮こませるようにしながら唸った。そして、しばらく黙り込む。
清雅にはその理由がわからなかった。
やがて彼はもう一つ唸ってからそれに答える。
「それは駄目だよ」
「駄目?」
「うん、それは良くない」
小さく首を振る彼の感情を彼はイマイチ理解することが出来なかった。
だが、それに強烈に感銘を受けた男が一人。
「よく言った!!!」
いつの間にかその場に戻ってきていた鴻上は、山上の言葉にいたく感動していた。魅力的な竿のしなりが結局波によるものだったことの落ち込みなんて一瞬で吹き飛んだのだ。
「お前は偉い! 偉いぞ! 俺は感動した!」
彼は山上の背中をバシバシと叩く。大分力に遠慮が無いように思えたが、赤くなりながら小さくなっている彼はそれを止めない。
「明日は俺達と焼き肉食いに行こうな! 俺が奢ってやるから遠慮せずに食えよ!」