朝、清雅は尿意によって目覚めた。
別に不思議なことではない、朝用を足すついでに目覚めるなんてほとんどの人間が経験していることだろう、それが起きるべき時間の少しだけ前ということもよくあること。
「ん?」とベッドから起き上がる時に戸惑いの声が漏れた。
何が、とは言い切れないが、体のバランスがおかしくなっているような気がしたのだ。ほんの僅かであるが、重心が高くなったような。
だが、それはそれ以上深く考えられることは無かった。寝起きだ、そのようなことはいくらでも起こり得るだろうし、もし仮に体調が悪いのだとしても、それは尿意解消への欲望を否定する要因にはならないだろう。
「おはよう」
キッチンで朝の準備をしていた母は、視界の端から投げかけられたその挨拶に反射で返しながら、やはり「ん?」首をひねってその方を見た、すでに息子は視界から消え、トイレの扉が閉まる音がする。
いつも聞いていた声よりも、ほんの僅かだが声が高い気がした。風邪だろうか。
だいぶ暖かくなってきたとは言え、やはりこの時期に釣りをしたのがまずかったのだろうか、朝ごはんにトマトでも追加するかと考えていた時、不意にトイレの方向から「うわああああああああ!!!!」と言う、やはり高い声が聞こえる。
それに驚いて背筋を跳ね上げた母の心臓を考慮すること無く、今度はトイレのドアが勢いよく開け放される音。
「母さん! 母さん!!!」
バタバタと床を踏み鳴らしながら、清雅が彼女の前に現れる。
「ヤバい! ヤバイよ!」
ただならぬ様子だった。
「無い! 無いんだよ!」
無いって何が、と、彼女が質問するよりも先に、清雅は下着ごと寝間着のズボンをずり下ろす。いつもはこんなに短絡的な解決法を取るタイプではないのだが、いかんせん混乱しすぎている。
目の前に現れなかったものを見て、今度は母が叫ぶ番だった。
☆
「突発性性転換症候群ですね」
眼鏡の医者は、二人に向かってそう言った。
あるはずのものがなく、まっ平らであるはずのところが膨らんでいることに混乱した河流親子は、すぐさまに行きつけの総合病院に車を飛ばした。
対応した事務員や看護婦も訳がわからなかっただろう。不意に現れた親子が、息子が娘になったのだと慌てふためいていたのである。その親子も、対応した彼らも随分と戸惑ったはずだ。検査を受けている最中にも、その戸惑いは常にあった。
故に、医者が特に戸惑うこともなくそう言ったことに、彼女らはやはり戸惑っていた。
だが『突発的に性転換する症候群』だよと全面的に説明しているようなその病名に、彼女らは妙な納得を感じてもいた。今、清雅に起こっていることがまさにそれであるからだ。
「まず前提を確認したいのですが、お母様は、えー、この子が河流清雅君であることを……何と言えばいいんでしょうか、認めていますか? つまりですね……もし、もしですよ? 例えば本当の彼はまた別のところにいて、今ここにいる子は良く似た偽物であるとか……そういう事を考えていたりとかは」
むちゃくちゃな理屈だったが、たしかにそうも考えられるよな、と、清雅は何故かその部分だけは落ち着いて考えた。
「ありえません」と、母は清雅の肩を持って言う。
「確かに今でも戸惑っていますが、この子は私の子です。間違いありません」
母のその答えも、あながち狂信的というわけでも無かった。確かにあるべきものがなくないべきものがある状態であり、声も少しだけ高くなっているような気がしたが、それでも目鼻のパーツや表情は清雅のものであったし、何よりこの数時間の中で感じた雰囲気や言葉遣い、性格は、彼女が十六年と少し一緒に過ごしてきた息子であることの証明であった。そこは疑いようがない。
「良かったです」と、医者は微笑んで言った。
「未成年のTS患者であった場合、親御さんがそれを受け入れるのに時間がかかってしまうこともありますので」
TS、というのがおそらくその病名の略称なのであろうことは、彼女らにもわかった。
「あの、そのTSと言うのは、そんなにありふれたモノなんですか?」
「いえ、極稀ですよ、この国でも症例として報告されているのは数件だけです。ですが特徴的な症状なので有名なんですよ。まだお子さんの遺伝子検査の結果は出ていませんが、私としても過去のカルテと現状の一致から息子さん本人で間違いないと考えています」
「ずっとこのままなんですか?」と清雅は問うた。本人としては当然の質問だった。
医者はそれには難しい顔をする。
「世界的には性別が元に戻ったケースが数件だけ報告されてるんですが……基本的には戻らないものだと考えてもらったほうがいいと思いますね」
「そうか」
「あの、これってその……両親に問題があったりするんでしょうか……この子には姉がいて……」
母親として悲観的な質問であったが、医者はそれに首を振った。
「前例が少なすぎる症状ですのではっきりと断言はできませんが、特定の家族や親類間で起こるということは、現段階では確認されていないようです。というより本当に突発的過ぎて原因を絞り込めていないといった感じです」
「別に母さんのせいじゃないんだからさ、そこは気にしないでよ」
清雅は少し落ち込んでいた母に言った。たしかに自分に起こったことの戸惑いはまだあるが、それに関して母が心痛めている様子を見るのはそれはそれでつらい。それに、ここまで理解不能なことが自らの身体に起こっているのに、それに遺伝子が関係しているだなんてとても考えられないと、素人ながらになんとなく思っていた。
「これからどうすればいいんでしょうか」
母の当然の疑問に、医者も首をひねりながら答える。
「そうですねえ……一応過去の事例ではこれをキッカケに一旦社会から離れると、復帰に時間がかかるケースが報告されています。一日でも早く社会に復帰することを前提に、今まで通りに生活するのか、それともまた別の土地で生きていくのか、というところになるんじゃないかと思います」
そうですか、と、母は考え込んだ。
別の土地で生きていこうと思えば、単身赴任している父の生活圏から高校に通うことも可能だろう。
だが、清雅は「母さん」と言って続ける。
「俺、明日からまた学校行くよ。行ってから考えてみる」
それは些か早すぎる結論のようにも思えたが、高校生らしい考えであった。
今更新しい土地で暮らすよりも、やっぱり友人たちと一緒にいたい。
母はやはりまだ難しい顔をしていた。だが、いずれ清雅の言うことに折れるだろう。
「清雅君」と、医者が身を乗り出して言う。
「なにかつらいことがあったら、遠慮なく私達に相談してくれ。私達としても全力で君をサポートするよ」
まだ一ミリの先も見えない状態であったが、助けてくれると公言してくれている人間がいることは心強かった。