この橋渡る者無きこと長し   作:塵紙驀地

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雲隠事件
幸福を追う夢物語


寝ぼけた私の前には獏が居た。といっても、人の形をしている。見た目だけなら私と何一つ変わらない。

 

(……さっさと起きればいいものをこんな長々と眠りこけやがりまして。夢の世界に持ってくるのにどれほど時間をかけたか。……まだ起きがけで頭も回っていないように見え……)

 

……それなりに思考が速い方のようです。

 

「……こんにちは。古明地さとりさん。ここは―」

 

「夢の世界ですね。」

 

「……ええ。」

(おお……。しかし、よく落ち着いておられ―)

 

……なぜ私は落ち着いているのでしょうか。見渡しても淡白で形容しがたい色と模様しかない空間。自己紹介こそされたけど、全く知らない妖怪が目の前にいる。知らない場所、知らない妖怪、慌てていても仕方がないはずなのですが……。

 

(―ろき。まさか心を読むのは本当でしたか。)

 

「私は心を読みます。さとり妖怪ですから。」

 

「へえ……。」

 

静かに返事をしただけの獏だったが、脳内はむしろ喧しいと言っていいほどだった。さとりの脳にはせわしく思考が流れてきていた。静かに笑みをたたえる獏の脳内は、さとりへの興味で溢れていた。

 

(噂には聞いていましたがなかなかに面白い。)

 

面白い?嬉しいけど、期待……されたくない。

「ええと……そこまで面白いとは思いませんけど……。」

 

「面白いかどうかは私が決めること。」

 

(少々卑屈っぽい?……失礼。心が読めるのでした。ひどい夢ばかり見ているから表の人格に何らかの問題があると推測していましたが、どうも違うようです。心なんて覗けないので何とも言えないですが。……こんなこと考えるのはあまりよくない。控えたいけれども……。)

 

そうですそうです。私に近づかないほうがお互いに気を使わなくてすみます。

 

獏の思考と、実際に流れてくる興味の量は大きな差があった。これはさとりにとっては珍しいことだった。普段は表面だけ友好的に取り繕って話す輩ばかりだった。興味こそそこまで流れてこないが、パルスィは彼女にとって数少ない表裏一体の妖怪だった。

 

(わざわざ調べるのは野暮というもの……いやしかし考えた時点でそれはどうしても脳に浮かんでしまうもの。この際一度試してみますか……Carrot。)

 

人参のようなものが、まだうまく回らないさとりの脳に流れてきた。

 

……きゃろっと?……見た感じ人参に見えますが……。

「……人参?」

 

(ああ!すごい!こんな言葉は知らない筈なのに!……脳内に浮かんだ言葉が母国語化されている?……人の言葉をそもそも全て理解している?……まさか心を読むというのは概念?文章が流れ込んでくるわけではない?ならばpapillonは?)

 

パピヨンという言葉とともに脳内には蛾か蝶か、どちらともとれない大きな虫というものが浮かんだ。

 

……どちらでしょうか。虫に詳しくないのでわかりません。家に昆虫目録があった筈ですが……。埃を被っているでしょうね。

 

「……蛾?」

 

(本当に興味深い!彼女は日本語話者でした。私が英語で考えたら?いや、私が英語で考えたところで、相手からみるとその母語で話しているようしかに思われない可能性も大きい。……私が私のことにより詳しければさらに楽しかった筈なのに。……悪魔を連れてきたらどうなる?どの言葉をも解する悪魔に欲を読ませたら?)

 

……これ、パルスィさんと話したことですね。……そもそもこの獏は何がしたいのでしょうか。嫌悪感こそ抱かれてはいませんが……最初だけですよ。皆そうでした。

 

夢の中のまどろんださとりは、起きているさとりよりも卑屈でもいやみでもない。嫌われることの無い、普通の返事を続けていた。夢心地のさとりはそれに気付くことは無かった。

 

(……気になることができました。試してみましょうか。)

 

先程からの思考で嫌な予感はしていたが、ここでさとりは本能に響くはっきりした嫌な予感がした。はっとして前を見ると眼前の獏の笑みが、無邪気な稚児のような笑みへと変化していた。

 

(心を覗けなくすればどうな

 

さとりに流れ込んでくる感情が何の余韻も与えずに消えた。その意味がさとりには一瞬で理解できた。

 

……え?読めない。

 

「あの……今……何を。」

 

「おや?成功してしまいました。」

 

「私の……あれ?……ある。」

 

目を確認しても、無くなってない。どういうこと……?この妖怪に紫ほどの力があるとは思えません。……隠しているだけ?

 

「ああ、やはり説明が必要なようです。ここは私の世界。さしずめ家といった所です。私はここにおいてのみ神様よりも偉い。」

 

戸惑っていたら、話しかけてきました。……とにかく聞き入るしか無さそうです。早く止めてもらわないと落ち着かない……。

 

「……神?家……?家なんてどこにも―」

 

「下です。貴方、浮いていますよ。それはとても器用に。ええ、もちろん私のおかげ。神様みたいでしょう?」

 

下?……ありましたね。……それよりも私が浮いていた?寝ぼけているのかもしれま……そもそも夢でしたっけ。落ちるのでは?……落ちませんね。

 

「混乱していますね?大丈夫。客人には手を出しません。丁重なおもてなしをして差し上げますので、元気よく目覚めていただきますよ。さもなくばこちらが困る。」

 

「手を出すって……何を。」

 

「ふふふ……気になります?こういうこと。」

 

二人はかなり離れていたように見えていたが、まばたき一つの間に息のかかる所まで顔が近づいていた。

何より彼女が驚いたことはいつの間にか上半身が裸になっていたことだ。僅かに傷を残したなだらかな胸部があらわとなってしまう。恐怖と不快感がさとりを襲う。

 

え……?嫌だ逃げないと。

 

「ひっ―」

 

体が硬直した。身じろぎ一つ出来ない。

 

「言ったでしょう?この世界のみならば私は何だって出来る。」

 

愉悦の笑みを浮かべるドレミーの人差し指がさとりの左頬をつうっと優しく撫でたが、当然さとりはそれどころではない。

 

「やめて!」

 

「っ!……本当にさとり妖怪は冗談が通じない。手を出さないと言ったでしょう?しかもこのような卑猥な手出しなどするはずがないに決まっているでしょうに。」

 

渾身の力を振り絞った大声に驚いたか、ドレミーは少し跳ねるような反応をしたが、やがて肩を竦めながら離れていった。離れたかと思えば突然彼女は指をならした。途端に服もほとんど元通りになった。硬直も解け、ただふわふわとくらげのように浮く感覚だけが残る。さとりははっきりと、しかし混乱した脳と体で目の前の獏を睨み付ける。

 

「貴方はなんでこんな……?急に服を剥ぐなんて冗談にもならない!こんな……。」

 

……私は冗談が通じない?流石にこれはあちらが悪い。こんな破廉恥な真似なんてされたことがない。……信用すら出来ない。どうにか……どうにかして早く離れたい。

 

心を読めるさとり妖怪は、心が読めなくなると途端に何も見抜けなくなる。つまり、心の機微を読むことがうまくない限り、嘘や悪い冗談を見抜くことは下手だ。さとりもその例の一つに過ぎない。

 

「……そもそも、怪我の様子を見るために裸にしただけですよ。……その事なのですが……、なぜ起きないのです?なぜ精神が希薄なまま?ここは夢、貴方の精神が肉付けた夢の中の貴方はここまで傷がない。それならば一度くらいは意識が浮かび上がってもおかしくない。」

 

さとりの脳内には夢から抜けることしか無かった。

 

「そんなもの私もわかりません。……ここから出るには?」

 

「ほう……出たいと。それは本心?私には貴方が真逆の本心を持っていると思えますが。」

 

そう言われてもこのような妖怪が居るところに長く居たいとは思えませんし……。

 

「私はここから出たいのです。貴方が信用なりません。」

 

ドレミーの顔に僅かに落胆の色が見えた。それが何を意味するのかはさとりには分からなかった。

 

「はあ……。堅物に変な真似をしなければよかった。一つお話ししましょう。まず貴方は少々意識を万能視しすぎている。」

 

「……それで、何が言いたいのですか?」

 

「脳内で考えられたことがその人の全てなんて愚かしい。心を読めたからといって、貴方がその人の全てを理解した訳ではないと言いたいのです。それは貴方自身にも当てはまりますよ?」

 

自分の能力を頭ごなしに否定されたと考えた者は、ほとんどが心中穏やかではない。さとりはややむっとしながら反論しようとした。

 

「……それでも意識はその方のほとんどを占めていると思いますよ。私は頭を使う賭け事で負けたことはほとんどありません。……賽子などの運は兎も角―」

 

「そこです。賽子を運のみだと考えている者が多すぎる。貴方がよく出るなと思う数字は一つはあるはずでしょう。どの数字を上にして、どう振るかを意識していつも行っていますか?その数字が出る時にいつもと違ったことを行っていないと言い切れますか?」

 

「……確かに、私も常に物事を考えて行っている訳ではないと分かっています。でも、この賭け事の例えは本当に振り方が原因とはわからないではないですか。無意識が及ぼす影響は小さく、意識と意識の繋ぎ目の副次的なものだと言える気がしますが……。」

 

……私の能力はどれだけ私を助けてきたのか、この妖怪は一切知らない。こいしの無意識にだって、意識があるはず。……こいしの能力はもしかしたら私から心を覗かれないというもので、実は意識に支配された行動。……そうでなければ私はあの子の心を一生読めないということになってしまう。そんなの……認められません。

 

「副次的?無意識は副次的なものと。……まさか。一日の半分を占めるこの夢の世界も副次的。副次的……ですか。」

 

副次的、という言葉はドレミーにとって心地が良い言葉ではなかったのだろうか、少々受け入れ難そうに副次的という単語を咀嚼していたドレミーだが、結局受け入れられなかったのか、鋭い視線を送ってきた。

 

「無意識を馬鹿にするとは……。私からすれば貴方のその意識こそ出鱈目なもの。無意識と背反している。そして、無意識は貴方の意識よりも深く、根強い。……なぜ本心か聞いたかお答えしましょうか。……私が冗談無しに夢から出たいか、と聞いても貴方は現の世に戻りたいと語ったでしょう。……そこは間違いありませんよね。」

 

それは……当然。地霊殿にあの子達を残してしまっています。私の居ない地霊殿はどうやって統治をしているのかしら……。心配になってきました。

 

「多分貴方の体は十分に治りつつあるでしょう。なんせ、夢の中でもそこまで重傷でないのだから。ならば心と体、どちらもが望めばさっさと目を覚ましている筈ででしょう?でも貴方は目覚めなかった。」

 

「……もしかして、実は体に異変があって、もう……、起きることが……。」

 

「ああ、そんなに震えないで、体に問題はない筈だと言ったでしょう。……もしかしたら貴方の推測も外れていないかもしれませんが。……その時は体が衰弱して天に召されるまでは一緒にいて差し上げますよ。夢の世界で味わえる最高の……いや、こんな暗い話は止めましょう。問題は貴方が夢の世界に浮かぶ前です。貴方は無意識によって支配されていました。そして、無意識は私を拒もうとした。」

 

無意識……。そのときの私が何かを考えていたとは思えない。多分気のせいだと思います。だって、あんなことしだす適当な妖怪ですし……。

「何も考えていなかっただけ―」

 

ドレミーは急に右手を挙げてさとりの話を遮った。

 

「そう言いたいでしょうが、少しだけお話を聞いていただきたい。ここからは私の持論となりますが……貴方の無意識は何らかの理由で目を覚ますことを送らせようとした。それが何かは私と貴方を含め誰も明確に答えることは出来ませんが……。」

 

「……私は地霊殿の皆と数少ない知り合いを愛しています。その皆さんに迷惑をかけるなんて……。」

 

さとりにとって譲れないのは、数少ない仲間への思いだった。急に現れた獏ごときにさとりの思いについてとやかく言われるつもりは無かった。

 

「問題は貴方の無意識はそこまで高潔な魂を持ち合わせていないことです。所詮妖怪の持ち合わせる己の為だけの魂ですから。……今から貴方に言うことは、貴方を傷つけるかも知れない。でも、意識も無意識とそう外れてはいない筈です。貴方はそれをそう簡単に否定できない。」

 

さとりは身構えた。これから来る酷い言葉に耐える為ではない。酷い言葉の粗に噛みつくためだ。無意識を副次的と言ったことも忘れ、さとりは非道なこの世界の王に立ち向かう。

 

「さて……貴方は第一に我儘です。貴方が大切な者と隣に居ようと、大きな危機が差し迫ったら己のみを守ろうと無意識が働く。……例え大切な人のほうが危険でも。ね。」

 

さとりの頭上に大きな岩が一つ降ってきた。刹那、さとりは左に反射的に飛び、そのまま落石はドレミーの家の真横に突き刺さった。

 

「何をするのですか!」

 

「……避けなくても別に当てはしませんよ。一尺ほどずれています。貴方を押し潰すことが目的ではない。」

 

付き合ってられない。岩?夢の中で死ぬ所だったなんて信じられない!

「もういいです!早く帰して!」

 

怒り心頭でドレミーから離れていこうとしたさとりだったが、次の言葉に立ち止まざるを得なかった。

 

「こんなにも愛している地霊殿の仲間や知り合いに迷惑をかけたいと思っている。」

 

「そんなこと!」

 

立ち止まったのを見てにやりとしたドレミー。術に嵌まったと理解したさとりだったが、どうしてもこの話を否定したくなってしまった。

 

「愛したのだから愛されたいと思っているのでしょう?貴方はさとり妖怪。彼女達の意識の中の貴方への愛を知った。でも貴方の無意識はそれでは足りなかった!無意識は結局妖怪を信じようとはしなかったのでしょう。まだまだ確たる証拠が欲しかった。仲良くなりたいのなら何故己を卑下している?嫌われようとする?貴方は周りに映る己を恐れた!」

 

「そんなひねくれた見方なんかしていません!等身大の私を見てくれる妖怪が欲しかっただけ!」

 

「……良かったではありませんか。貴方を受け入れてくれる妖怪は僅かながら居た。幸せですねぇ。……欲にまみれた貴方の無意識はどっぷりとその毒に依存してしまった。悲しいことに、依存しながらもまだまだ信じられなかった。無意識は駄目な私でさえついてきてくれる忠実な僕を欲した。迷惑をかけても許してくれるような……。良いお話でしょう?貴方はこの屑になる可能性を秘めている。」

 

結局、さとりはこの話を否定するだけの矛盾点を掴むことは出来なかった。

 

「……出鱈目です。……そんなこと。」

 

「まあ推論には違いありません。……ここまですれば貴方も意識がはっきりとしてきたでしょう。……お目覚めの時間ですよ。残念なことに明晰夢に等しい夢なので、貴方の心に残り続けます。忘れさせてあげることも出来ますが……。確か百年前くらいに橋姫にはしてあげたような……?指令では友好的に振る舞い、忘れさせるように……と指示されていた気もしますが……気が変わりました。別に貴方の為にしてあげる義理もありません。月の利益と私の利益は別物であることもあります。ま、長期的に見れば貴方と私は友好関係にあるべきなので、何かあれば協力いたしますよ。」

 

ここでパルスィさんを出してくるなんて……。やはりこの方とはそりが合う気がしません。

 

この世界で最後に見たものは、白く霞がかった空に浮かぶ獏のみであった。

 

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