……眩しい。よく知った天井。痛い……胸?頭はすっきりとしていますね。……あの夢のせいだ。忘れてしまいたいような。
音の無い部屋で目を覚ました。さとりの部屋は、あの時外に出たときと何ら変わっていなかった。耳鳴りと渇きが時間を感じさせた。起こせるかも分からない体を動かそうとする前に、布団の上に重みを感じた。大切な家族だった。さとりは勿論知らなかったが、どうやら先程大きな爆音がしていたらしい。お燐の心には何もわからないという不安と、未だ目覚めぬ主を守るという決意が渦巻いていた。
迷惑をかけてしまった……?お燐にもお返しをしなければ……。
普段よりも強く念が浮かんださとり。普段よりも重く感じる右手を静かに伸ばし、そっと耳を撫で……彼女は突然跳ね起きた。
慌てて布団から飛び降りたかと思うと、既に人のような見た目をした赤髪の美女へと変わっていた。
呆気にとられた様子でこちらを見つめ直し、また固まるお燐。
「……お燐?」
いつもの声とは程遠い、しわがれた声しか出なかった。声とも取れない掠れた音だろうが、お燐が一番渇望していた音の条件を十分に満たしていた。
(さとり様!」
思考はそのまま言葉へと変わった。
「あたい頑張ったよ!さとり様がいないときも、館を綺麗にして、燃えた家を建て直すのを手伝って、お空とこいし様と一緒に……そうだ、喉が乾いていますよね、早くお風呂に入りたいですよね、先にご飯ですか?さとり様の望むことを……今すぐ……あたいが……。」
黙っていてもさとりには伝わるが、それすらも忘れてお燐は語った。感極まったお燐の感情の一方で、お燐の言葉は嗚咽に埋もれて聞こえなかった。
上から覗き込むような形でお燐は泣き出してしまったため、大粒の涙がさとりの左頬に垂れた。さとりも涙を流したかったが、生憎さとりの体は一滴の涙も無駄にしたくなかったようで、涙すら流すことが出来なかった。
「もう、起きないかもって……、こいし様が……。」
「大丈夫……大丈夫だから。」
……何日たったの?……寒い。
「お水を……。」
「すぐに 持ってくるよ!」
お燐は飛ぶように部屋から出ていった。一人残されたさとりは今一度体を起こそうとした。鉛でも体にくくりつけたかと勘違いするくらい体が重い。
……動くのが辛い。怪我?それともご飯を食べていないから?妖怪が少しものを食べなかったくらいで死ぬなんて思えませんが……。
斬られたのは覚えている。上半身を斬られた?でも、あれは夢……。
夢の中では、おぼろ気ながら上半身に斜めに大きな傷があった気がしていた。それが本当のものかはさとりは分からなかった。
私は……殺されそうだったみたいですね。殺そうとしたのは地底の妖怪で、心が存在しなかった。今思えば、読めなかった訳では無かった。私は確かにあの妖怪の心を読んだ。……何もなかった。……心が存在しない妖怪なんて居ないと信じていたのに!
この「妖怪」は実際には妖怪では無く、地上から放たれた、ただの式の内の一つだった。飛び出したモノの心を覗いたさとりには、勿論何も映る筈がなかったのだ。
これを知っていればさとりはここまで心を悩ませる必要は無かっただろう。知らなかったからこそ、いくつかの問題がさとりの脳を占めてしまう。
……こいし。私に見せてくれるあの笑顔は……本物?
こいしは心が読めないだけで、心自体は存在する。そうさとりは信じていたが、あの「妖怪」のせいで前提が崩れてしまう。もしかしたらさとりはこいしの心を余すところ無く読んでいるかも知れない。読めないのは心が無いからだ。勿論これはただの憶測に過ぎない。しかし、さとりはこの疑惑を打ち消すだけの材料を持ち合わせていなかった。
部屋の入り口で何かをぶつけたか、物凄い音を立ててお燐が戻って来た。
「さとり様!お水!」
「お燐。ありがとう。」
お盆の上にはたまたま台所にあったものを持ってきたのか、徳利や急須がのっていた。さとりは手を伸ばそうとする。
(傷が開いたらどうするつもりなんですか!そのくらい飲ませてあげますから……。ね、さとり様。休んでいて。)
……止められてしまいました。体が動けば今すぐにでも……。私はあの子達に迷惑をかけたくない。……決して迷惑をかけたい訳ではありません。
頭はひっきりなしにあの獏の言葉を否定出来る材料を探し続けていた。
お燐はさとりの悩みなどつゆも知らないようで、ただたださとりへの献身の姿勢でいっぱいだった。水がさとりの口に静かに流れ込んでいく。むせないように懸命に飲み込む。渇きこそ感じるが、漸く喉が喉として働けるだけの機能を取り戻した。
「もう少し……。」
(いくらでもありますよ。……よかったよ。飲み込めなかったらどうしようかと思った。それに話せない訳じゃないみたい。思っているよりも……本当によかった。)
水が美味しい。……私が死んでいたらお燐やお空はどうなってしまっていたのでしょうか。私のペットにパルスィさんは?
ふとさとりの脳によぎったのは、考え始めると止まらない妄想だった。
……きっと、お燐とお空は悲しんでくれる。でも、私が居ない地霊殿にずっと留まるのか、ここを捨てて何処かへ消えていってしまうのかもしれません。死んだ私の体は誰からも見向きもされず朽ち果てていくのでしょうか。お燐に私が燃やせるのでしょうか?
こいし……。賢い子だと思っています。……心だって持っている筈。そうでなければ悲しすぎます。……悲しんでくれるのでしょうか。もしかしたらこいしには私が不要なのでしょうか?……もしこいしが私を必要としてくれていたのなら。……もっと不味い。私が死んだと知って、あの子は何をする?私は怖くて死ねません。
……パルスィさん。私が死ねば悲しんでくれますか?……私は貴方に万が一があれば悲しい。私がたった一人だったなら、何もない私は貴方の後を追って……私はそこまで素敵な女でも無かった。……きっと死ぬ間際に怖くなって、逃げ出してしまうでしょうね。でも貴方は―
「ねえ、さとり様!」
「え?あっ、ああ、大丈夫。」
……お燐に気を使わせてしまいました。本当に気づかなかった。
「やっぱり、休みませんか?起きてすぐですし、きっと疲れています。」
「心が読めるから、話さなくても……。」
「じゃあさっきのはなんですか!体を起こせすら出来ないんですからお粥が出来るまで寝ておいてくださいね!……さとり様はいつも素敵ですよ。たまには休んだって、誰も嫌いにはなりませんよ。」
(……大好き。)
ああ、皆私を甘やかそうとする。
「……お燐。」
話しかけた時にはお燐は部屋には居なかった。お燐が戻ってくるまで、さとりはずっと死について考え続けていた。
パルスィの家の前には橋町の多くの実力のある妖怪が集まっていた。誰もが不安そうな顔をしており、一部は世界の終わりとまで考えていた。なまじ頭が回る妖怪ばかりなだけに、それぞれが別の不安を抱えていた。
「落ち着いて……!居間に……入らないわね。」
「水橋殿の家の中なんて入ったことなかったけど、いい大工の組だね。皆を入れるにゃ少し狭いが。」
「ああ!さとりがいれば!」
がやがやと好き勝手にわめいたり、話し合う妖怪ばかりであり、話が一向に進まない。何を話しているかも分からない。
「あたしには……、北の生き残った乞食共が押し寄せてくるように思えるね……。」
「姉御のいう通りでさ!わしらが汗水たらして得た銭で米を配るのは……。」
「そんなことを気にする前にここも終わりよ。崩落てのは次々起こるもの。萃香殿や勇儀殿でないと落ちてくる岩を潰せん。あとの衆は潰されて終わりじゃ。それまで皆で楽しく過ごそうや。」
「噂に大火に政変に落石。ひどいことばかり。われわれは外法の者だが、何かに救ってほしくはある……。」
「次々落盤が起こるなら、萃香殿が力試しをしたときにここは崩れ去っていた筈でしょう。それよりも岩をどうにかして取り除かないといけない。それが利益になるとは思えませんがね。中心街の鬼に力試しなどと煽って任せるのが一番かなと。」
「せねばせむかたなし……。」
「古い、伝わらないよ。貴方周りと話してないから。まだ岩は落ちてきてないから、落ちてこないと考えた方がいいよ。落ちてきたら皆でお陀仏だよ。落ちてこないとしたなら、橋町を建て直そう。……そんなに木あるかな。」
瓦版をただ配る職についているだけなはずの老いた鬼の周りには、既に多くの人だかりが出来ていた。筋骨隆々な妖怪や、商人だか、果てには地底の端に居るはずのない鬼や、半分くらい幽霊みたいな妖怪までも集まっていた。
「……取り敢えず、水橋殿の話を聞こうか。」
すでに老婆となった鬼の静かな一言だったが、場の空気は変わった。
……あの人望が私にもあれば、私の暮らしもまた違ったのかしら。妬むしかないわね。
「周りに妖怪がわんさか集まるなんて羨ましいわね。」
静かになったことと明確な嫉妬の対象を得たパルスィは半ば喜びつつ話したが、鬼は意外そうな顔をした。その周りもまた同じだった。
「……何よ。」
「あたしに集まりにきたんじゃないさ。あんたの周りに集まりに来たんだよ。あたしがここにいること、ここに来るまでに誰も知るわけないじゃない。橋町の皆は困ったからあんたの周りに集まってきたんだ。」
「ええ……私?」
「そうよ?鬼ともさとり妖怪とも仲が良いなんて信じられないね。他の役人……だったか?とやらとは比べ物にならないくらいよ。」
……確かにあれらと比べられるのは……、そう考えればそうなのかしら。
「あたし達はどうしたらいい?死ぬとしても、皆一緒だ。ならばやるべきことをやろうと思うよ。」
……前向きね。妬ましいわ。といっても、やれることはそう多くはないのだけれど。
パルスィのこれまでの経験では、今日食べるものがある妖怪は、怒って暴れ出すまでに多少の余裕があるというものがあった。というよりは他に打てる手がないのだ。衣類はそれぞれ背も幅も特徴も違うのに、配りようがない。虫が食べてしまうものもある。家を建てるのは不可能に近い。北側は妖怪の急増により木が足りなくなりつつあった。第一、鬼ばかりの中心街ならともかく、橋町にすぐに家が建つ訳が無かった。北町の妖怪に仕事を与えようにも、橋町にそこまで人手を必要とする仕事は無かった上に、北町の特産物は安く雇える妖怪位だった。
パルスィはこれまで通り古典的かつ実績のある方法に頼ることにした。
「私の家の裏の漆喰の綺麗な方の倉を開けて、そこに置いてある物で必要な物を分け与えるわ。あとは瓦を買い占めておきなさい。どうせ崩れていて足りないわ。橋町の建物を打壊しでもしようものなら……。」
「取っ捕まえよう。わしらの町だ。」
捕まえるしか……ないのかしらね。
野蛮な世を厭い中心街からはずれた所で暮らしたい者、町に支えられながらの幸せな隠居暮らし、肉体こそが全ての鬼の世界を嫌った知識層の集まりを標榜するこの町も、……だからこそと言うべきか、その領域を乱そうとする者にとても厳しい。開拓すべき緑地と自由な雰囲気を併せ持った橋町、とは昔のものとなっていた。
町が排他的という訳ではない。来る者は拒まない。むしろ暖かく迎え入れるほどだ。但し明文化されることのない空気がこの町の奉行として町を支配していた。しかし、誰もこの奉行を嫌うことは無かった。似た者同士の彼らの作り出す空気とは、他所からどう見えていたかは別として、彼らには公正すぎるものだった。不当に権力を行使しない、最高の奉行と主に支えられたこの町は、彼らの理想郷として輝いていた。故に、これを破壊するような者に対しては恐ろしく冷たい。強固な「法」が無法者のみを拒み続けていた。
「あたしもそうするべきだと思うね。あんたは優し過ぎる。……この町はこの水橋殿の元で皆で作り上げてきたものだ。そうだろう?皆の衆よ。」
「何が起こっても、この町は守らなければならん!」
「……そうです……それぞれ得意なことがあります!力を合わせたら……!」
「出来るさ!やってやろうじゃないか!」
鬼の叫び。返事は狂気ともとれる情熱とこの町への愛に動かされた妖怪達の叫びだった。ほんの僅かな時間で感情が共有され、たちどころに熱される。この町は良くも悪くも共同体そのものであった。知恵を持った妖怪が、同胞の為にはいかなる争いも辞さない武闘派と同じ行いをする、ある意味理性から最もかけはなれたことをしていた。
物凄い熱気ね。……さっきまで慌てふためいていたとは思えないわ。……私だってこの町が嫌いな訳がない。
「……聞いてほしいわ。」
……風以外、何も聞こえなくなった。沈黙は熱気を孕んでいた。目線は全てパルスィを向いていた。
パルスィは自分も熱で浮かされていたことくらい分かっていた。あとで振り返ると恥ずかしくなることも。
「人前で話すのは上手くないのだけれど……、皆が妬ましいわ。私に無い力を沢山持っていて、友も沢山いて……。」
……妬むことが本当に沢山。……幸せね。でもこの者達はもっと幸せそう。本当に妬ましい。
「……それでも私はこれだけは貴方達に妬ませられるの。……勇儀やさとりよ。最高の……そうね、仲間?……かしら。」
町の者はパルスィの一番言いたいことを静かに待っている。
「本当に彼女達は何でも出来る。妬むことばかり。……私は妬ませたくなったわ。この町を中心街より良いものにするわよ。」
口下手の安い言葉も、場の雰囲気が偉大な頭領の名言へと変えてくれる。自分の言葉で全てが動く気がする。パルスィは勇儀の世界を垣間見た気がした。
「この町を妬ましいと言わせてみせるわ!この厄災を乗り越える!貴方達、手伝って!」
再び雄叫びが響く。僅かな内に各々が出来ることを探しに、蜘蛛の子を散らすかのように別れていった。全ては町を良くするために。米を出す者。橋町の南側の調査に行く者。北町の妖怪を誘導する者。
……北町そのものを救うことは誰もが頭に無かった。地霊殿と鬼の支配下からこの町は脱していたのだった。
知恵と郷土愛によって結びつけられた町は、より内向きになりながら発展していくこととなる。
「……凄いじゃないか。」
「……私が一番驚いているわよ。」
どうしてあそこまで叫べたのかしらね。
「この町の衆は殆ど悪さをしない。それがあたしには一番嬉しいよ。」
「何か協力出来ることがあるか、勇儀とさと……地霊殿に聞いてくるわね。」
……さとり。頑張って。
「……頼んだ。あんたしか出来ない。」
パルスィは勇儀と地霊殿の妖怪達を探しに北町の冷たい空に消えていった。