……目の前の鬼は、何を考えているのか。
「お疲れ様。助かったわ。」
「当然。友の頼みだ。」
「私が頼んだことにしようとしても無駄よ。」
「助けられているのだからあんたが何を言っても無駄だよ。」
萃香の言うことは事実だ。薄く広がった霧は、何も見逃さない。私のスキマと違い、いちいち覗く必要もない。結局、私は幻想郷最強を名乗るにはほど遠い。
結界を張るには時間がかかる。誤りは無いか。力の天秤は崩れないか。藍でさえ間違うかもしれない。天秤に載せるものは多く、そして重さがわかっている物がいい。もうすぐ技術と妖怪の共存できる破断面を迎える。……もしかしたらこれも誤りかもしれない。しかし、ただひとつだけ、結界には確固たる自信ができた。……結界を張ると決めたときには不安だった。如何せん愚か者が多すぎた。萃香が居なければ、結界の形成によって一念発起した奴等が人を喰らっていたかもしれない。名の立つ妖怪もいた。
萃香が全て殺した。それらは幻想郷には必要ないのだから。もし私がより賢かったのなら、より妖怪を助けられたのかもしれない。敵であろうが、妖怪。幻想郷が大きいのなら、奴等も幻想郷に必要だった。土地を分けてあげた。……悲しいかな、ノアの方舟は狭すぎた。己の限界によって。
「勇儀が泣いているから早く帰りなさい。」
「鬼の意思を覆そうだって?耄碌したな。あんたは別に私に帰って欲しくもないだろう。」
「追い出されるように仕向けたのはあなたでしょう。あなたが尻尾を出す筈がない。」
「……地底の妖怪に気を付けろ。私の言うことはそれだけだ。」
さとりには少しの間退場してもらった。にも関わらず私が負けた?違う……反乱の種類が違う。地底は作り物の、相手にばれていた反乱。そして、不発。反乱らしい反乱は起こせなかった。まず式のせいだ。そして、藍の手抜きの結果を甘く見た私のせいだ。何も考えず妖怪を殺し回る『辻斬り』でも、妖力の高い妖怪を狙うとあれば問題は無いと思っていた……。『辻斬り』に恨みが募ったのだろう。目的に無い妖怪に次々と潰された。そう考えるのならば藍に足をすくわれたとも言える。私が作った式も消された。本気で作ったものでは無かったといえども。弱くはない。それでも……地霊殿の手駒はお燐のみと言える。こいしは駒にならない。鬼は強いとは言える、しかしそれだけ。萃香が言うのはこいしだろう。萃香の言い分が正しいのであれば、こいしが萃香を追い出したとなる。確執があるのであれば……もう過ぎた話か。萃香は地上にいる。今は地底に対する良い手立てがない。
「こいしのこと?」
「こいしは心を読むぞ。あいつはさとり妖怪だ。」
「そうなの。」
比喩か、誠か。嘘はあり得ない。ずっと昔に会った限りではそうは思えなかった。天真爛漫として無知。それがこいしに対する心証。そして、少し前は、類稀なる直感と……敵意。明らかに変化していた。いいことだ。少なくとも自分で考える脳はあると考えられる。あるいはさとりが私に対する悪評を吹き込んだか。……それではこいしが徘徊するとは考えられない上に、さとりはこいしを溺愛していた。妹に憎悪にまみれた道などは歩ませたくないはずだ。こいしは己の信念をもとに私を嫌ったはずである。
もし……古明地家の振る舞いがすべて他者を欺くものであるならば?溺愛も、心が読めないといったこともすべて表だけ。緻密に練られた設定で植え付けた先入観を用いて、私を欺こうとしていることになる。ならばやつらは狂っている。……面白い妄想だ。まあ、所詮戯言。有り得ない。
「まあ、どうでもいい話よ。敵ならば叩き潰せばよいだけ。」
意識と無意識。そこには境界がある。面白くないから、その境界をいじったことはないので確証はないのだけれど……多分こいしは赤裸々にできるだろう。驚き恥じらう顔が楽しみだ。乙女のベイルの中に興味のない者などいないに決まっているでしょう?
「痛い目を見なければいいがな。」
萃香は表向きは此方側だ。……不平不満たらたらと見えるが、拗ねているだけだろう。
「扇子がもったいなかったわ。それはそれは痛い目にあったわ。」
「勇儀と鬼の手を煩わせた罰だ。扇子一つなんか安いものだろう。」
「さとりをいじめたことはいいのね?萃香がさとりのことはどうでもいいと言っていた、とでもさとりに言いふらしておきましょうか。」
「ん?さとりはあんたのせいで死にかけたって知っているのかい?」
「知っていたらまずいわねえ……。」
大石を投げ込んだつもりだったものの、……それにしても萃香の反応が鈍い。式の件は知っていたのだろう。つまり地底で策が上手く行かなかったのは、萃香が一枚噛んでいたからだ。こいしも同様だろう。前鬼の裏をとれるのは並大抵の妖怪ではできない。あのとき……前鬼は周りを警戒していた。萃香が拳銃で誤って発砲し、周りの目は萃香に向いていた。あのときに前鬼を闇討ちできるのはこいしだけだ。
さとりに私がしたことが伝わるとすれば……こいしか、お燐か。とはいえ、さとりはまだ意識を取り戻していないだろう。浅い傷ではない。お燐が知っている可能性もないことはないとはいえども、お燐が知っているのなら、ほぼ憤慨して私を殺しに来ていただろう。お燐を止められるのはさとりしかいない。私を殺しに来ていないのだから、お燐はまだ知らないと踏んだ。つまりは……こいしはあたりに言いふらさないのか?ならば水橋も知らないのかもしれない。もしかしたら……さとりにはばれない?
……こいしとは共に悪だくみができるかもしれない。無意識の使い手に欺かれるのもまた一興。無意識を騙す……?何とも面白そうな。
「なにか楽しそうだね。まずいって嘘をついたわけじゃないだろうな。」
「あなたのまえで嘘をつくとでもお思いなのかしら?」
「……はっ。」
「鼻で笑われて悲しいわあ。」
……萃香は追い出されたと語った。本当かといえば本当なのだろう。問題は、こいしが萃香に何かを頼んだか否か。分身を一つ地底に置いてきたら、地上は地底に筒抜けになってしまう。萃香とこいしの仲が悪くないのなら、窮地にたたされるは我が身だ。
「そうだわ。地底と地上は僅かな妖力も通さないようにしましょうか。」
「好きにしたらいいさ。……もう寝ていいかい?」
……気にしてそうにないわ。この線は薄いのかもしれない。……実際にそうであってほしいものね。
「せっかくいまから結界を本当に張るというのに……。ほら、後ろ。素敵な神社でしょう?」
「ああ……まあせっかくだ。あんたと一緒に結界の完成を見るか。しかし……鬼と妖怪が居座る神社ぁ?ご利益薄そうだね。おまけに都の大罪人、狐までいる。」
「私たちがまともではないのよ。強いから。」
神社の結界は二人で作ったものだ。抜け道なんてもちろん把握している。抜け道があることをわざわざ萃香に言う必要もない。問題は、萃香には効いている様子もないこと。僅かな結界だろうが機微に感じ取っているはずなのに。反応の一つもない。
「なんだ、つまらん。」
それには全くもって同意するわ。……藍の尻尾が跳ねた。聞こえていたらしい。結界には万全を期したいものね。
「今、藍は頑張っているから静かにしてあげてほしいわね。この酒でも飲んでいなさいな。」
「こんないい酒……あんたも飲むんだよ。」
「あら優しい。」
「……鬼により優しくない世界が出来上がるのか。」
なぜこの鬼は鬼でありつづけようとするのか。時代遅れだというのに。
「あなた、鬼として姿を現さないほうが強いのではなくて?」
「……私は鬼として生きていく。紫だろうが口を挟ませるつもりはない。」
やはり鬼のアイデンティティに口を挟むと面倒なことになる。とはいえ、面倒なうちは萃香が私に歯向かうことはないだろう。鬼の世界を諦めて地底に潜ったのだから、鬼に固執しているうちは歯向かう理由ができない。
「紫様。あとは……。」
「ええ……。藍。八雲の姓を賜ろう。これからは己が好きに生きたら良いわ。」
「……私は常に紫様の側に。」
夢にまで見た本番だ。随分と遅くなってしまった。石行灯のまっすぐとした炎が美しい夜。雪も映える。緊張と喜びに打ち震えるのも、私は悪くないだろう。誰だってそうなるに決まっている。
「藍、萃香。……よく見て、感じておきなさい。これが私の理想郷よ。」
「さとり……何か……起こった?」
「……だよね?だよねだよね?良かったあ。あたいの勘違いじゃないよ。」
「そうだけど服を脱がせる途中で止まらないで……。」
既に夜だ。今日だけはお燐もパルスィの家に泊まることに話の成り行きでなった。当然だが、お燐は夜も目が効く。さらに火で照らしながら帰られる。それでもさとりが引き留めた理由は、パルスィも薄々感づいてはいた。今日は嫉妬で酒が進みそうだった。
「あ、お姉さん、せーの!」
「痛!」
「……さとり、大丈夫?」
「うう……。ゆっくり……。」
「うわわ、さとり様申し訳ございません!」
「……気張りすぎよ。明らかに貴方が早かったわ。」
「お姉さんがおそ……、いや、今回はあたいが悪かったよ。」
巻かれた包帯が見える。胸帯の奥にある傷口。適切に扱わなければ、病にかかって死んでしまうことくらいは二人とも知っていた。
「外して体に膏薬を塗る……と。合っているかしら。」
「こいし様とあたいはそうしてきたよ。体は水でいいから拭かないとね。」
「胸帯はよくわからないからどのように巻くか教えてほしいわ。」
「あたいのやり方をよく見ていてね!」
お燐の出す小さな炎がほのかにあたりを照らし、部屋が暖まる。蝋燭の火だけでは暗すぎて辛いものがあった。甲斐甲斐しく世話をされているさとりは、少し顔を赤らめて、されるがままだ。胸帯がとれた。
「寒くない?」
「大丈夫よ。ありがとう。」
「さとり、じっとしておいて……ね。」
痛々しい傷痕だ。まだ治りきらないのか、巻いた布に体液がついていた。傷口の周りには血が集まり、赤く膨らんでいた。膿んで醜くはなっていなかったが、この背丈の少女には似つかわしくない。
「……妖怪だから治るかもしれませんよ?」
「それでもよ、さとり……。」
パルスィは体に傷を残した鬼を大勢見てきた。そのことを踏まえたら、治らない。これがパルスィの答えだった。体の傷とは確かに鬼にとっては本望なのだろうが、さとりには必要のないものだ。
「死ななかっただけ良かったではありませんか。ね?お燐。」
「あたいが……。」
一人気丈に振る舞っていることが余計にお燐の気を重くしていた。
「どうしてもというのなら、こいしを手伝ってあげて。今の私はできないことだから。」
「うん……。」
「ちょっと触れるわよ。痛かったら言ってほしいわ。」
つうっとパルスィの指が傷口のそばをなぞる。さとりの吐息が漏れる。薬は滲みないはずだが、くすぐったいのか、時折体が跳ねている。パルスィは加虐嗜好を持ち合わせていないとはいえ、心に来るものがある。
「……じっとしてなさい。傷口に間違って指が入ったらどうするのよ。傷口が開くだけでは済まないわ。」
「でも……。」
「ふふん、お姉さん、触りかたが卑猥なんだろうね。」
「触りかたが卑猥って何よ。」
お燐がしたり顔であるのに対して、パルスィは不服そうな顔だ。真心をこめて世話をしているのに、そう囃されては不満であった。と言っても、さとりが何も言わない以上、そのような下心は微塵も無かったとお燐にも伝わっているだろう。
「さとり様、手あげて?」
湯に浸した手拭いがさとりの体を走る。ひどい言われようだったものの、パルスィも薬も塗り終わった。お燐の手つきは慣れたものだ。丁寧に、緻密に元通りに巻いていく。巻き方にそう難しいものは無かったように見えた。
「……案外できそうね。」
「私も知ったのは今年ですよ。」
「はじめはどうなるかな、って思っていたけど、案ずるより生むが易し、ってものだね。」
そう呟く間に服まで着せ終わっていた。襦袢に寝巻だ。海も見たことがないだろうに、藍色の青海波の模様がついている。
「これ、いつも着ているものではないので……と言うよりも初めて見ました。この服、家にありましたっけ?」
「緩い服を探したら見つかったんだ。男の服なのかな?……よし!おやすみさとり様。明日からの替えの服はお姉さんから貰ってね。」
目にも止まらない速さで猫又が現れ、さとりがいる来客用に敷かれた布団に潜り込んだ。赤髪のお燐の姿は既にそこには無かった。
「……お燐、爪。」
さとりの布団の中でどこかに刺さったのだろう、中から申し訳なさそうな鳴き声がした。
「……私も寝ましょうか。……少しの間、よろしくお願いしますね?」
布の擦れる音。そして、しん、と静まり返る部屋。ふっ、と部屋に浮いていた鬼火が消えた。お燐も眠りについたのだろう。今まで気にもしなかった、ちゃぶ台の上にある蝋燭の火がちろちろと揺れている。部屋の隅に押しやったちゃぶ台には、とっくりと猪口が一つずつ乗っていた。
パルスィは無聊、しかし不快感は無かった。もう寝る気もさらさらなかった。ぼんやりとしたまま、酒が注がれていく。水面に映るは揺蕩う灯火のみ。ちらと部屋の真ん中を見やれば、布団が二枚とさとりの頭が見えた。息も聞こえる。そのまま酒をくいと一口で飲み干した。ふるふると首を振り、また五感の好きにさせる。耳からは、夜回りの拍子木の音が聞こえなくもない。水の流れる音も聞こえなくもない。また布団の方を眺めたら、先程と一つも変わっていなかった。
「……私が、そんなにも心配ですか?」
「……寝てなかったの?」
「勿体ない気がして。」
「だから背が伸びないのよ。」
「……酔っています?」
「そうね……。」
こと、と机に猪口が置かれる音がした。右手に目が移る。右手が開いたり、閉じたりする。
「……何か、そわそわするのよ。何かが起こる前のような。……さとりは?」
「……それはきっと楽しみだから。やはり、今日は早く眠ることにします。」
「……それも、そう……なのかしらね。私もそうするわ。」
ゆっくりとあくびが起こる。ふっと蝋燭の火が消える。床を這って、手に布団の感触を見つける。そのまま、もぞもぞと布団の中に体を埋める。眠くはなかったはずだったが、すぐに夢の世界に誘われた。