……やってしまった。でも、後悔はしていない。後悔はしていないけど、彼女に何度も迷惑をかけている自分を、どうにかしたい。……パルスィさんは、怒っていないだろうか。
「あの」
「……熱ね。地霊殿に帰る?」
(その体で、どうして無理をしたのか、とは思っても言わない。あまりにも野暮なことだもの。)
「…………いえ」
まだ、帰りたくない。お燐にどう説明するのかすらも決めていない。今帰ったら、私は二度と地霊殿から出してもらえないような気がする。お燐はそれで幸せだろう。でも、私だって、幸せになりたい。楽しく過ごしたい。
「……差し支えなければで良いから、何があったか教えてくれない?」
(こいしが死にかけた。そのことはおおよそ知っている。貴方が無理をした理由と、思いを聞きたいの。
任されてさとりの身を預かっているのだから、さとりのことは一番知っておきたいわ。多分、貴方が一番辛いのだから。何も分かってあげられないことが一番辛い。心を読めるさとりにとって、私はただ関係のある隣人。さとり妖怪として過ごしていない私には、何も分かってあげられない)
「こいしを殺そうとした妖怪の心が、あまりにも……思い出したくないものだったの。あのような妖怪が地底に住んでいるなど考えたくもない」
「それは」
(その……通りね)
「せめて、私のしたことを憎んで。……さとり妖怪そのものを憎まないで」
こいしは心を読めない。それなのに心を読むさとり妖怪として憎しみを集めた。……違う。こいしが憎まれていたわけではないのかもしれません。ただ、さとり妖怪が憎まれていて、それにこいしが当てはまったから狙われたのでしょう。私達のこと、何も知らないくせに。こいしは心を読まないってことすら、知らないのかもしれません。
……腸が煮えくり返るような話だ!
「……熱、上がるわよ。貴方が心配なの」
(その顔をしていたら、いつか、壊れてしまいそう。辛いのはさとりか、こいしか。何はともあれ、さとりの気持ちを何も分かってあげられない私は、こうして、寄り添うしかできない)
ねえ、パルスィさん。……貴方はどうしてさとり妖怪を嫌わなかったのでしょうか。きっと、素敵な理由を教えてくれる。……訳を聞いたら、私はもう地霊殿に戻れなくなってしまうのでしょう。
私はこれ以上、貴方に頼ってばかりにはいかないのです。きっと、最後には、貴方にさとり妖怪を嫌わない由を聞いてしまうとしても。……私はそれを先延ばしにすることができる。
「もう寝る。膝、貸してくれませんか」
ぶっきらぼうに突き放しても、パルスィさんは怒らない。どうせ――
「さとり、ごめ――」
……思った通り。
「謝らないで。……私は、後悔は、してないから。こいしを救えたもの。何も惜しくない」
我ながら偉そうな小娘だ。……私が迷惑をかけたというのに。
――――
――――――
――――――――
「――パルスィ、おはよう!」
……こいし? どうしてこいしがここに居るの? 確か私は、さとりと家に居た筈。
「こいし? どうして私の家に居るの?」
「何を言っているの? ここは地霊殿だよ?」
嘘だ。私は家にいた……。そう思うのだが、私の家にはこんな部屋はない。これ、私の布団ではないわね。……本当だ。よく見たら、地霊殿ね。その中でも、昔泊まった部屋のように……違うわね。どこなのよここ。
「地霊殿の、どこ?」
「私のお部屋よ?」
……こいしの部屋だったのね。本棚に、本はない。そもそも何もない。綺麗な部屋ね。片付けが得意なのかしら。
「綺麗な部屋ね」
「そうかな。殺風景に近いかもね。……そんなことはどうでもいいの。ちょっと用事があって来てもらったから」
いつ私は地霊殿に行ったのかしら。……一切覚えていない。そんなことも、あるのね。
「貴方にさ、贈り物とか送ったことあったかな?」
贈り物。……覚えていない。初めて地霊殿に行った日には何も貰わなかったし、こいしと話した時だって……どうだったか忘れてしまった。記憶に無いのだから、貰っていないのかしら。
「無いと思うわ」
「そっか。なら、贈り物はできないけどさ、そのかわりに……おまじない、してみない? いつも、お姉ちゃんを助けているお返しにさ」
「おまじない?」
こいしが呪術を……。こいしって、まじないもできるのかしら。妬ましいわ。
「貴方の記憶、整理いたします。……このわたくしが」
にわかに胡散臭くなったわ。よくよく思えば、こいしが呪術を使っている所は見たことがない。こいしのことだし、何かの能力と勘違いしていそうね。何も学ばずに呪いができるわけないもの。呪いとは鍛練でしょうに。何度も繰り返して、ようやくその道の初心者よ。呪いに一家言ある私が言うのだから間違いない。
「こいし、陰陽道は長くて険しいものと聞いているわ。それ、本当におまじないかしら?」
「ちょっと違うの。陰陽道ではないんだけど……。そのかわりに、この本を読んだから大丈夫。これはおまじないの本な筈だよ。表紙は読めなかったけど、中身はちょっとだけ読める」
『The Grimoire of anonymous』
どれ、表紙には……読めないわ。これでも私、大陸を渡り歩いてきたのに。自信があったのに。……少し、悲しいわね。
「……私の知る言語ではないわね」
「大丈夫、まかせて」
心もとないけれども、わざわざ断るほどでもないか。確か、こいし、昨日は洒落にならない目に遭っていたわね。今日はこいしの好きにさせようかしら。
「で? 何のまじないをしてくれるわけ?」
「言った通り、記憶のまじないよ? いらない記憶を消して、思い出すべき記憶を浮かびやすくする。気分よく暮らせるよ」
そんな呪術、聞いたことがないわ。実はその本は関係がなくて、こいしの能力かしら? ……不安だけれど、おまじないをしてもらうと決めたのだから、まあ痛くない限りは止めないであげようか。
「目をつぶって。痛くないから」
このようなまじないは目をつぶらせることが多い。暗示なのだろうか。
――ペチン!
額がじりじりする。……平手打ち!? 話が違うわよ!
「痛い! ……ちょっと何を――」
――バリバリバリィ!
うわっ……は? 地霊殿の壁が割れて、外は……夜空? ……何があった?
「待てやこらそこの女。よくも私のシマで散々暴れ回してくれまし――」
「げっ! パルスィ、じゃあね!」
……誰? 何? ……消えた? 地霊殿の外は星空だったのかしら。まさかそんなことは無いだろうけど。
「くそ。逃げられましたか。……そこの。確か貴方はお目にかかったことがございますよね? 私、誰だと思いますか?」
壁を蹴破り、空を飛べる妖怪を、私は鬼しか知らない。この……誰? 赤い帽子と、おかしな服。尻尾が生えているとはいえ、それだけでは何の妖怪かも分からない。鬼ではないような。記憶に無い。頭がぼやぼやする。あの子のおまじない、効かなかったわね。
「駄目ですか。私は獏にございますよ? 獏です。貴方が知る獏は一人しかいないでしょう」
獏。昔、聞いた名前かもしれない。どこで聞いたのかしら。
「頭が働いていないようですね。これでどうです。普段は、こんなことは滅多にしないのですがね」
……! 急に頭がすっきりした気がする。星空の向こうに逆さまに建っている、あの家は見覚えがある。確かあそこで、変なものを振る舞われた――
「ドレミー……だったかしら」
「お見事にございます橋姫。次です。ここ、どこだと思います?」
地霊……殿? いや、違う。地霊殿に行ったとき、廊下からは旧都が見えた。少なくとも、地底にある地霊殿の外に、星空など見える筈がない。星空を見たのは、遠い昔。地底に潜る前だった気がする。地底に潜ってから星空を見ることができるのは、夢の中しかない。獏は夢の中の存在だったわよね?
「夢。私と貴方の夢が入り交じったものかしら?」
夢を見ているとはっきり自覚するのは珍しいわね。確か、……明晰夢と言ったかしら。前に明晰夢を見たときは、たしか彼女の力を借りていて、なおかつあの建物の中だった。あの家は、ドレミーの家ね。
「お見事。素晴らしい! では、先ほど貴方の夢の中に居――たの――」
……おかしいわ。なんだか上の空になってきた。視界が揺らぐ。不快感が無いことが驚きだ。
「――おっと、させませんよ。私の世界ですから、この夢の未来は私が決められるのです。この夢の寿命をわずかに延ばしましょう」
視界が元通りになった。ドレミーって、実は凄い妖怪かもしれないわね。おまじないよりも心を操れるみたいだし。さっきのおまじない、結局の所、何だったのだろうか。
「やはり明晰夢は不安定ですねえ。気を抜くとすぐに潰れてしまう。まあ、そちらの方が私としてはありがたいので、どうともするつもりは無いですが。
話がそれました。最後に聞いておきます。……私より前に居た少女。名前は何と言いますか?」
それは、もちろん。夢の中で地霊殿? に居たのだから、地霊殿に住んでいるに違いない。だったら、地霊殿の……誰だ? 待って、地霊殿によく行く私が知らないわけがない。さとりと、お燐と、お空に………………。
「あ、ああ。待って、さっき消えたその子を、きっと私は知っているの。それて、名が…………」
「やはり駄目ですか。今は時間が無い。…………あとでまたお伺い致します。この夢も一度閉鎖致しましょう」
知らないのではないのよ。私は間違いなくその子の名前を知っている。なのに、どうして出てこない!? 夢が終わるまでに思い出して――――
――――やだ、私、寝てしまって……!
「あっ! ……起きましたね。おはようございます。まさか、貴方が先に寝てしまうとは。でも大丈夫。少ししか時は経っていませんから」
……そうだ。さとりに膝を貸したままだったわ。変な寝顔をしてなかったらいいけど。
「いつも通り、めやすき顔でしたよ。下から見ても、よく整っている顔です」
それは、嬉しいわ。貴方も素敵よ。……おかしいわね。下から? 待ちなさいよ。寝ている私の膝を借りっぱなしだったわけ? 図太い精神ね。素敵と言ったことを取り消すわ。
「そんな。……あの時に、膝枕を断らなかったパルスィさんが悪いですよ。それに、頼んでおいて何ですが、断られると思っていましたよ? それなのに、貴方が断らなかったから、つい、ね」
それでもさとりが図太い――
「私が動いたら、起きてしまうではないですか」
……いえ。私が悪うござんしたね。
そういえば、夢、覚えていないわね。何か大切な夢だった気がするのに。
「夢とはそのように儚いものでしょう。どうしても思い出したいのですか? ……貴方なら、思い起こさせてもいいのですよ?」
さとりは、汚い奴の心を読んだから熱を上げたのよね。 ……思い出させてごめんなさい。それと、あまりにも酷いものだったのでしょう。今日は他人の記憶を掘り起こすのは止めておきなさいよ。貴方の心と比べたら、私の夢など些細でつまらないものだから。
「それもそうかもしれません。……襲われそうになった、こいしが心配です」
……こいし?
「……さとり、貴方の言うこいしって子、誰?」
「え? 貴方どうしたの。私の妹の……」
「貴方にそんな子、居なかったわよ?」