意気消沈してうなだれるお燐。どうしてこいしを一時でも忘れたのかと己に問えば、得も言えぬ感情が込み上げてきた。
憔悴しきっているお燐の隣で、さとりもまた焦っていた。こいしの部屋をさとりは用意していたが、こいしがそこの部屋を使った痕跡は、さとりが覚えている限りなかった。こいしの所有物を得る方策が今のさとりには無い。捕り物なしに盗人を捕まえることが難しいのと同じく、夢世界、及び無意識が支配する空間で、何もなしにこいしを捕まえることは至難の業だ。
「こいしの持ち物。……何があるのでしょうか」
「こいしの服とか? 何着か地霊殿にあるでしょう。服泥棒でもしたらどうよ。……貴方の家だけど」
「こいしの服は現地調達。どこで着物とは違う服を仕入れてくるのか。そもそも現地とはどこか。……私には分からない。地霊殿には、何も……残っていないのかもしれません」
さとりはこいしの服を作っては、無視されることもしばしばあった。
「そう、思い出しかないわけね」
「……上手いこと言えた。と思わなければ、満点でしたね。でも、ありがとうございます」
パルスィは、地霊殿には思い出が残っている。と咄嗟に慰めることができた自分を褒めたかった。もちろん、その思考をさとりはお見通しだ。
「お燐はいつまでそうしているつもり? パルスィさんだってこいしを忘れていた。貴方が気にする必要はないわ。……それでも失態だと言うのなら。取り返したいと言うのなら、こいしの服が残っているか確認して来なさい。……お空のことも心配でしょう。こいしの持ち物が何も残って無かったら、そのまま地霊殿にいなさい」
聞くやいなや、お燐は飛ぶがごとき速さでパルスィの家から飛び出していった。主が家出! と勘違いしては飛んできて泣きながら引き留め、主の一言一句に耳を傾けてはすぐに命令を実行する。
「慕われているのね」
「お燐は多分、私を好きなのでしょう。少し誤解を生みますね。恋愛感情とかではなく、本当に」
「家出しそうになったら引き留めてくれる人がいるのね」
「そうですね。ですが、お空がいるとはいえ、地霊殿をもぬけの殻にするのも問題です」
「……二人が羨ましいわ」
嫉妬に、さとりが答えることはなかった。話をそらすようにさとりが問いかける。
「貴方は、何かこいしの持ち物を持っていたりします?」
「そうねえ……。今もあるかわからないけど、あるにはあるかも。……さっき、さとりのお陰で思い出したのだけど」
パルスィの頭に残っている記憶――さとりのお陰で思い出したもの――はこれのみ。そして、こいしに結び付く可能性があるのもこれだけだった。
こいしとの初対面――つまり、お燐がパルスィに喧嘩を吹っ掛けたあと。パルスィがお燐の一撃で地に落ちたあとのことだった。さとりはお燐の所業について謝るため、地霊殿総出でパルスィの家を訪れていた。その時にこいしはパルスィに錆びかけた包丁を渡していた。そして今日、さとりが記憶を掘り出さなければ思い出せなかった。
包丁はわずかに錆びていたからこそ、捨てることも、使うこともなく、残っているのかもしれなかった。
果たしてそれは存在した。錆びることもなく――とはいかないものの、こいしから受け取った時と変わらぬ姿を保っていたといえた。
「こいしの手がかりになるものか、分からないけど」
こいしには物を大切にしようといった気持ちが感じられない。そもそも大抵の時に、こいしから感情を読み取れないにしても。この包丁はこいしが適当に拾ってきたものかもしれなかった。もしこいしが適当に拾ってきたものならば、こいしの手がかりとなるわけもない。
一世一代の大博打。外せばこいしを失う。当たってようやくこいしを止める挑戦者となれる。
「そうだとしても、私はそれにすがるしかない」
さとりの表情に悲痛なものを感じたパルスィはどうにかしてさとりの気を楽にさせようとする。
「私、ではなくて私達よ。貴方と気持ちは一緒。私だって、貴方とはもちろん、こいしとは長い付き合いなのだから」
言ったのはいいものの、パルスィは言って後悔した。嘘偽りがあったわけではない。ただ、己のこいしとの付き合いは、さとりのものとは比べるにも能わないほど短くて薄い。だから私は、と言ったのか、とまで考えた。さとりの思い出に、何も知らずに土足で踏み入れることはしたくなかった。
「貴方と私では、こいしと共に過ごした時の長さは違います。濃さだって。……でも、最後にすがるものは一緒でしたね。…………そうだ。今日は同じ枕で寝ませんか? 一緒に寝て。同じ夢を見られるかも分からないけど。私と同じ夢でこいしを探して。……一人は嫌」
「さとり……」
「さっきの言葉、別に怒ってないの。……むしろ嬉しい。だから、一緒にいる間に、私達のこと、もっと知ってほしい」
さとりの布団は敷いたままだった。パルスィの家は広く部屋は余っていたので、布団をたたむ必要は無かったからだ。しかし、まだ昼だ。眠るには早い。包帯で動きが多少制限されているなか、さとりは傷が広がらないようにゆっくりと布団が敷かれてある部屋に向かった。パルスィもさとりについていく。
「昔から山にいて……これはどうでも良いわ。その時から、人に嫌われていたの。あ、貴方の想像とは少し違いますよ。人が悪いわけではないのです。嫌われていた理由は、さとり妖怪は人を驚かすから。そこに不満を持っているわけではないのです」
最初は、人には妖怪としてありきたりな理由で嫌われていた。さとりはそれは別にどうでも良かった。
「気がつけば、妖怪にも嫌われていた。心を読めるから。……こいしの心を閉ざしたのは妖怪なの」
妖怪らは、さとり妖怪そのものを嫌った。こいしは耐えかねて心を閉ざした。おまけに、妖怪の心が綺麗な訳がない。
「ああ、分かったわ。妖怪から伝え聞いて、人もさとり妖怪そのものを嫌いになった、とか」
人と妖怪は相容れないもの。その二つが徒党を組んでさとり妖怪を迫害してきた。さとり妖怪は、人に例えるならば、えたやひにんのような目で見られていたといっても過言ではなかった。
「そうです。こいしの『友達探し』は、そのときにはもう始まっていたのかもしれません」
今日思い付いたから家出したわけではなく、これまでの不満が、ついに家出するまで到達した。さとりはそう考えていた。友達探しはさとりだって無意識にしていたのかもしれない。
「…………もう、聞いてしまいます。どうして貴方は私を嫌わなかったの?」
「えっ!? ううん……。貴方は最初は変だったけど、……まあ、話して楽しかったのよ。さとり妖怪だから嫌いとか、好きとか。そういうのは無かった。格好良い理由とか、そんなのは無くて、……ありきたりだけど」
パルスィだって、こう聞かれたら流石に照れる。パルスィの奥底にはもっと多くの理由があったが、口に出せたのは途切れ途切れの下手な言葉のみだった。それでも、相手はさとりだから、口に出さない所まで伝わる。
――さとりそのものが妬ましくなった。
パルスィの頭には、さとり妖怪より前にさとりが存在した。勇儀からさとりのことは聞いていた。心を読む。悪い奴ではない、と。そこでさとり妖怪の存在を知った。パルスィは実際に会ってみた。……向こうから来たのだが。初めこそさとり妖怪の能力が、パルスィにとって羨望の的だったが、すぐにさとりが妬ましくなった。誤解を生んでも構わないなら、さとりの中身に惚れたと言ってもいい。妬ましい奴を妬むため、さらに深く知ろうとする。今さらさとり妖怪そのものを妬むには、パルスィはさとりのことを深く知りすぎていた。
さとりからすれば、家族以外で初めてさとりを『さとり妖怪』として見なかった妖怪だった。その妖怪を、さとりがどうして嫌いになれるのか?
「ふふ。今日はもう寝る。二度目だけど、もう眠る。パルスィも、寝る」
「さとり?」
さとりはパルスィから包丁を受け取り、使えるかも分からない包丁を枕の下に敷いた。そのままゆっくりと布団に入る。冬だから布団はとても冷たいようで、さとりの体は震えていた。
「寒いわ。何をしているのパルスィ。ずっと待っていると恥ずかしいから、……早く来て。一緒にこいしを探してくれると言ったではないですか。私に嘘をつくの?」
「誰が……、貴方に嘘をつくのよ。…………わがまま」
――――――
狭い夢だ。変化も無いし、つまらない。だって私がそう望んだのだから。起きても、同じ部屋。閉塞、停滞を求めた結果だ。
この部屋のことは全て知っているはずだ。広さも、部屋にあるものも。……満足だ。最近は夢にもイレギュラーは無くなった。昔は夢を見ることが怖かった。知っているものが、化けて出る。あり得ないことが起こる。最近は違う。全て同じ夢! だから夢を見るのも、怖くない。……筈なのに、この知らない女は誰だ!
「こんにちは、お姉さん! 小さいね。……私の方が年上かな?」
「誰? ……目の前から失せて」
「あ、名前言ってなかった? 古明地こいし。ところで貴方のお名前は? 仲良くしよう?」
私は馴れ馴れしいこの妖怪を知らない! 怖い……怖すぎる。……彼女を壊すことも、平穏を壊されることも。
「フラン……フランドール・スカーレット。吸血鬼。きっと壊れてる。怖いでしょ。だから、出ていって」
「フランちゃんねー……はいはい」
退出する気が感じられない。むしろ、ここに居座るのではないか? ……悪夢だ。悪夢は久々に見た。
「つまらない部屋だね」
「当たり前。この部屋は現実の私の部屋。目につくものはフランが壊したの。……全てよ。フランはおかしいの」
私に恐れを抱いて、夢から出ていけよ! もう……壊したくない。夢の世界には壊してしまうかもしれないものはもう無いと思っていたのに。
「フランちゃんはさ、壊すことは好きなの?」
「…………どうかしら。人を壊すのは大好きかも」
慣れ慣れしい。こいつはどう答えたら離れていく?
「そうなんだ。ここで何してるの? 一歩でいいから歩みだしてみようよ」
「どこに? 壊されたいの? ……自殺志願者?」
「違うよ。お話しようよ。仲良くしよう? ほら、お辞儀……握手ってのもあったね。握手しよう?」
「手が炭になろうが知らないわ……――近づかないで!」
図々しく寄ってくるこの女。目が笑っていない。感情も分からない。こんなの、知らない……!
「壊せるものなら、壊してみなよ」
「え……?」
「心に残る、自分と他人への恐怖。貴方にとって、歩みだす先とは、他人を殺すこと。逆に言えば、歩みだす前の世界を平穏な日常と置いた。貴方は壊すことが嫌いなのね」
見透かされた。歩みだしてみようよ、に対する返答で、……推し量られた? 殺すことが好きなら、悪魔だ。悪魔の笑みだ。吸血鬼である私よりも! お姉様とも違う! 来ないで……来ないで!!
「……何が分かるの? 私が開いた手を閉じたら、あなたはぐちゃぐちゃよ? ……い、今殺してもいいくらい!」
「手をぐっと握れば、人を殺せる能力なのね? でも、今の貴方ができるわけない。声がうわずっているよ。それにほら、現に私から逃げている。もう後ろは壁だよ? 逃げることもできないね」
「違う!」
「違わない」
貴方が怖いとは言えない。弱味を見せるわけにはいかないから。……もう見透かされた気もするけど。どうして私の夢に入り込めてきたのだろう。私の妄想した友達? ……あるいは同類だろうか。そうに違いない。こいしは狂ってる。
「貴方は狂ってる。私と同じ」
「私は狂ってない。狂っているのはフランちゃん。……貴方だけ。さっき私は壊れてる。と自分自身を評したでしょ?」
狂ってることを認識できていないのか? しかもそれは、本当に狂った者の感想じゃないの? この、こいしって奴は、私よりもイカれている!
「……貴方は貴方自身が狂ってること、自覚してないの?」
「何で? 私が狂ってるわけがないわ。私はただ生きてきただけ。あ、今は家出中」
「家出……? よくそんな怖いことできるね。おかしいわ」
家出か。私が外に出たら、たちまち地獄になる。お姉様に虐げられていたとしても、私には家出という選択肢は無かっただろう。きっと、そのまま虐められていた。それに何の問題がある? それよりも恐れるべきは、ハッと気付いた瞬間に、血の海に立っていることなのに。無辜の民も、敵も味方も全て血に変えて……その場に残るのは私一人。ぶちまけられた血の中に、お姉様の血が入っている時が私の死に時だ。お姉様を殺すようなら、私は本当に生きている価値がなくなる。
「お姉ちゃんがね、羨ましいんだよね。私さ、他の妖怪に嫌われているんだ。心を読めるから。……でもね、もう私は心は読まないの。必要ないから。それなのに、まだ嫌ってくる。私、怒っちゃったかも?」
「貴方の性格だと嫌われて当たり前よ。私に迫ってきて、心を乱してくる。ここは私の夢よ。いいから消えてよ」
「お姉ちゃんは心を読める。私は嫌われたまま。それなのにお姉ちゃんは友達を手にした。私だって友達がほしい」
「話を聞いてよ。出ていって」
「……そうだ。友達探しをしているのに、心を読めるとかそんな話しちゃいけないんだ。嫌われてしまうわ」
「もう嫌われてるよ。消えてよ」
「はあ。脈なしか。仕方ない。そこの扉から出ていくよ。貴方もまたね」
やっと出ていってくれる……。だけど、出ていき方が問題だ。あいつはあの扉を開けるのか? 何百年と閉ざした扉を? その先に何があるのか、私でさえ分からないのに。
「待って!」
「どうして?」
「扉を開けないで。でも消えて」
「無理なお願いだよ。……貴方さあ。どれだけ引きこもるつもり?」
「怖いの……。開けた先に何があるのか知らないの」
「良い機会だし、貴方も外を見てみたら? 見るだけ。貴方が外に出るわけでもあるまいし」
「嫌だよ。見たくないよ! 開けないで……」
「なら貴方が私を殺せばいい」
殺……す? どうしてそうなるの?
「嫌だ」
「私に扉を開けさせずに私を消すには、貴方の力で私を殺すしかないんだよ? どれもこれも嫌だからって、一歩も踏み出さないの? ……いつかは貴方の世界も崩れ落ちる。その時に貴方は……本当に壊れちゃうかもね。フランちゃん。そうなったら、仲良くしてあげるよ」
当たり前のように自分を殺す選択肢を出すなんて怖いよ……。その瞳も、性格も知らないもの。気が触れる予兆は、アンノウンと触れて、イレギュラーが起こったとき。……こいしを追い出さないと、私が壊れる。こいしを追い出す過程でも、私は壊れてしまうかもしれない。
「嫌だ!」
「……今日がその日だよ。変わるの。もし打ち克てば、引きこもる必要も無くなるよ。貴方が嫌だからって、止めるわけないよ」
「嫌――」
「貴方はまだ、自分の能力を好きになれる。扉を開けたら、私も出ていける。良いことしかない。扉を開けないなんて、あり得ない」
こいしが扉に手にかけた。止めないと。……止めたあと、発作を起こしたらどうする? 私があの子を殺す。そこまでは許容できる。私の意思にない『私』があの子をペーストにすることは自分のためにも許せない。そうなれば、また自己嫌悪に陥る。止めることも怖い私はどうしたらいい?
「ほら、良い景色――っ! ……あれ? 何というか……、おかしな、世界だね」
開けてしまった。……私の思う地上は、変だったんだ。こいしが絶句してる。私はこの部屋の外を何も知らない。外の世界の想像も外れていた。……わかっていたけど、見せつけられたく無かった! 外には私の知らない化け物しかない。ひとつも、知っているものは無いんだ。
「……お前が開けなきゃ、知らずに済めたのに!」
「首……苦しいよ?」
「私が……無知だってこと。仮初の平穏に身を置いていただけだってこと!」
「そんなの、最初から知っていたでしょ。それに、止めないのが悪い」
「外に化け物がいる。と外に化け物がいるかもしれない。だと全然違うの!」
「あはは! ならなおさら止めないと。貴方はまだ気付かないんだ。今回は夢での出来事だけど、次もあるの。現実も同じことだよ。どこにも平穏は無いの。嫌なら、早く一歩を踏み出さないと」
「…………あっ! あ……ああああああ」
体が勝手に崩れ落ちる。私はそれを止められない。平穏は夢と現実にある私の部屋だけにあると思っていたのに。安全な部屋も、実は化け物がいつ扉を開けて襲ってくるかも分からない地獄。夢が、夢が崩れる。壁も、天井も、明かりも……全部。
「うふふふふ。貴方は矛盾してる。己を変えるだけの信念もない。ただ臆病なだけ。変化を恐れ、濁流の中に取り残されて、死ぬだけの存在」
「もう駄目だ! 私の平穏を返せよ! せめて、貴方を殺してやっ……あ、あれ」
――腹に痛みを感じる……? 血が飛び散っている。……こいしのじゃない。私の血? お腹に刺さったナイフ……痺れる。これは銀なの? こいしにも何か刺さってる。痛い……。もう、体を立てることすらもできない。
「吸血鬼には銀のナイフ。無法者には捕り物道具。こいしの方には刺さらないと思っていましたが、見事に刺さりましたねえ。さとりさん。良かったですねえ。おめでとうございます」
投げた奴は誰だ? 青髪、悪魔のような尻尾……知らない奴。ヴァンパイアハンター……? 違うのか? 二撃目を加えてこない。
「こいし!」
「お姉ちゃん!? 嘘、動けない……。包丁が抜けない?」
「その包丁にある思い出が貴方を縛っているわけで――」
駄目だ。意識が持たない。これは夢。これは夢。ああ、最悪の目覚めになりそうだ。
「何なの……」
「乗っ取られた夢に、何も価値はございません。おやすみなさい」
訳が分からない……。