現実。何もない。怖いものも、知らないものも、平等に無い。あの扉、開けて良いのだろうか。……昨日よりも、あの扉の先が恐ろしく感じる。お姉様の所まで、飛んで行けそうにない。これは強がりだ。昔からずっとそうだ。それで今日、急にここも安全じゃないと思い浮かんだ。……思い浮かんでしまった。外には何があるのだろう。いつか、あの扉も開いて、私を壊しにくるかもしれない。
夢。……私の夢に何があった。何故か……眠ることが怖い。昨日からだ。昨日の夢。……私はどれだけ怖い夢を見たのだろうか。何も記憶がない。
ああ神様。私でさえ祈って良いのなら……。知識をください。臆病な私は、部屋の外に出られない。でも、悟ってまった。部屋の平穏もいつかは崩れる。その時に、狂気に呑まれないために。……知恵を。知識を。狂気から目をそらしてはいられない。茫漠とした狂気を起こさないで、なだめて、飼い慣らせ。
強大な無知が私を襲い、私を壊す前に変わらないといけない。成長した私が、蒙昧に己が小さき存在だと理解させてやる。私は、……私は、何でもできるようにならなければ。
それなのに、この部屋には何もない!
ああ、絶望的だ。私は狂いたくない。どうするべきだ。……狂わないためには? 打つ手がない。狂いたくないからさらに狂う。何もできない悪魔にはふさわしい末路。……現でも狂っていくなら、せめて寝て死にたい。もしかしたら、怖い夢なんて見ていなかったのかもしれない。……寝よう。
「――こんにちは。ドレミーと申します。……気分はいかがですか?」
――
――――
「というわけで、帰ります」
「……さとり、もう帰るのね。いいけど、怪我は?」
本心だと、さとりには帰ってほしくない。嫉妬しているからではなく、ただただ心配だから。だって、二日前に夢でこいしを連れ戻したばかり。しかも、その日には気を失っている。怪我も、悪くはならなかったように思えたけれど、良くなったとは素人目からは分からなかった。……顔色は、良いみたいね。
「お姉ちゃんにしてもらったことは、またお返しするから。だから、私がお姉ちゃんのお世話をするってこと。怪我のことは心配ないよ」
さとりにはこいしがいたわ。二人は姉妹だし、こいしはきっと看病だってできる。心配ない、も嘘偽りないのでしょうね。
そうだわ。地霊殿には、妖怪が沢山泊まっていたわね。それでさとりがこっちへ来たのだから、地霊殿も危ないような。
「ヤマメを筆頭とする土蜘蛛達が、北町で、仮住まいとなるような建物を建てているとか。それを聞いたお燐が、北の妖怪を地霊殿からみな追い出してしまったそうな。だから地霊殿は空いています。……お燐は後でお仕置きね」
帰る道筋は? 北町を歩けば、こいしの二の舞よ。
「雪も降っていないので、ゆっくり飛んで帰ります。 怪我はあるけど、無事が一番」
「どうしていきなり帰ると決めたのよ」
「お空は、まだこいしを思い出していないのだとか。思い出させられるのは、私しかいない訳ですし……」
さとりの怪我も、こいしが診る。地霊殿も妖怪が居らず、使える。無事に帰るすべもある。……こうなれば、仕方がない。引き留めるには、打つ手なしか。
「……またいらっしゃい。こいしも」
「はい」
「また行くかも。お姉ちゃんから韜晦するときに、貴方の家に行くね」
「さとりの前で言ってしまったら、それは行方を眩ますとは言わないような」
「こいし、家出しないって言ったの――」
「家出は、しないよ。それは守る」
「……信じるわ」
こいしが何を考えているかは分からない。ただ、私の知らないところでは何か考えていて、しかも感情はあった。きっと地霊殿で楽しく暮らすのだろう。ただ、彼女は、常に地霊殿に居るとは限らないのかもしれない。一日で妖怪の気質を変えることなど不可能。それでも、さとりからどれだけ離れようが、またさとりの前に姿を現す。さとりも私も、そう信じるしかないのよ。
「――さとりさん。貴方のお怪我は私も気になっていて……おっと。……危ないですよ」
……今度は壁からか。ドレミー・スイート。私の家にたびたび来られても困るのよね。こいしから妖力弾を撃たれるのも妥当だろう。客間ならともかく、私達は居間にいる。勝手に入って来られることは、許容できる範疇ではない、と思う者もいるかもしれないのに。
「わずかに気付くのが早かったら、当てていたのに」
「おやまあ。わずかに気付くのが早い程度で、当てられるとでもお思いでしょうか」
「……ここで喧嘩しないで。パルスィが困っていますから」
「さとりの言う通り、困るわ」
さとりの言う通り、困る。といっても、さとりは私が困っているのを読んで言ったのだから、言う通りなのは当たり前か。
「それで、どうしてパルスィの家に来たの? お姉ちゃんに嫌われているんだから、良い対応されないって分かっていたでしょ」
「良い対応など求めていません。こちらから伝えたいことがあったから来たのです。こいしさん。貴方が夢の主に何を言ったか、私は良く知っています。その者の夢を奪ったのですから。……そして、その結末も」
「で?」
「貴方の一言で彼女は夢を恐れるようになりました。ああ、哀れな夢の主は気が狂ってしまったそうな。……あるいはその逆か。貴方がひどい目に遭わせた夢の主は、知恵を求め始めました。夢から影響を受けることは致し方ないことです。ですが、私が夢の記憶をできる限り隠したにも関わらず、あれだけ精神に力を及ぼすのは頂けない。貴方はやり過ぎた」
「よく回る舌だね。私は立ち竦んだ弱虫を押してあげただけだよ」
「弱虫を押して奈落の底。助長、という故事成語はご存じですか」
「弱虫が獅子だといいね。……ひとりでに這い上がれないようじゃ、お先は真っ暗ね。それに、私が押さなくても、弱虫はいつか足を滑らせて落ちていたと思うわ」
獅子か。聞かなくなって久しい。……もちろん地底には居ない。それどころか、倭でお目にかかったことすらもない。大陸にはいたのだけれど。こいしはどこで知ったのやら。もしかして、私の夢の中にも、何度か紛れ込んでいたりして。
「這い上がる、ですか。心を読む能力から逃げたお方が何をおっしゃる」
「撤退も大切だよ。閑散とし始めた市場に店を出し続けるというのも、愚かだよね。それと同じ。夢もそうかもよ?」
「夢が崩れたときには無意識も崩れます。同じように閑散とした市場とやらを当てにしている貴方から言われましても。夢が崩れたときは、世界が終わるとき。夢世界は世界が終わるまでは安全と言えますね。……さて――」
「こいしには何もしないと言った筈。今さら何を求めるの」
こいしが居た夢の主。誰だか知らないけれども、背中から何か羽のようなものが生えていた。そして、腹に小刀が刺さっていて……。この夢は忘れられそうにない。死ぬ夢ね。獏が消そうとしても消せないものもあるのね。こいしの過失で人が狂ったなら、こいしへ何か代償を求めることは、おかしくはないのかもしれないわ。
「貴方がこいしを庇う気持ちも理解できます。が、夢の主があまりにも可哀想で仕方がない。知恵はそう簡単に与えられない。だが、知識はそうではない。知識を与えられるもの。貴重品である本。……それを、分けてあげてほしいのです。私が、夢の中でひそかに学ばせるつもりでして」
「こいし、あの本をあげて。こいしが他の妖怪の記憶を隠すために使った本」
「それって、私にその本を二度と使わせないためでしょ。……お姉ちゃんの頼みだし、もう使わない。いいよ。あげる」
「そういう訳では……」
さとりは、こいしが家出できる手段を手札に持っているだけでも嫌なのね。一度覚えたら、本がなくても、まじないをかけることができる気もするけど。
「こいし、パルスィにかけた術、覚えていたりする?」
「だからお姉ちゃん。あのまじないはもう使わないって言ってるでしょ」
使わない。使えないとは言っていないわね。むしろ覚えている可能性が高い。私と違ってこいしは要領がいい気がする。さとりもそうだろう。どうしてこの姉妹は何でもできるのか。羨まし――
「何でもできるわけではないですよ」
その強い者のできないこそ信用ならないし、謙遜できることも羨ましい。……結構鼻につくわね。……止そう。さとりに嫌われるのは堪える。
それよりは獏の方が気になる。ただ単にお人好しなのか、あるいは何か利益が生まれるのか。
「貴方がそれで何を得られるのかしら? 夢の中で奪い取った夢の元の主? に本を読ませるのは貴方だし、ただ疲れるように思えるけど」
「私がご丁寧に読み聞かせをするわけではありません。その、フランさんに、私の関与を気付かれないようにして、本を夢の中で貸し与えます。もちろん理由はありますよ。……その理由としては、夢をただ見ている者が苦しむことは、私を心苦しくするからです。独善的で、なおかつ良心的な理由でしょう」
胡散臭い。さとりの表情から、この獏が言うことは本当か否か読み取ろうかしら。……駄目だ。私は心を読めるわけがないから、一切合切分からない。さとり、どうなの? 貴方が頷いたってことは、この獏は本心で……本心みたいね。ドレミーもややこしい性格をしているわね。
「なら、この本はあげるよ。大切に使わせてね。フランちゃんが本を壊したら叱っておいて」
「その本が壊されることはありません。持ち込んだ概念が破壊されるだけです。名はフラン……ですか。しかと受け取りました。それで……」
「私は本なんか無いわよ」
古明地はそうだし、獏も本と関わりがある。それなのに、私だけ無い。私は惨めだ。ふん、こちとら本とは縁も所縁もないのよ。貴方達を妬めて良いわ。
「知っています。ほとんどの生き物はそうでしょうね」
「パルスィなら、貸してあげてもいいのに」
「機会があればね」
この獏は、私が本を持っていないことを知っていて聞いたのかしら。良い性格ね。さとりが本を貸してくれることは嬉しいけど、別にそこまで本を読む気は……。それに、そんな高いものを触るのも億劫だし。嫉妬しておいて何だけど、私が本を読むことは無いと思うのよ。
「思考と発言がかけ離れている妖怪は嫌いですよ」
建前というかなんというか。そもそも、私が本を読もうと思うことが稀だろうから……。それに、本を読もうと思った時には貴方に頼むし……。その機会があれば、なのだけど。嘘でもないし、かけ離れているほどでも無いわよ。
「ああ、なるほど。後で本を数冊、貴方の家にも送っておきます」
私の家? それって、宝の持ち腐れよ。
「私が読み終えた本ですよ。地霊殿にある方が宝の持ち腐れよ。……お燐達は本を読まないから。家にその本があっても、猫に小判で、どうしようもない」
辛辣ね。仮にも貴方の家族よ? 勧めてみたらどうよ。
「それは――」
「ちょっとまって、独りぼっちなお姉ちゃんが友達を嫌うとか有り得――」
「その話はもう過ぎたでしょう。こいしは黙っていて」
「……ないよね。せっかく友達を得たのに――」
「嫌いって、本当に嫌いにはならないから。言葉の綾。言葉の」
「おやまあ、仲睦まじいですねえ」
話が流れてしまった。それと、この話にはあまり深く入らないでおこう。話をそらすにはどうしたら。
……さとり達に、何か忘れ物はないわよね。
「忘れ物? 第一、何も持ってきていないので、忘れ物などあるはずがないですね。着た服はここにありますし。では、そろそろ……」
「そう……」
「なら私も用はありません。フランとやらに与える本が無くなれば、また地霊殿にお伺いしますよ」
「……かこつけて地霊殿に入り込むためでしょう。私はそんな妖怪を一、二……三くらいは知っている」
一。……紫かしら。入り込むことは、彼女の十八番。妬ましくなるくらい賢しく、強い。二は……萃香? 霧になればある程度は気付かれない。おまけに、賢い。理由をかこつけて、地霊殿から酒をよくせびって、私達に飲ませてくれた。飲んだあとに、これ、地霊殿から持ってきたよ、と言われて焦った思い出がある。
……三、分からないわね。
「そうおっしゃらずに。私が地霊殿の主に釣り合うかは分かりませんが、地底世界と意志疎通をしやすくなるので、ぜひ」
「……ええ、来るのを拒むことは止めにします。ただし、本当に必要な時以外は来ないでくださいね」
「ありがとうございます。では失礼――」
「あいつ嫌い」
「悪口を言うのは良くないわ」
こいしが獏を好きになれる訳がない。こいしは獏に包丁の概念……だったかしら、で刺されていたし。かなり嫌いなのかもしれない。獏が出ていったと同時に悪口を言ったもの。
そのことは知っているとしても、さとりにとって、こいしの口が悪いことは、あまり許容したくないのだろう。ただ、本人の前で悪口を言うことは我慢できているだけ、幾ばくか、ましになった気がする。
さとりも、あの獏が嫌いなのだろうとは思うけど、口に出すことは無いわね。……いえ、やっぱり、口にも態度にも出ていたような。こいしを見つけられたのも、ドレミーがいたからなのに。
「貴方の家に包丁があったからでもありますよ。決して獏のおかげだけではないの」
私が役に立てたのはいいのだけど。さとりも思っていたより、獏を毛嫌いしているようね。
「……パルスィの嘘つき。何も貰ってないって言ったのに、私は贈り物あげていたじゃない」
夢の中で夢に違和感を覚えることは難しい。記憶も曖昧だし、思考もまともにはたらかない。その時に百年以上も前のことを聞かれても、覚えている訳がない。
「夢の中で聞こうとした貴方が悪いのよ」
「ぶうー……」
「こいし、止めなさい。……本当に帰る。パルスィ、ありがとう」
ええと、別れの時には、何か気の効いた一言を。楽しかった……というのもおかしいか。さとりは傷を癒すためにここにいた。元気になった、は少し違う。怪我が治って良かった、と本人に向けて言おうにも、怪我は治っていない。
いっそのこと引き留めようかしら。もう少し居ていいのに。そう思うけれども、地霊殿の方が、治すには良い所だろう。温泉もある。となると、引き留めるのもね。
……駄目ね。
「どういたしまして。……あ、いけない。あの包丁、どうするの?」
「私が貰っておきましょう」
「お姉ちゃんが?」
「貴方が心配なのよ」
「ここまで来ると束縛……。いや、あげる。パルスィ、持ってきて」
台所にあの包丁は放置してあるので、大丈夫。何の変哲もない包丁ながら、こいしを見つけるのに役立った。
確か包丁は、相手に柄の方を向けて渡すのよね。ん、さとり、しっかり握った? 包丁の刃から手を離すわよ。
「…………もし私が、これで貴方に傷をつけたら、……貴方はそれを受け入れてくれますか」
包丁で刺されろ……? さとりがおかしくなった? いいえ、暗喩かもしれない。暗喩だとすれば……駄目だ。分からない。冗談めかしている訳でも、本気というわけでもなさそう……。さとりの意図するところが掴めない。
「えっと……。生憎、刺される趣味は無いわ」
「…………変なことを聞きました。……よこしまな心。忘れてください」
うーん……。さとりを送り出すことが心配になったわ。困っている時って、悪い妄想をしがちなのよね。
「さとり、困ったらお互い様よ。迷惑かけるとか、そんなことで悩まないでね」
「……はい」
ちゃんと分かっているのかしら? 困ったら、相談しに来なさいよ。
「ふふ、パルスィったら早とちりしすぎ。別に困っている訳でもありませんよ。今、私は幸せですから」
私の早とちりか。……幸せ、ね。