「ねえ藍、消火して?」
「いえいえ紫様。ここは紫様のためにもご自分でどうぞ」
地霊殿でのぼや騒ぎ。まだ館は火に包まれていない。だが、火に包まれるのは時間の問題のように思われた。それにしては、この部屋に居る妖怪誰もが焦っていないように見える。火災ごときで焦る意味が分からないからだ。廊下をせわしく飛び回る鳥達とは、時間の流れが異なるかのようだった。
スキマから顔を出している藍に冷たくされた紫は、わざとらしく媚びた声を出す。
「どうしてよぉ? 頼んだわよ藍」
「お断り――」
「命令」
紫は媚が効かぬと見るや、たちまち凛々しい表情でお願いを命令へと変える。その場面だけ見たのなら、紫が支配者であると思わない者はいないはずだ。
ともかく主の命令だ。藍に断る選択肢は与えられていない。
「……仰せのままに」
出会った当時は陶酔し、これこそ仕えるべきわが主だ、と思った妖怪とはこんな御方だったのか。分かっていたものの、呆れを隠せない藍。だが、別段無理な命令だとは思っていないようだ。すぐに表情を戻し、何食わぬ顔で何かの準備動作を始める。
「いや、いや、無理でしょこれ」
その一方で、こいしには火災を解決する算段は浮かんでこなかった。
二人の背丈のせいか、こいしは藍に見下ろされる形となっている。こいしの目には、飄々とした藍が映る。
「なんだ、私ができないとでも思うのか?」
「そりゃ、火はそう簡単に消えないよ。……のせいで起こった旧都の大火は、お姉ちゃんのお気に入りだった西町のペットだって、容易く浄土に送り込んだ」
「まあまあ。できるから安心しろ。部屋を七つほどいただく。いいか?」
「……消せるならね」
「私は、壊す方が好きなんだけどなぁ……」
藍がぼやいた。それとともに藍の尾が隆起し、辺りがぞわぞわとどよめく。
「――!」
藍が小さく唸り声をあげたかと思えば、幽香が放ったマスタースパークのせいで開いた、玄関まで続く大穴に接していた部屋は全て跡形もなく無くなっていた。それらの部屋が燃えていたので、その部屋が取り除かれた以上、館には火も見えない。ものの見事に火災は解決した。
「……ふん。いかがですか紫様。紫様のせいで始まったこの――」
「下手ね。動作に時間をかけすぎ」
「……紫の狐ができたなら、こいしにだってできる」
「幽香、流石に無理だよ。スキマか。式にも使えるようになるのかな?」
藍は密かに、ここに居並ぶ強者達の称賛を求めていた。しかし、そもそもここに居並ぶ強者とは、心を読めない奴と、スキマ操作についての師匠、何を考えているか分からない大妖怪であったことから、称賛を得ることなど不可能なことだった、と諦めざるを得なかった。
「誰もが紫様のように成れるわけにはございません」
「いいえ。私のようになるには、藍は覚悟が足りませんわ」
「……そうでしょうか?」
藍は不服だった。目の前の主に見劣りしないよう、常に努力してきた自負があったのに、紫にその自負をばっさり切り捨てられたからだ。その感情の変化は、紫にめざとく見つけられる。
「藍。我儘な妖怪なら、私になれるわよ。あるものを自らの手で支配しようとし、そのあるもののために、全てを捨てられるような御方なら……。私はそれが、幻想郷だった」
それはつまり、藍の努力には目的が伴っていないということだった。紫に追い付くという目標を越えた後、藍は何をするつもりなのだろうか。藍は紫だけを見て生きてきた。
「支配する、追い付く、で立ち止まる者が多くて辟易しますわね。そうでしょう? 向日葵の貴婦人のようになってはいけませんわ。あなたは地底を維持しなくてはなりません。あなたは愚者にあらずして、常人。維持だけで十分よ。地底の啓蒙は自己中心的な妖怪に任せるべきよ。……さとりが本当にそうだったのか、私にも分からなくなってきてしまったけど、ね?」
もう話すことはないと言わんばかりに藍を無視し、紫はこいしに話しかける。
さとりはわがままである。こいしにはその意味が分からない。こいしはたちまち首をかしげる。
紫からすれば、さとりは同類だった。
暴君にしては、さとりの力は大きくない、それゆえ紫は喧嘩でさとりを恐れることはしない。今日、さとりがあれほどまで常人的思考を見せたことに、紫は驚きを隠せなかった。もし、さとりとこいしが共に常人なら、取捨選択をすることができるこいしに軍配が上がる。
「嫌だよ。私は幸せに生きるの」
「あなたが幸せに生きられるかについては、全てさとり次第ですわ。せいぜい、姉を愛することね」
「お姉ちゃんは私を幸せにする。その代わりに、私はお姉ちゃんを愛することになっている。言われなくても、お姉ちゃんを大事に思っているよ? ……お姉ちゃんが居なくなったら、困る」
「こいし、優しい子ね」
「幽香ねえ。こいしのこれを優しいと言い切れるのか、怪しいと思うわよ? ……あなたは、変わったわね」
紫は幽香とこいし、どちらともとれないような方を向いて語った。
二人には誰が変わったのか、紫の視線から見てとれなかった。ただ、自分が変わるはずは無いと確信していた。だから相手が変わったのだ、とお互いに見つめあっている。心など読めない、あるいは読んでも意味がない二人のことだ。二人とも、何も得られなかった。
こいしはそのことについての興味が尽きたか、話を大幅に変える。
「……さて、八雲紫のせいで始まった――」
「幽香ですわ」
「どうして? ……原因は紫、よ?」
「……この争いのせいで、お姉ちゃん及びこの館に甚大な被害が出てしまいました」
こいしはさとりが座っていた椅子にどっかと腰かけて、紫と相対する。
紫からすれば、戦後処理から逃げない点は高く評価できる。紫はさとりも発作が収まれば戦後処理も容易くできると考えていたため、経験の浅そうなこいしと戦後処理の話し合いをしようとした。
いつだったか、古明地姉妹を地底に送り込むとき、こちらの動揺をさとりに見抜かれ、うまく利用されたことは鮮明に紫の記憶に残っていた。
幽香はほとんど興味は無さそうだが、藍は紫の後ろで耳をそばだてて、この話し合いに興味津々だ。
「……不慮の事故よ。そもそも今回の発端は幽香の勝手な行動であり、地底と地上の関係の維持のため、早急に幽香を地上へ戻す必要があったわ。あなたは聞いてないと思うのだけど、幽香と私との間には、勝手に地底に入ってはいけないという約定があったのよ」
紫としては、幽香と地底が結託することは、今は良くても、今後も地上と地底が仲良くできる保証はないので、その起こるかもしれない有事の際に問題だと考えていた。
一方で、今回の件で幽香と地底の仲が悪化するのも問題だった。これも阻止しなくてはならない。なぜなら、紫は公に公開しないだろうが、今回の件のように基本的に幽香は制御不能であり、幽香と地底の仲が悪化した場合、幽香が勝手に地底を滅ぼす可能性があったからだ。
「……私は何者にも縛られない」
幻想郷は薄氷の上で成り立っていた。
紫が幽香を排除すればいいか。否。できないのである。多分幻想郷から結界を用いて閉め出しても、三日後くらいには向日葵畑をうろついている幽香を見ることができるだろう。幽香が幻想郷に興味を示した時点で、紫の苦労は決まっていた。
ただし、紫は苦労を擦り付けることはあっても、逃げ出すことはしない。話が通じる者は受け入れ、残念ながら相容れない者は幻想郷から立ち去ってもらった。幽香は薄氷を割ることはしなかった。だから紫は、幽香を乗せると薄氷が危ういことは承知で、幻想郷に迎えたのだった。
「……このように、何をしでかすのか分からない幽香を地底で野放しにしては、あなた方はともかく、鬼が滅びてしまいますわ」
「……たしかに?」
「鬼、あまり記憶にない」
もし幽香と鬼が相まみえるのならば、鬼は必ず戦いをしかけ、ほとんど全て屍を野に晒すこととなるだろう。
「私の幽香に対する強硬的な態度は地底を守るためであり、やむを得ないもので、その結果発生した事件の責任は誰にも追及できない、あるいは約定を守らなかった幽香に帰結しますわ」
ずいぶんと長い口上を一息で言い切った紫。喧嘩を少しばかり楽しく思っていた自分を棚にあげて、正当性の押し付けを続けようとする。こいしはそれを許すつもりはない。だが、途中から来たこいしにとって、あまりいい反論が浮かんでこない。
「まず第一に、喧嘩をここでやる必要を感じないのだけど。ここで睨みあって、ついに戦闘でしょ? 地底と地上が一応対等な関係である以上、お姉ちゃんが死にかけた、つまりこれは地上側の、地底の主の暗殺計画と邪推されてもおかしくはないと思わない?」
「それは否定しておきましょう。有り得ませんわ。それは今回の事件を私と幽香が共謀して演じた、ということでしょう。もしそうならば……さとりが生きていることがおかしいのですわ。そもそも、こちらの目的は幽香を地上へ戻すことよ」
強者特有の証明法、『自分がその気なら失敗するはずがない』は紫と幽香の喧嘩だったからこそ通用した。こいしは、一応の納得を見せる。当然ながらこいしも、こんな邪推の塊で紫が非を認めるとは微塵も思っていない。
「……ここでやる必要は?」
「ならあなた、鬼のいる外で戦ったら良かったとでも言うのね?」
「お姉ちゃんを巻き込んだ理由は?」
「先に動いた方が負けるのよ。だから戦闘まで何もできなかった。でも、戦いの時、私はさとりの前にスキマを張ったわ。さとりを守ろうとしたのよ?」
身体的には無傷だったさとりを見る限りはそうらしい。戦いの後に部屋に入室したこいしは、それを信じるしかない。こいしはもやもやしていたが、ようやくいい考えが思い浮かんできた。
「次に、地底と地上が不可侵――つまり、対等な他国とすると、お姉ちゃんという民間人を巻き込んだ内紛を他国でしたことになるよね? それなのに幻想郷の頭が地底への賠償をしないのも、おかしな話とは思わない?」
「その例え話と現実は大きく乖離していますわ。幻想郷の内部に地底世界も含まれているのよ。地底が昔からいた住民を除いて立入禁止区域というだけ。あなたの姉はそこでの管轄を任された役人に過ぎないわ。私は一応幻想郷全ての管轄者。『手下』の尻拭いをするのは私。さとりが幽香の追い出しに失敗した以上、私が幽香と名の付く不法侵入者を排除する必要がありましたの。これはその結果であり、致し方ないこと。地底の管理者に対する補償は必要ありませんわ」
こいしもひっくり返るかのような酷い言い種だ。要約すれば紫は、さとりが幽香の追い出しに失敗した。幻想郷の支配者がなぜ失敗した自国の一般役人ごときに補償しなくてはならないのか、と言っているのに等しかった。藍も何度か主の方にちらちらと抗議の視線を送っている。
何はともあれ、紫はさとりに補償する気はないと宣言した。
「その結果新しい地底の管理者が必要になるとしても?」
「自意識の高い凡庸は山ほどおりますわ」
紫特有の素直じゃない発言――さとりの替えはいくらでもいる。(さとり並みにできる妖怪はいない)は、こいしのじと目をもって迎えられた。紫も弁解するつもりはない。
少々評価が下がったところで、さとりはさとりであり、唯一無二の妖怪だ。
紫がここまで自身の責任を否定するのは、何も補償したくないからではない。ただの戯れである。ついでに言えば、地底にペコペコしたくない。最後にこれが主目的だが、こいしがどれだけやるか、と見定めるためだった。この程度の屁理屈と恫喝で丸め込まれるようでは、さとりの代わりなどできるはずがない。
「……つまりは、幻想郷のどこでなんでもしていいと言うのね?」
「ま、そうなりますわね」
ここまで開き直られては仕方がない。議論は平行線を辿るだろう。しかし、引き下がるには被害が大きすぎる。正攻法を諦めたこいしが選んだ手は力による恫喝だった。
「幽香」
「なあに?」
「私、今紫のせいでとっても悲しいのよね」
「ええ」
「憂さ晴らしに、久々に紫の家で弾幕でも張って遊ばない?」
「……いいわね」
「待ちなさい」
「貴方、言ったじゃない。幻想郷のどこでもなんでもしていいって」
こいしがわざと主語を抜かして話したのはそのためだった。
紫といえども相手の心は読めない。
紫は、
「……幻想郷のどこでなんでもしていいと言うのね?」
という言葉の本意を誤解していた。それは、こいしによってなされたこの発言を、紫だから何でもしていいのか、という確認のためだと思っていた。
一つ付け加えておくと、話の流れ的に考えると、紫の判断が正しい。むしろこいしの言い分に無理がある。
屁理屈には屁理屈を。戦後処理はどこへやら、屁理屈合戦が始まっていた。
「主語を読み取る能力が欠けていますわね。幻想郷の主たる私がなんでもしていいのよ?」
この言い種は幽香の気に障ったかもしれないことが、幽香の表情から見てとれる。二人はそんな幽香を無視して話を進める。
「そうそう、記憶力が欠如してるのは誰だろうね?」
「……何かしら?」
「地霊殿と八雲の約定には、私が地上に出ること、及びその被害は後で地霊殿へ請求すると書いてあったよ?」
「私の家は高くつくわよ」
一、古明地こいしが地上で起こしたこと、及びその被害については即座に問題にせず、後程地霊殿に請求する。
つまりは、こいしが何を起こそうがこいしを罰せず、賠償金で手打ちと言うわけだ。
「この条項がある以上、こうも考えられる。誰かが他所で問題行動を起こした際、その誰かは被害額を払わないといけない。例えそいつがどんな奴でも。……貴方がこのような考え方を持っているからこそ、こんな条項を作ったんでしょ? そうでなきゃ、私が地上で何かしたとき、お姉ちゃんがその代金を払わせられてる意味が分からない」
さとりを無理矢理地底の管理者に仕立てあげるためにした数百年前の譲歩が、今思わぬ形で帰ってきた。紫とて未来を覗けるわけではない。
紫は、こいしの大きな変化を良いことだ、とばかり思っていたが、そうでもなかったようだ。紫は苦い思いだが、おくびにも出さない。そのまま、自身の行いを正当化する。幸いにも、こいしの主張は紫の主張に対する反論にはなっていなかった。
「法は私の下にありますわ」
「またそれ!?」
「……私は?」
ここで幽香が口を出す。もし私が法の下にあるなどと口走ったら、戦争だと息巻いて。
「そうねえ……」
紫にとっては悩ましいことだ。幽香は実質法の上にいる。それを公に認める選択肢は紫にはない。もし法の上にあると認めたら、幽香が何をしだすか分からないからだ。
だが、お前は私に従えと幽香に言えるはずもない。これが幽香の凄いところだ。
「せめて、何をしたいのか、する前に教えて欲しいわねえ……」
紫は曖昧な回答をするだけにとどまった。
「なら、紫の家を壊す。こいしが、かわいそう」
あくまでも淡々と。その内容は、淡々と話すことではないが。
こいしは今日、この大妖怪と親交を持っていたことを心から感謝した。
「あら、お断りよ」
「目には目を……ね」
さて、今回の騒動、誰が原因だろうか。嬉々として喧嘩を売った紫も然り、そもそも地底に勝手に来た幽香もまた然りだ。どちらかといえば、約定破りの幽香が問題だと、多くの人は捉えるだろう。
その幽香が紫を一方的に糾弾できるだろうか?
それを追及しようとする者は、ここには一人しかいない。
「目には目を……って、あなたが原因よ? 私はあなたを地上に戻しに来ただけよ」
これに目をつけたのはこいしだ。明らかに幽香はこちら寄りである。それを利用しない手は無い。ここで切るべきカードは、幽香を完全にこちら側につけるカードだ。そのためなら、こいしは幽香の責任は不問にしてもそれで構わなかった。それと、幽香に責任を追及しても、多分代償を払ってはくれないからだ。
「……幽香」
「なあに?」
「この紫はね? 大体六十年前かな、お姉ちゃんを――」
「んー! 譲歩しますわ。藍が地霊殿を建て直すのに協力するでしょう」
「…………えっ、紫、様……?」
六十年前のことを忘れるこいしではない。姉は殺されかけた。紫の差し金によって。紫に殺すつもりは無かったとしても、こいしには、姉を殺す真似すらも許せなかった。
こいしの切ったカードは、適切に作用した。
幽香は
「こいしがかわいそう」
と語った。つまり、補償が無いこいしに同情している。その同情の表現として、紫の家を破壊しようとしている。
さて、今回の喧嘩、幽香は誰が原因だと思っているのか。――紫である。今のところ、幽香にとって紫とは、友をいじめた腐れ仲である。幽香にとって、
……昔もこいしをいじめていたら? その分だけ、紫を咎めようとするだろう。すると、家の破壊どころでは済まないと予想できる。
このカードには大きなメリットがあった。発言を止めなければ、幽香が地底側につくかもしれないのだ。だから、この発言がすべてなされる前に、紫はこの発言を止める必要があった。
ではどうやって止めるか? 幾つかの方法がある。しかし残念ながら、このカードには他にもメリットがあった。
――止めるにも、大きな代償を必要とするのである。
止める方法、一つ目は全否定だ。おそらくこいしの持つ証拠は、六十年前、地底で前鬼及び辻斬りに用いた式の人形のみ。これをしらばっくれたら、黒に限りなく近いグレーができる。いくら黒に限りなく近いグレーといえども、黒ではない。努力すれば、白へと覆せるだろう。――恐ろしくなるほどの努力が必要だが。
二つ目は、スキマを用いて、ここにいる妖怪をどこかへバラバラに飛ばすこと。
――論外だ。そうすればおそらく、こいしは幽香の家に直々に向かい、事の仔細を伝えるだろう。すると返ってくるのはより大きな『災害』だ。幻想郷に洒落にならない被害を振り撒いて、いつかは幽香と紫は仲直りできるだろう。まさしく、論外である。
三つ目は、譲歩だ。建て直しを藍に手伝わせると約束し、話し合いを強制的に終了させる。藍が苦労するだけで済み、なおかつ幽香の紫に対する心証も変わらない。
力こそパワーな幻想郷において、こいしは、借り物とはいえ力を示したのだ。それを認めるのもやぶさかではない――紫は、なんだか負けた気分の感情を説き伏せ、話し合いを終わらせた。
そういうわけで、藍は地霊殿の建て直しを手伝うこととなる。この中で一番損したのは誰か。それは藍であった。
地底の主という二つ名にそぐわない逃避、もとい幼児退行。さとりが自分の部屋に逃げ込んだことは、合理的な判断に基づいていなかった。
幸いにも、火災の片棒を担いだ女が所有する式によって、火は全て消火されていた。ただし、鳥の情報伝達は最新の情報を伝えるまで、少し時間差があった。さとりの部屋に飛び込んできた鳥が伝えたのは、「火事は今から広がる」だった。そのため、我に返ったさとりは、最重要だと思われる紙の束を持って、部屋から逃げ出そうとした。
部屋から出て1階へと降りた階段の右、地下へと続く廊下の交差点で、周囲を確認せずに走ったさとりは、その代償を支払うこととなる。
「――きゃん!」
「ああっ! ……?」
何かとぶつかった感触。カランカランと金属が転がったような甲高く、しかし重たい音。鈍く痛む左半身。さとりが片目を開いて見たものは、同じく尻餅をついた小野塚小町――死神だった。
この死神とは、館に勝手に出入りする三英傑の一人で、紫、萃香についで三番目に面倒な奴だった。
今はそれどころではない。今までのことを水に流して、さとりはその死神の手を引く。
「火事ですよ!」
「はぁ!? ……ちょっと待った」
手を引こうとしたのは良いものの、体格差、そして力の違いによって連れていくことはおろか、引っ張ることすらできない。小町の裾から手を放す。のろのろと落とした大鎌を拾う死神を見て、さとりはちらりと嫌な思考がよぎり、背筋に不快感を感じた。
大鎌が倒れた方向によっては、私に刺さっていたのではないだろうか。
さとりの想像は大体合っていた。その大鎌がほとんど刺さらない見世物用としても、体格差的に、さとりの頭に刺さっていてもおかしくはなかった。さとりは、あの記憶のせいで、刃物に少しだけ敏感になっていた。
他所に勝手に入り込むなら、せめて危険物は家に置いてきてほしい。さとりは言いたいことが山ほどあったが、顔見知りのよしみ、見捨てる選択肢は無い。
「ほら、焼け死にますよ! ついてきてください!」
「えっ、ええ……?」
二人はそのまま地霊殿の地下にある勝手口の所まで突っ切ろうとする。困惑しっぱなしの小町も手を引っ張られたまま、付いていく。
美しいタイル張りの床を叩く靴の音。足から感じる床の固さ。どう考えても息切れ寸前と思われるさとりの吐息。おぼろに揺れる廊下のシャンデリア。五感から同じ情報が延々と繰り返されたので、飽き性の小町は、この繰り返しから脱却するためか、無意識に頭が働く。
「……あたいの力で外に出るほうが早くない?」
それと、息切れするくらいなら、飛べばいいのに……。
道中でその答えが出るのも、おかしくはなかった。
「え、あ。ああ……」
はたと足が止まったさとり。小町の思考を読めてしまい、今までの徒労はなんだったのか、と、どっと力が抜ける。
「あたいの力はなんでも運べるほど便利じゃないけどさ」
小町の能力は、距離を操るだけだ。大きいものは運べないし、スキマと違い、物を収納しておくこともできない。また、大きな物を苦労なしに持っていけるわけでもない。
しかし、小町の能力は、スキマの下位互換では決してなかった。コンマ数秒となるが、スキマよりも早く目的地へとつく。生物の反射と同じだ。反射反応は、脳を介在しないため少し早い。同じように、小町の能力だと、スキマを介在しない分少し早い。
「……あの」
「いいからいいから。たまたま近くにいたよしみだよ」
「……違います」
さとりが何かを言いたげな表情になるのも致し方なし。小町の運びかたに難があった。体の前でさとりを持ち上げ、右腕でさとりの膝裏を支え、左腕をさとりの背もたれにする。――所謂お姫様だっこ、というものだ。
さとりが華奢というにも小さい体つきをしていても、心は大人。この抱かれ方はいささか抵抗感がある。
「……重くないよ?」
「もういいです」
さとりはなぜ抱き抱えて運ばなければならないかを聞きたかった。だが、見当外れな返事の数々で、さとりは質問することを諦める。 ……さて、なんだか柔らかいので、抱かれ心地はよかったそうだ。
「良い子だ。じっとしてな」
「子供じゃないのだから……」
「分かった分かった」
一歩。
それだけでさとりの瞳孔を大きく見開かせるだけの出来事が起こる。目に入る光景が変わった。地下及び灼熱地獄へと続く勝手口が、にわかにさとりの眼前に現れたのだ。延々と続くかと思われた地霊殿の廊下でさえ、彼女の前では何ら影響を及ぼさないことを改めて明らかにした。
「楽だろ?」
「……礼は言います」
悩ましいことは、死神にこの力を存分に発揮され、よく館を徘徊されることだった。
ゆっくりと床に降りたさとりの思考は既に元通り、よくよく働いていた。どう言い訳して、誰の家泊めてもらおうかと悩みつつも、地下経由で外へ出ようとする。
偶然、二人はまた別の鳥が飛んでいくのを見た。その鳥は第二報を携えていた。
「……火災は消火された」
というわけである。
「……本当に火災なんてあったのかな? あたい、火なんか見てないが」
「そう思うのも当然でしょう。ただ、本当に火災は起こった。八雲紫と風見幽香のせいで」
――こいつもとんでもない奴等に絡まれたものだな。
小町の思考は、さとりの思考を代弁していた。さとりに同情の視線が刺さる。気持ちの良いものでは無いが、信じてもらえないよりはましだ。
何はともあれ、火災が収まった以上、地下にいる必要はない。
「じゃ、あんたの部屋に」
「ちょっと――」
ぐいと右腕を引っ張られ、後ろに倒れそうになったさとりがバランスを取り戻し、再び目を開いた時、そこはさとりの部屋だった。
「……もう、危ない」
最初にお姫様だっこをした理由を問いたくなった。しかし、さっきの粗雑な扱われ方よりはましと思い、さとりは黙っておくことにした。
さとりが黙っておいた理由はもう一つあった。小町の顔がにわかに「冷たい」顔つきになったからである。
「私がここにいる理由、分からないあんたではないだろう」
「……ええ。また……そのお話ですか」
お互いに仕事だ。さとりは椅子に腰掛け、小町は何らかの紙を取り出す。
「この話はいつまでもするさ。仕方の無いことだよ」
なぜ萃香、紫といったビックネームに並び、このしがない死神が面倒な奴三英傑に入っているのか。
「地底における魂の簒奪および不法所持に対する古明地さとり宛の通告書。映姫様直々のものだ」
……不幸にもお燐に見つかり、怨霊とされてしまった魂。それらの魂は全て映姫によって裁かれるべきだった。
幻想郷の循環システムに手を出す地底への抗議及び請求を一手に受け持つのがこの死神だったからである。
「要約しよう。地霊殿に、魂を新たに千以上怨霊にした痕跡が見られる。また、これまで怨霊にした魂など、魂または魂亜種の不法所持。魂返還の遅延の一因となった。……及びその滞納金をさらに滞納。到底許されることではない」
部屋の壁にもたれ掛かり、何やら紙を読み上げている小町を見れば、誰もが堅気ではない、と思うだろう。
「早急にこれまでの請求額を支払うか、咎人の火焔猫燐の出頭――」
「させるわけないでしょう……!」
珍しく感情を露にしたさとりがそこにはいた。さとりは強く机を叩き、その結果机の上にあった本の山が崩れる。
「最早請求額は百八十万両だというのに? 猫一匹と引き換えにし――」
「黙りなさい」
「……あんたが何を言おうが、あんたの猫ちゃんが原因だよ」
「お燐は生きるために怨霊を作る。それだけで、貴方達に金を払う必要があるの? 馬鹿げている」
「では――」
「地霊殿はびた一文払わない。……お帰り願いますよ」
小町はピクりとも動かない。さとりはずっと前から決めていた。守りたいものは身を呈してまで守る。その結果我が身が滅ぼうが、である。
お燐を助けたいだけなら、金を払えば良いだろう。もちろんその通りだ。しかし、初めて二人が出会ったとき、さとりは小町の心を読んでいた。その時の小町は、地霊殿がどれだけ強気に出るのか、さぐりを入れに来ていた。
さとりは地霊殿を纏める者として、地霊殿は是非曲直庁の貯金箱では無いことを示す必要があった。この関係が百年、二百年とずるずると続き、最早お互いにほとんど興味を示さなくなった。
「だよねえ~」
あわや――、しかし、何も起こらなかった。
張り詰めたように思われた空気も、小町の一言で霧散どころか、力をいれるのも馬鹿らしい雰囲気へと変わった。
「ま、暦が一周した程度で心変わりするはずもないもんね。あたい、このピリピリした空気苦手なんだよ」
心を読めるさとりがここまで熱くなったのは、小町の発言は全て本心だったからだ。お燐を連れていく。さとりはそこだけは看過できなかった。
小町がすぐに折れるつもりだったことは、さとりも知っている。それでもだ。さとりは自分と友好的な妖怪が消えることを恐れていた。
「……お燐は連れていかせませんよ」
「猫ちゃんなんか持ってかない持ってかない! あんたは心を読めるからわかってるだろうが、そんなことしたら地底の魂を集めるのもあたいになってしまう! ま、新年の挨拶といったところか」
「新年というには、もう遅いですが」
「えへへ。…………魂買わない?」
地底への請求など面倒だ、というのは小町の個人的な本心である。ただし、小町としては、霊の幾つかくらいは補償してくれても良いだろうと思っていた。……こちらは四季映姫の部下としての本心だ。
「買いません」
さとりとしては、びた一文払うつもりもない。
「良い魂あるよ~? お安くするからさ。一つ十両くらいに。百八十万両は払えないと知ってるけどさ、十両くらい……」
高い。小町の胡散臭げな売り込みも相俟って、他人の魂売買はより違法性を増していく。
「まだ使える魂は、期限切れ後千年で、強制的に回収するよ。買うなら今だけだよ? 怨霊は……いつでも良いや」
「もう良いです」
さとりは椅子をくるりと逆向きにして、本を読み始めた。もはや小町の心を読むつもりもない。
「あ、無視? いいよ。慣れっこさ」
しかし、小町はその程度の無視など慣れきっている。なぜなら、彼女が船頭だからだ。乗せるのは霊だけであるため、反応など望めない。それでも彼女は霊に向かって話し続ける。
今回は、話相手が霊からさとりになっただけに過ぎない。
「えーと。これとかどうだい? 猫ちゃんが勝手に怨霊にした人の霊で、源平合戦時に源氏方をばったばったと斬り倒し、最後には頼朝を暗殺しようとした……。おっほ、凄いねえ。最期は――」
「いや、お燐はどんな霊を怨霊にしているの……」
無視しようと決めていたのに、さとりはすぐに無視しきれなくなった。それでも意識は本に向いている。さとりは振り返るつもりなどない。
「……いる?」
「買いません」
「だよねえ、次。鬼神になりたいと願い、人であったにも関わらず人を一人食べてしまう。終いには入水自殺しようとしたが、その前に体は鬼神になってしまったので入水程度じゃ死ねず……。うんうん、良いねえ。んまあ、人間から妖怪になると、こちらとしては面倒なんだが」
「何ですかそれ。買いませんよ」
「…………そう。これも買わないなら諦めるよ」
こんな人でなしの魂を買わないだけで諦める? 捨て台詞はともかく、随分と、諦めのいい……。前は粘り強く売り付けてこようとしたのに。
おかしいと思ったさとりが振り返った時、そこに死神はいなかった。