U.N.KNOWN
December 25 1991
ルーマニアの森林奥深く、そこには深紅の館があるらしい。現地民は未だに、その館があると思われる森に入りたがらない。噂によれば、その館には魔法使いに、人を惑わす妖精。そして夜の覇者、吸血鬼。おまけに殺人鬼までいるとも。余りにも多くの噂が飛び交っていたことから、調査のため警察官が森に足を踏み入れた。だが、その警察官はそれっきり、姿を見せることはなかった。その警察官を探すために、別の警察官も森に足を踏み入れたが、彼も消えたことで、地方当局は森への入り口を固く閉ざした。
言い換えれば、誰もその館を見たことが無い、というわけだ。
ただ実際、館は存在していたし、その館には怪物がいた。
「今日は面白いことが起こるわよ、パチェ。しかれども、貴方のお眼鏡にはかなわないと思うわ」
病的にまで白い肌。魔法で作られた人工的な照明にも、艶やかに映るその髪。蝙蝠の羽と言い表すには滑らかすぎる、背中から生えた羽。もしあなたがその吸血鬼の体を眺める機会に恵まれたのなら、あなたは彼女の背が大層低いことに気が付くだろう。
「そう。……レミィの言っていた、新しい時代かしら。相変わらず、その力は理解不能ね」
パチェ、と呼ばれた少女は、その体を一切動かさず、レミィ、という吸血鬼に、口だけで返事をする。パチェ――この館、紅魔館に図書館を作り出し、今もなお魔法の研鑽を続ける魔法使いの、パチュリー・ノーレッジ――と、レミィ――この館の主であり、並外れた力を持つ吸血鬼であるレミリア・スカーレット――は友人であった。レミリアは、夜では比類なき強さを誇る怪物だ。
「この図書館からさっさと出てきて、この歴史的瞬間にもう少し興味を示しなさいよ。きっと今に人間は大慌てよ」
他の魔法使いと同様に、パチュリーは今のところ、俗世にはほとんど興味を示していない。
「……ねえレミィ、人間たちのお上が変わったところで、私のすることは変わらないわ。ちょっとの喘息と戦いながら、魔法の研鑽に努めるだけ。それに、ちょっと前にも、同じことがあったじゃない……」
楽しそうなレミリアに対して、気だるげなパチュリー。二人の感情はほぼ真逆の位置にあった。
今日、ソビエト連邦が崩壊する『確定した運命』にあるように、ここルーマニアも、二年前、大きな変動があった。一言で言い表せば、政権が変わった。その裏には、一言では言い表せない出来事がいくつも積み重なっている。
レミリアは昔、政治に関わってきただけあって、この運命を面白いものと思っているらしい。
「まあまあパチェ。その過去も、今日の運命も前座よ。より私たちに近い……運命が動くの。彼女の運命は転がりはじめたわ。もう、止まらない。変わらない。私は上で待つわ。……興味がないならそれでいいの。その代わり、気を付けなさい。大いなる車輪に轢き潰されないようにね」
「彼女……。フランドールかしら」
「そう! 今日こそが私の勝利の日よ! 上手くいけば、この陰気臭い森からも抜け出すことができるわ!」
意味深長な言葉を並べ立て、最後には一人で喜びながら図書館から姿を消した吸血鬼に、魔法使いは一切の心を乱されなかった。パチュリーはレミリアから聞いて、フランドール・スカーレットの概要を知っていた。そのフランドールとやらは魔法の一切を使えないと。ただ、暴発する能力に引きずられて狂気へと堕ちる、暴れ子熊のようなものだと。
パチュリーは正しく理解していた。ただの暴れ子熊が私を越えることは無い。自身の能力と肉体に頼るだけの無頼の輩に負けることはあり得ないと。その通り、全くもって正しい認識だ。
そして、彼女は地下に居る――。
そのフランドール。彼女は狂っている。彼女の部屋には一つ、大きな扉がある。フランにとって、その扉の向こうは、想像もつかない魔境だった。
こいしの乱入、そして大捕物。それこそが、獏によって消された夢。正確に言えば、ほぼすべて消された夢。その残滓は、フランドールを不安へと駆り立てた。
それまでは平和だった。フランドールの精神は、外の世界から目を背け、部屋の中を知り尽くすことにより、現実と夢世界の彼女の部屋の中で、フランドール・スカーレットを絶対的な王者として君臨させた。そこは、平和だった。
言わば、井戸の中の蛙、大海を知らず。……残念ながら、蛙は知ってしまった。外から、友好的で、善良で、啓蒙主義的な
彼女にとって安寧の地であるこのささやかな部屋は、あの扉が開けられるだけでその平和さを失う。正体不明の濁流が一度でも彼女の目の前に現れたら、奇跡的なバランスをもって小康状態にある、『フラン』はたちまちに揺り動かされて、彼女の精神は崩れ去り、もう、戻れない。そこに、それまでのフランドール・スカーレットは存在しない。やがては、廃墟から、新しいフランドールが誕生する。
フランドールの精神は、現存する精神の生存を望んだ。彼女が維持してきた蒙昧主義は、もはや何の役にも立たない。後ろにある扉がいつ開かれるか分からない恐怖に怯えながら、得られるはずの無い知識を渇望する、暗黒の時をフランドールは過ごしていた。得られない、はずだった。全て、善良な
フランドールの精神にとっての、一縷の望み。それは、夢世界からの知識。いくら夢の中で知識を貪っても、起きただけでそのほとんどは消えてしまう。しかし、心の奥に残された残滓をかき集め、なんとか形にする。あたかも自身が思い付いたかのように、自身に誤解させる。進展なし、という事実より来る焦燥から逃れるために。夢で学習をするなど、夢のような話だが、そんな夢を実現させる夢みたいな夢の主が夢世界には存在した。
徐々に、しかし着実に、フランドールの知識は、夢の残滓から来るヒントを利用して、拡大していった。
彼女の部屋は血と傷で汚れていた。フランドールは、一つ一つ、理解したと思われることを部屋に傷をつけて残していったからだ。
熱、光、些細な法則……そこには、魔法も含まれていた。光、熱、およそすべてのものは『力』を含んでいると『知った』時、自身を巡る力の根源を知った。
きっと、彼女は魔法の天才だったのだ。魔法に活路を見いだした彼女の精神と、魔法に適した彼女の体は、夢からの知識供給から離れ、1950年には、ひとりでに進化を始めた。
「すごい……すごいすごいすごい! 何これ? 知ってる! 知ってる!」
快哉を叫ぶ無垢な彼女が握っているのは、その長い暗黒期を過ごした結果そのものだった。
見た目は鈍い黒色をした、ただの棒。その棒は、魔法を用いたフランドールによって作られた。彼女は、この棒の作り方を一から十まで説明できる。フランドールは初めて、既知であり、新出でもある物質を自分で作り出したのだ。
1991年にそれは誕生した。破壊しか能が無かったフランドールを救済した一本の棒――レーヴァテイン。彼女の運命は決した。
部屋の外が魔境だというのも、未知が彼女を破壊するというのも、それもこれも、全て今日までの話――
私は、壊すだけじゃない。作れるんだ! 見たか! 私は、ただ濁流に飲まれて死ぬだけの存在じゃない!
「これを、見せなきゃ……」
フランドールの中に根付く、小さな小さな復讐心。かつて、フランドールをこき下ろした者がいた気がした。獏がご丁寧に消した夢の話なので、それが誰かは覚えていないが。そいつはフランドールを、臆病で、変化を恐れ、何もできずに死ぬ妖怪だと言っていた気がした。
私は進化した! イカれたケダモノから、文明を手にいれた! そうだ、何も分からないくらいで、誰が死ぬ? UNKNOWNも、そこにいきなり現れる訳じゃない! 要因が、原因があるんだ! この棒が、理論によって形成されたのと同じように! そうだ! UNKNOWNなんてものは無い! UNKNOWNなんか存在しない! UNKNOWNは全て論理的に説明が可能だ!
「私に……フランに……謝らせなきゃ!」
謝らせようにも、誰が言ったか分からない。振り上げた拳を叩きつける場所がないのだ。行き場の無い怒りがぐるぐると渦巻いて――
「お姉様ぁ!」
やがて、姉であるレミリアめがけて突進しはじめた。深い理由はない。敢えて言うならば、フランドールがよく知っていたのは、姉だけだった。他に思い付く者がいない。そう。たったそれだけ。そのたったそれだけのために、フランドールは、あれだけ閉ざしておきたかった扉を自分から破壊し、館を上昇しはじめた。彼女の部屋に残されたのは、脱け殻だけ。
証明の済んでいない帰納法によって、未知は化け物から、ただの越えるべきハードルにまで小さくなった。フランドールは、もはや、外を怖がらない。
坂道を転がる車輪のように、運命も転がり、止まらない。変わらない。それは、誰にも止められない。