フランドールはついに自分の部屋を飛び出した。この異変を最初に感知したのは、パチュリーの常時作動、年中無休の受動的な探知魔法だった。
探知と同時に、図書館の机の上にある水晶が、まるで水に血を垂らしたかのように赤く濁った。机の隣で本を読んでいたパチュリーが、その異変に気づかない訳がない。
「……こあ!」
普段とはうってかわって慌てた様子のパチュリーは、持っている本を机に置き、詠唱もなしで、本棚に防護魔法をかけた。一瞬だけ、本棚がぼうっとゆらめく青い光を見せたかと思えば、また元の図書館の様子に戻った。
「パチュ――」
「三秒後よ!」
三秒後とパチュリーが叫んだ真意を、パチュリーのお付きの悪魔――生憎彼女には名前がない。パチュリーからは小悪魔と呼ばれている――が計り損ねていることを放って、パチュリーは、本人しか聞こえない程度の声で、なにやら呟き始めた。
その三秒後、けたたましい音を立てて、紅魔館の地下へと繋がっている、鍵で固く閉ざされていた扉が破壊された。破壊した下手人は当然、フランドール。彼女は面をあげて、周囲の様子を探り始めた。
その瞬間である。図書館を、地下へと繋がる扉側と、紅魔館の上層へと繋がる扉側に隔てる水の壁が現れた。パチュリーが発動させた魔法によって発生した水の壁は、絶えず対流し、循環している。フランとパチュリーは、水の壁越しに相対している形となった。
パチュリーの詠唱魔法は、他の雑多な魔法使いが束になっても敵わないほど規模が大きい。……本人が喘息を起こさなければ。
パチュリーは油断など一切していない。吸血鬼の対処法として、現実的でかつ、優れているのは、水流か銀。
パチュリーはフランドールについて、レミリアからよく聞いていた。フランドールは魔法を使えず、能力として、『今のところ知る限り、形あるもの全てを破壊できる能力らしきもの』があると知っていた。
その能力を加味すれば、銀よりも水流の方が良いことは一目瞭然だった。しかも、レミリアによるとフランドールは狂っているらしい。話し合いができるのか、不安があった。もしかしたら、フランドールは彼女の言うことも聞かずに猪突猛進してくる可能性もあった。それならば、壁の展開を選択するのは、おかしくはないだろう。レミリアの前提が正しければ、ほぼ最適解。
「フランドールよ、一旦落ち着きなさい!」
パチュリーは、自分の声をスピーカーで拡大するように、魔法で自身の声を大きくして、フランドールに呼びかける。
不気味なまでに制止したフランドールを見て、パチュリーはひとまず安堵した。なぜなら、もしフランドールが、水流にさえ突っ込むバーサーカーのような性格ならば、二人で一旦話し合うこともできずに戦闘に入り、お互いに身の安全を確保できないだろうと思われたからだ。しかし、彼女は止まった。少なくとも、フランドールは何が吸血鬼にとって危険なのか、よく理解していることを示していたように思えた。それもそうだ。吸血鬼が身一つで水流に突っ込むことは自殺行為だから。
そこまで推察できたのならば、パチュリーはフランドールが右手に持つ棒についても考察するべきだった。
「…………邪魔」
「何、何!? 聞こえないの! 水が……」
予想外は起こるべくして起きる。残念ながら、レミリアの前提は200年前のものだった。それをもとに組み立てた子熊への防御術は、文明を得たフランドールには通用しない。
「邪魔!」
「ちょっと、邪魔って何!?」
狂気に囚われていないフランドールが、これまでに『発明した』魔法を、初めて他人に見せた時はこの時だった。
パチュリーは感じた。フランドールの内から、何かよく知った力が涌き出てくるのを。
パチュリーは見た。水越しに、ぼんやりとだが、フランドールの持つ棒から、チロチロと赤い火が漏れ出ていることを。
パチュリーは理解した。フランドールは魔法を使えると!
「嘘――」
自身の速度、力を一時的に強化したフランドールは、恐ろしい速さで、パチュリーに向けて飛び込もうとした。
幼い吸血鬼が一言ぼそっと呟くと、その手には、力の源泉とも言える魔力の塊が発生した。それはフランドールによって投げられて、目にも止まらぬ速さで水壁に衝突し、図書館中に大きな破裂音を響かせた。水壁に大穴をこじ開けたフランドールは、その穴めがけて光のように飛んだ。その間にも、水壁はその流動性と修復力によって元の形に戻ろうとする。
……少し遅かった。塞がれそうになった亀裂は、もう水壁まで一メートルと迫ったフランドールがレーヴァテインを一振りすることによって、また大穴へと崩壊した。
その僅か三秒後には、フランドールとパチュリーの間に、もう数メートルも無かった。僅か十数秒で、フランドールは図書館の端から端までを突き抜けたのだ。
パチュリーは完全に理解した。この勝負は負けだと。もはや、せめてもの敗戦処理として、自身に短時間でできる防御魔法をかけるしかなかった。
彼女ほどの魔法使いが、ひよっこ吸血鬼に叩きのめされることは、もう起こらないだろう。パチュリーの持つ前提条件が正しいものだったら、彼女にはもっと打つ手があった。幼き吸血鬼に手をさしのべようとすることなく、パチュリーが先手を打っていれば、よく練られ、卓越した魔法により、フランドールはたちまち無力化されていたかもしれない。
しかし、今は今だ。タラレバは起こり得ない。パチュリーを囲む防御魔法に、フランドールは勢いよく、燃え盛るレーヴァテインを振り下ろした。
可愛く言い表せば、ピシャリ。ガラスが割れたかのような音が、より鮮明に言い表せば、ズシャ。雷が地面に落ちたかのような音がして、防御魔法がパチュリー自身の代わりにへしゃげて割れ、光の破片を周囲に撒き散らした。そして、パチュリーは床に叩きつけられた。防御魔法はよく働いたと言って良い。パチュリーに外傷は無かった。
この戦闘で、フランドールは狂気に囚われることはなかった。本来の目的を忘れることなく、紅魔館上層へと向かう扉を破壊して、上に向かった。
残されたのは、仰向けで虚空を眺めるパチュリーと、おどおどした小悪魔だけ。
「パチュリー様!」
「……あえ? ……あ」
床に叩きつけられたことによる、一時的な脳震盪がパチュリーを襲った。それを見て、小悪魔が駆け寄ろうとする、その時だった。図書館の明かりが全て消え、図書館を飛び回る使い魔が完全に消失した。
パチュリーが自身に埋め込んだ魔法が発動したからだ。その発動条件は自身の危機。効果としては、残された魔力ほとんどを使い、強固な防御魔法と治癒魔法を意識外で発生させるものだ。
「……私を、まだ信用してはいただけないのですね」
この魔法が発動しているとき、他者がパチュリーを取り囲むように丸く作られた障壁の中に入ることはできない。例え、小悪魔でさえ。その指一本ですら、パチュリーに触れることは叶わないのだ。
「パチュリー様に目立った外傷は無いから、もうじきお目覚めになるとは思いますが……。吸血鬼、ですか。恐ろしいですね。同じ悪魔とは思えない」
悪魔は約束を守る。むやみに他者を攻撃しない。だから小悪魔も、契約した主人を、契約の範囲内で裏切ろうとはしない。
「……いかに乱暴者とはいえ、お嬢様には勝りますまい」
フランドールの気は、果たして晴れるのか。すでに彼女は、館の中層にいる。
「人を叩くの、駄目だったかな……」
フランドールはここにきて、少々反省していた。フランドールは、紫の服を着た魔法を使う人がレミリアに会いに行くことを邪魔してきた者だったとはいえ、その人を叩いて良いことにはならないと思い始めてきたからだ。
フランドールが他人を傷つけると、それを見た他の人が悲しむことを、彼女はよく知っていた。
フランドールがしばらく飛んだら、変わり映えのしない廊下に、一つのイベントが待っていた。よく知らない赤髪の女性が、廊下で立ちふさがっている様子だ。おまけに、なにやら変な動きをしている。
フランドールは再び止まらざるを得なかった。その赤髪が、あまりにも緩やかでおかしな動きをしていたから。
「うん、通り抜けたら……いっか」
UNKNOWNは存在しない。だから、あれも理解できるとフランドールは考えた。……理解するには多くの時間を必要としそうだが。今は、何も見なかったことにするのが手っ取り早い。あんなのに話しかけられたら大変だ。フランドールは、さっさと通り過ぎることにした。
フランドールをまっすぐに見つめ、力が入っているのか入っていないのかわからない姿勢で制止している赤髪――紅美鈴は、レミリアに言われてここでフランドールを待ち構えていた。
レミリアによると、フランドールは攻撃的なので、攻撃を受け流す準備をしておいた方が良いとのことだった。だから、美鈴は、よくよく気を練って、いかなる攻撃にも対応できるようにしていた。
……前提が違う。今のフランドールは攻撃的ではない。狂気によって地下を飛び出した訳ではないのだ。その誤解は運命をさらに変えていく。
交戦するつもりの美鈴が、かかってこい、と言わんばかりに、フランドールを手招きする。フランドールの『気』がとぐろを巻いて、彼女自身の強化が行われていく。それを感じ取った美鈴は、今から心震える素晴らしい手合わせができると信じていた。
期待は裏切られた。美鈴は、美鈴めがけて飛び込んできた(ようにみえる)フランドールの勢いをいなし、フランドールの初撃をかわした(つもりだ)。……二撃目は飛んでこなかった。それもそうだ。フランドールは、もうそこにはいない。
「なんでぇ……?」
美鈴の呟きが、一つ寂しく館の中を流れていった。
「危なかった……。なんで変な人が館の中にいるの?」
フランドールが地下に引きこもる前、そもそも美鈴は紅魔館に居なかった可能性だってある。少なくとも、フランドールの脳内に、美鈴は存在していなかった。
今のフランドールは新しいものと触れあっても良い、とは思っていたのだが、いくらなんでも、変な動きをした人に近付きたくは無かった。彼女は美鈴に一撃すらも加えずに、ただ隣を高速ですり抜けようして、その目論見通り飛び抜けただけ。すべては美鈴の一人相撲で、二人の初対面は終わった。
ついにフランドールは紅魔館の中央部、その上階にまで飛んできた。主の間がそこにあることくらい、フランドールは知っていた。そして、そこには姉がいることは容易に想像がつくことだ。
偉そうに待ち構えるレミリアは、フランドールが魔法を使えることを知らない。