ついにフランドールは中世の王の間まで飛んできた。あまりにも分厚く、重苦しい扉がそこにはあった。フランドールは、その金細工がほどこされ、汚れなど一度も浴びたことがないような『穢れた』扉を開いた。レミリアが百年ほど前、同じようにしたみたいに。
そこには一つの生命体がいた。12月25日になって僅か数時間しか経っていないルーマニアにおいて、かつて絶大な力を誇った一族。その『正統な後継者』であるレミリア・スカーレットだ。彼女が父を弑して得たその座は、レミリア限りで途絶える可能性が高い。彼女に釣り合う男の吸血鬼は、およそこの世には存在しないと思われるからだ。
よく手入れされて、埃の一つもない『血塗られた』椅子の上で、優雅に浮遊する吸血鬼は、美鈴から淹れてもらった紅茶を飲みながら、静かにフランドールを一瞥する。
「お帰り」
フランドールの前に、あまりにも大きな壁が聳え立っていた。実際に聳え立っていた訳ではない。ただ、レミリアの持つ美しさや、その簒奪に正統性を持たせる力――言わば『カリスマ』、それらが屹立してフランドールを押し潰そうとしてきたのだ。荘厳な建造物を眼前にしたかのように、フランドールは動けなくなる。
「お姉さま……」
「フランなら、ここまで来てくれると信じていたわ」
信じる。レミリアは、フランドール自身でさえ信じてこなかったフランドールを、信じていると言ってのけた。フランドールの目が、驚きから大きく見開かれる。
「それで、何故私のもとへ来たのかしら」
フランドールが地下を飛び出した理由は何だったのか。それは、自分を谷に突き落とした『誰か』への怒りだった。己を化け物と揶揄する『誰か』への怒りだった。そして、己を未だに愚かな化け物扱いする奴に対するプライド――自分は文明人だという自負。さらに言えば、心の奥底は、己を正当に評価してほしいという承認欲求にまみれていた。
レミリアが頭ごなしに、彼女を怪物とみなして否定してくると思っていたフランドールは、早速肩透かしをくらい、怒りに任せることができなかった。
「……お姉さまに見てもらいたいものがあるの」
そう言ってフランドールは、おずおずと彼女のレーヴァテインを、レミリアに向けて突きだそうとした。
「あら、それは何? もっとよく見せてよ」
フランドールは部屋の入り口に立っていた。その一方で、レミリアは部屋の真ん中に浮いていた。二人の距離は、物を見せるにはあまりにも遠すぎる。レミリアが見せる微笑みは、天使の見せるそれのように、フランドールを無意識に一歩前へと進ませる。
レミリアはこのように、寛容さを示しているかのように見えた。ただレミリアの頭の片隅には、フランドールは私から当主の座を奪いに来るのではないか、という思考があった。というのも、レミリアは、フランドールに何かが起こり、それが彼女に何かいい影響を及ぼす運命を探り当てたが、それがどのような形で訪れるのかまでは知らなかったからだ。
「これ……あのね、私が作ったの」
「まあ、流石ね。……それで何をするの?」
レミリアはそれでも良かった。所詮この座は親から奪い取ったもの。あの時、父親はもはやその力を存分に振るうことはできなくなっていた。ならば、自然の摂理に従うべきだ。彼女が父親を殺したとき、彼は笑っていた。なぜならその摂理は彼がレミリアに教え込んだものだったから。
レミリアはその摂理を信奉していた訳では無かったが、五百年弱の人生の中で、一定の正しさをそこに見出していた。フランドールがレミリアより強いなら、フランドールにその座を譲ればよいとまで考えていた。とはいえ、レミリアだって死にたくはない。もしフランドールがそのつもりならば、何とか禅譲する形で、その座を譲りたかった。
……私を超えられるのならば、世界の覇者となれるのではないか。
レミリアには、この世界の支配は叶わなかった。挫折を経験したのだ。だからレミリアは、フランドールが見せた力の片鱗に惚れ込んだ。
地下にこもっていた魔王のプロスペクトがもし、人ならざる者を否定しようと蠢く世界に抗おうとするならば、その結果を見届けたかった。そしてもし、彼女が一人の少女だったのなら、姉として妹を愛そう。そう決めて、彼女はここに立っていた。
一方フランドールは、この一分にも満たない会話で、すっかりレミリアに絆されたといっても間違いではなかった。よく知らないが、顔は覚えている程度の家族から、共に歩むべき家族にまで心証が変化していた。
何だ、この吸血鬼は信用できるではないか! と。彼女は吸血鬼である前に、いっぱしの少女だった。
「フラン、魔法を使えるようになったのよ?」
「……え。……嘘、そうなの?」
フランドールは、大人の人付き合いを学んでいなかった。そのため、子供として、至極当然のことをレミリアに要求した。幼児のとるコミュニケーションをなぞるように、四百歳を越した少女が笑いかける。
「だからお姉さま、遊んで?」
フランドールがレミリアに問いかけたときには、既に遊びは始まっていた。レミリアの返答など一切斟酌しないで、無邪気な子供特有の暴力が、レミリアに向けて放たれた。フランドールは、まともな遊び方すらも知らなかった。二十年後の幻想郷でメジャーとなる遊戯、「弾幕ごっこ」に酷似した暴力を、遊びと称して最愛の姉に浴びせかけた。
ばらばらと、七色の弾幕がレミリアの周りを通り抜けていく。常人なら弾け飛ぶような威力の弾も、この二人にとっては、かなり痛い弾に過ぎない。
「フラ……」
紅茶を一滴も零すことなく先ほどの弾幕をさばききったレミリアの目には、無垢な喜びをたたえたフランドールが映っていた。どうやら彼女に、レミリアを害する意図は無かったようだ。その表情を見たレミリアは、なんだか笑いがこみ上げてきた。高級そうなティーカップを自分から捨てて、レミリアは両手を大きく広げる。まるで人類は十進法を採用したかのように。
「うふふ、あは、いいわよフラン! あなたが動けなくなるまで遊ぶわよ。疲れはてて眠るまでね!」
「違うわお姉さま! いつまでも遊ぶの!」
恐ろしいスピードで部屋の外に飛び出し、危険な鬼ごっこを始めた二人。追われるレミリアが右に左にと軽やかに揺れながら飛行すれば、その翼をかすりながら、真っ赤で丸い形をした弾幕のシャワーがそこを通過していく。やられっぱなしではいられないと、レミリアが曲がり角で数発の弾を放てば、それをフランドールがレーヴァテインでかき消していく。
追うフランドールは、まるでレミリアに操られる操り人形のように、正確にレミリアの後ろをついて飛行していた。フランドールは、自身がレミリアを追っているのか、レミリアに引っ張られているのか、すっかり分からなくなっていた。
「お、お嬢様!?」
これだけ飛べば、他の住人と出会うこともある。先程美鈴が立っていた廊下で、用は済んだと言わんばかりにずっと居眠りしていた美鈴も、この騒動で目が覚めた。目が覚めてみれば、なんとお嬢様が攻撃的な吸血鬼(レミリア談)に追われているではないか!
「駄目ですよお嬢様に手を出しちゃあ!」
美鈴は、フランドールに向けて叫んだ。レミリアにさえその声が届くかも怪しい中、彼女に届くはずもない。
「――美鈴!」
遠くからレミリアが叫ぶ。どうにか聞き取れる音量から、一気に大きく聞こえるようになる。鬼のような速さでレミリアが美鈴に近づいてきているからだ。
「何ですかお嬢様!」
「邪魔ー!」
慌ててレミリアの援護をしようとした美鈴の頭を、もうそこまで到達していたレミリアが叩いた。けらけらと笑っていたように見えたレミリアが、瞬く間に後方に消えていく。美鈴は一層混乱した。
「お嬢さま!? どうして」
「じゃ、じゃまー!」
「うわぁっ!」
そこに、二撃目が飛んできた。飛んできたのは当然、フランドール。美鈴は突き飛ばされて、情けない声をあげて倒れ、目を回した。現状を一切理解できないまま。なんとか美鈴が立ち上がった時には、フランドールも後方へと消えていた。
「なんでぇ……?」
美鈴の混乱ももっともだ。味方であるレミリアに叩かれたあげく、彼女は攻撃的だとか述べていた妹と仲良くしていたのだから。
美鈴を遠く離して、二人は館の中庭にまで飛んできた。レーヴァテインが一振りされるごとに、チリチリと服を焦がしてしまいそうな炎が上空へ打ち上げられる。燃え盛る火の粉を打ち払って、レミリアは城壁のはざまを潜り抜けていく。その間にも、まばゆい光が二人の間を行き交っていたが、どれもが二人に当たらなかった。上空にサンタクロースが飛んでいるわけでもない深夜の森の中、動くものは吸血鬼二人以外に存在していない。レミリアの後ろには、ローマ数字が刻まれた時計台が見える。その時レミリアはふと何かに気が付いたらしく、彼女は後ろを振り返った。
「はあっ……。お、お姉さま……。も、もっと」
先ほどまでと違い、明らかにフランドールの速さが落ちてきていた。しかも、ついにはそこではたりと止まってしまった。彼女は両膝に両手を置き、マラソンを走り終えたランナーのようになっていた。本人はもっと遊びたいのだが、その疲労を隠す余裕すら損なわれていたのだ。彼女は魔法が使えるようになったとはいえ、初心者な上に、その習得方法は独学であり、魔力の操作がおぼつかなかった。一発打つたびに消費する魔力量がレミリアとは桁違いに多かった。おまけに言えば、放った弾数もフランドールのほうが何倍も多かった。
「フラン」
「やだ!」
レミリアの呼びかけに、フランは反射的に答えた。次の一言は遊びの終わりを告げるものだと分かっていたから。
「遊び足りない?」
レミリアの問いかけに、彼女は肯定の意を体全体で示す。全力をかけて、彼女は再び大量の弾幕をレミリアに向けて放った。レミリアの視界がまばゆい青色の光で埋め尽くされたが、そのどれもが彼女に達することは無かった。レミリアが優雅に空中で二回転するだけで、そのすべては避けられてしまった。二人の実力の差というものが、まざまざと視覚化されて現れていた。思えば、二人の距離は大きく縮まることも、遠く離れることも無かった。フランドールは姉に、よく言えば優しく、悪く言えば手加減されていたのかと気づいた。
「あ……」
「今日お休みしても、また遊べるのよ?」
「うん……」
遊びに勝ち負けを求めるその姿勢は吸血鬼の本能か、あるいは彼女の歩んできた道のりに由来するものか。それは二人にも分からなかったが、フランドールはこのまま続けても勝ち目がないことに気づいてしまった。
レミリアは、いきなり意気消沈したフランドールにそっと近づいた。
「私に勝ちたい?」
「……」
フランドールの、そのぐっと唇をかみ、俯くその姿勢が答えだった。レミリアはフランドールを優しく抱いて、その髪を手櫛でといている。
「あなたにあげたいものがあるの」
「……何?」
「東にて隠された……美鈴が言うには桃源郷。そこをあなたにあげるの」
「どうして?」
「あなたが大切だから。ずっと生きていてほしいから」
答えになっていない答えが、深くフランドールの胸を打った。レミリアはもう彼女の宝物だ。だから、深く抱き返した。どこか悲しげなレミリアの表情すらも見ないで。
この時、レミリアは現し世を見捨てた。フランドールに降りかかるかもしれない不運も、大成するかもしれない幸運も等しく蓋をして。
――幻想郷にて百十季ごろに起こった異変を、吸血鬼異変という。幻想郷の強さと、幻想郷の弱さ、そのどちらもが一度に露呈した異変だった。誰が仕組んだのかは分からない。停滞した現状を憂いていた幻想郷の主か、隙をみて飛び込んできた吸血鬼か、あるいは世界が生まれたときから予定されていたのか。ただし、その渦中にいた妖怪は皆、必然だった、と語っているらしい。