この橋渡る者無きこと長し   作:塵紙驀地

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宇治の橋姫

 

「へえ~。ここが元地獄ですか? 綺麗なところだなぁ~」

「小町はここに来たことがあるでしょうに」

 

 映姫はやけに綺麗な橋を見てさらに気を落としていた。その声色は、間を持たせるための世間話にすら現れていた。映姫がひたひたと歩いているせいか、軋む橋の音は、水音に、そして静かな足音にさえもかき消されるほどの小さなものだった。

 

 やがて橋を越えて二人は街道を歩いていく。靴底で砂利が擦れ、ちろちろと鈴が鳴る。地底の住民は窓や障子から二人を眺めやり、正体を知るや慌てて物陰や奥間に隠れてしまう。ときおり何も知らぬ餓鬼が後をついてくるも、年を食った爺婆に引きずられて家に引き込まれる。恐れを知らぬ文屋が取材をしようと前に躍り出れば、蒼白とした彼の同僚が飛びついて横道へと消えてゆく。そして誰も居なくなる。

 

 生きるもの、その誰にも邪魔されることはなかった。

 

「初めまして、そしてお久しぶりです。貴方が橋姫ですね」

 

「閻魔様よね……あがって」

 

 家の持ち主は戸を開き、ふっと瞳孔が縮んだかのように見えた。そして僅かな間の後に、小さな声でそう伝えた。二人も、家主の後から家へと入っていく。

 パルスィにとって、閻魔と顔を合わせなければならないのはこれで二回目だった。前回は別の閻魔だったとはいえ、閻魔がそういう顔をしていた。一度その顔を知れば、今回の用事もすぐに分かるというものだ。

 

「そういうことよね」

「それが何を指すかは知りません。ですが、返していただく日が来ました」

 

 襖が勢いよく開かれ、居間が露わになる。食べかけのせんべいと、ぬるくなったお茶。大きな古時計がこつこつと音を鳴らす部屋。勇儀から貰った棚に、紫から貰ったほうきが立てかけられ、古明地家から貰った小道具やドレミーから貰ったお古の本が、町民から貰った本棚にびっしり詰まっている。パルスィはくるりと振りかえって、来訪者に問う。

 

「なぜ今日なの?」

「千年経ったからですよ」

 疑問を解決できなかったのか、美しい緑眼がきろりと左にそれ、少しの間を置いてまばたきを一つした。この世の無常さをよく知っているつもりの彼女は、逡巡することの無意味さを覚えて二人に話し出す。

「そう……あと少し待ってほしいのだけれど……いいかしら。それとも、今終わり?」

「千年に一時間足しても千年ですよ」

「いつまでも?」

「証明が済んでいませんから」

 

 おおらかな閻魔なのだ。相手方に話を聞く気があると分かっていれば、今すぐ執行する必要もない。

 

「……勇儀との約束があるのだけれど」

「千年の間、その者と幾度となく話したのではありませんか?」

「ならもういいわ」

 長い間共に過ごした友と会えないのは、惜しい。それでも、パルスィは会えなくても良いと思っていた。そもそも、ここまで生きながらえたことでさえ望外というものだと彼女は考えていた。その上で、まだ時間が欲しいとパルスィはジェスチャーをする。

 

「友と会うでもなし、何をするために時間が欲しいのです?」

「ええ、貴方が」

 そう行ってパルスィは指をさす。閻魔ではなく、死神の方へ。死神はきょとんとするのみだ。

「貴方が置いていった忘れ物を探すためよ。六文銭をね」

 

 閻魔が死神を肘で小突いた。死神の慈悲は心臓に悪い。心が弱い者の中には、己の死期を悟っただけで絶望する者がいるのだから、六文銭なんぞ渡すのは悪趣味にもほどがあるのだ。

 

 六文銭は6個目の棚の上から4番目、左から8番目の小物入れの中に見つかった。パルスィはそれを死神に向かって適当に投げつけ、死神もまたパルスィに適当に投げ返した。六文銭を突き返された者は、嫌な顔をしながら懐に納める。

 

「よし! 忙しいのでしょう? さっさとしなさいよ」

 誠に遺憾だが後悔なんぞない。次の句はおそらくそれだっただろう。困るのは二人である。

 

「いや待ちなよ。せっかく四季様が直で話を聞いてくれるというんだから、申し開きをしてみたらどうだい」

「何を言っているの? その子が閻魔様なのでしょう? 全てを見通す鏡を見れば良いじゃない。今さら嫉妬の妖怪が何を語るというのかしら」

「その子って……。四季様は閻魔様だよ?」

「何を言っているのやら、私は千年生きた妖怪なのよ。閻魔様御一行は見方を変えるのならば私を殺しに来たわけでしょう? 仮にその閻魔様に一言不躾を働かなかったとして、地獄行きが天国行きになるのかしら?」

 生者への嫉妬や、無駄に長生きしたことでついた覚悟と本人の面倒な気質のせいで、パルスィは頑固な老婆と化していた。

 未だ若い閻魔は、百年物の老人を相手取ることはあったが、さすがに千年物の老人は初めてなのか、当人から目をそらし、浄玻璃の鏡をちょっと眺め、少し困った様子を隠しきれない程度の微笑とともに話しだした。

「貴方がここで慕われているのは知っています。そして、それまでに何を成したのかも。確かに私は今この瞬間にも貴方を裁くことができる。しかし……貴方の歴史は長すぎるのですよ」

 パルスィは、閻魔が浄玻璃の鏡の背を表にして机に置いた意味を図り取れない女ではない。人の心に機微がなければ、嫉妬などできなかったのだ。

「お茶を用意するから待ってなさい」

 

 

 

 

 

 この新しい閻魔様は伊達や酔狂で私の話を聞きたいらしい。この時間があれば、私は勇儀とだって会えただろうに。それに、私の物語はそこまで面白いものとは思えない。それでも、前任の……いくつ前の閻魔様なのかしらね、あれは。……そう、閻魔様のミスのせいで生まれた歪みは、前任の醜聞と言える。後任がそれを聞く価値はあるでしょうね。

「千年よりさらに昔の話でございます。私はペルシアの、地方豪族の娘でございました」

 

 さあて、どこから話したものやら。あまり私にとって楽しい話ではないのよね。

「ペルシア? 京じゃなくて? あとその芝居似合わないから辞めた方が良いよ」

 死神は座布団の上で膝を立て、偉そうにくつろいでいる。閻魔様とは大違いだ。

「うるさいわね。詳しい話は後でそこの閻魔様に聞いてみれば? 私よりよっぽど詳しいと思うわ」

「婆かいな」

 そうそう、こちとら物忘れが激しいお年寄りよ、色眼鏡くらいかけないと何も見えないし覚えていないに決まっている。若さが妬ましいわ。

「イスラームの台頭によって衰退しつつあるこの国で、豪族はかつての慣習に縋っておりました。私には婚約者がおり、将来を嘱望された豪族の男でした。二人は仲睦まじく暮らしましたとさ……まさかね」

 

 そうならばどれほど良かっただろうか。そう思って止まないけれど、不愉快な歴史は変えられないものよ。

「ある日のこと、いえ、あの日のこと。婚約者の父が戦から帰って来なかった日のことよ。あれから全てが狂ったのかしらね」

 生き残りから話を聞いた婚約者から聞くに、殿を務めた「義父」は、わざと落馬することによって捕虜となる正当な降伏方法で敵に降ったにもかかわらず、無惨にも処刑されたとか。文化の違いは恐ろしいわね。アラブ人にとって、降伏方法に意味はなかったのよ。

 

「私の婚約者はたいそうな衝撃を受け、私を頼ってくれたら良かったのに、道を踏み外して宴に溺れたわ。そして、『義父』が亡くなった今、婚約者が当主となるのは明白だった。彼の最大の誤りは、彼が当主になる前日に起こしたものよ。宴の中、婚約者は奴隷階級の一人の踊り子に惚れ、夜を通して語らったとか。ああ、イライラする。……朝に近侍が二人を起こしに行ったとき、そこはもぬけの殻だったのよ」

 

 確かに私はその宴の隅にいた。私が美女であったことは語るまでもなく事実だった。そしてあの女が私よりも美少女であったことも事実だと言えた。巷ではかの踊り子はダエーナーの生まれ変わりだとか言われていたらしいのだけれど、ダエーナーとは、ゾロアスター教で死後魂を導く清らかな処女なのだから、あの女とは真逆よね? 私は嫉妬のあまり、顔を赤くし、体調を理由に宴から抜け出して別荘へと帰った。気がついたのは翌朝だった。それにしても、死神は痴話なんぞ慣れているのだろうし平気な顔をしているのは当然か。閻魔様も顔色一つ変えないし。

 

「二人ともつまらなさそうね?」

「なに、これから面白くなるんだろう?」

「どうだか」

 

「婚約を破棄された私の一族は怒り狂い、婚約者の一族を一族郎党みな鏖殺せしめたわ。唯一駆け落ちしたあいつを除いて」

 相手の一族は当主が死に、嫡男が駆け落ちしていたのだから、指揮官のいない相手に勝ち目は無かった。そう、婚約者に駆け落ちされたとあれば、家の名をかけて相手を滅ぼすのも当然のこと。そんな考え方をしているからこいしにお貴族様だなんだと論われる羽目になった、と言われたらその通りかしら。

 

「そして私は別荘に軟禁された。一応私も一族の恥なわけだし」

 そのうち憤死するかとでも思われていたのでしょう。確かに私は発狂寸前だったし、間違いではなかったのかもしれない。

「私の嫉妬と怒りは収まるはずもなかった。礼節を持って軟禁されていた私は、ある日、自室に鍵がかかってないことに気がついた。そして別荘を抜け出して……、追っ手は来なかった」

 私はある意味死ぬ気だった。捕まって連れ戻されるくらいなら追っ手の首をかき切ってでも復讐を果たすつもりだったから。身内に甘かろうが、これ以上一族の名に泥を塗るのならどうなるかは知れたもの。しかし追っ手は来なかったのだから、私はそれが父の慈悲だと思っていた。……そうではなかったのよ。もう一族には、追っ手を差し向けるだけの余裕など無かっただけだったのよ。当時のササン朝ペルシアは落ち目の国とはいえ、いいえ、だからこそ、豪族同士の私戦を許すほど甘い国ではない。仮に全盛期であれば、豪族同士の戦いは豪族の勢力を削ぐため、ある程度は許容できた。衰退しつつあるこの国だからこそ、自国の力を削ぐことになる私戦に精を出す者には、自国の力を削ぐことになる内戦を持って制裁し、二度と同様の事件を他の者が起こさないよう、徹底的に始末をつけなければならなかった。

 ササン朝ペルシアの国軍が、豪族の支配地に攻め入り、私の一家を皆殺しにした。私の一族が婚約者の一族にしたように。たまたま別荘にいた私は、そうならなかった。

 

「私はもう国にいられなかった。駆け落ちした彼奴もそうでしょう。二人が東に逃げ落ちると踏んだ私は、インドへと向かった。当時のインドは小国が乱立していたのだから、逃げおおせると奴らは誤解するでしょうとね。もちろんそのようなことは私が許さない。だからインドへ向かったのに、二人の面影はどこにも無かった。私は読み違えたのよ」

 インドには、ササン朝ペルシアの衰退に伴って同胞のコロニーができていた。もはや無き豪族家の最後の財貨を用いて諜報網を張り、二人の動向をつぶさに探った。それでもなかった。私が『ある仮説』にたどり着いたとき、『ある仮説』のルートでの逃避行を阻止する財力が私にはもう無かった。

「絶望した私は嫉妬に狂い、今度こそ死んだのよ。そこで。ゾロアスター教も、仏教も、ヒンドゥー教も、ついぞ信じ切れずにね」

 神なんぞ信じられるか。仮に神が居るとすれば、私の目の前に二人を引きずり出し、その上で私にナイフをプレゼントするべきではないのか? などと思っていれば当然こうなるでしょうね。仮にゾロアスター教を信じてきれていたら、閻魔様なんぞに世話になることもなかった。これもおそらくそうでしょう。

「……そこで死んだのか? 輪廻すれば前世の記憶は抜け落ちるんだよ?」

 死神が口を挟む。その通りね。

 

「同情してくれるなら話を聞きなさい。閻魔様はひとしきり私の罪を述べた後、しかるべき罰を持って私を罰し……二人とも顔が怖いわよ?」

「いえ、続けてください」

 閻魔様も死神も、この話が非常に不味いことに気がついていたみたいね。この後私がなにを話すかで、薮蛇か決まるのだもの。藪から蛇が出てくるのは決まっているわけだけれども。

 

「さて、話を続けようかしら。千年と幾らか昔のことでございましょうか。私は公卿の娘に二度目の生を受けました。前世の記憶付きで……。この後は、浄玻璃の鏡の通りだと思うのだけれど?」

「だからですよ」

「橋姫伝説に書き記された通りなのよ?」

「……ええ。道理で訳の分からぬ私情が紛れ込んでいたのですね」

 私情? ああ、私情。誰の私情かは知らないけれど、私の私情もそこにあるわ。三百年にも渡ろうかという私情にね。私は前世で彼らがインドにいると読んだ。そしてそれは外れた。二人はおそらくシルクロードを通り、唐への逃避行の末に、西方文化を知るものとして奈良時代の日本にたどり着いたのだろう。当時の政権はこれに厚く報いた。以降、彼の一族は奈良、平安とその血族を紡いできたらしい。心底不快な話だ!

 

「公卿の娘として、前世と同じように良家の男と契りを交わしたわ。当時の風習も困ったもので、女は男が来るのをじっと待つしかなかった。近頃男が現れないことに嫌な予感がした私は、文を送ったりしたけれども、ついに我慢ならず秘かに侍女らに男の動向を探らせた。そこで聞いたことは私を人道を踏み外させるに十分だった。男は別の女に惚れ込んでいたのよ。それは当時の習わしとしてよくある話だった。そこまでなら良いわ、死ぬまで嫉妬して終わりだったでしょうね。……惚れた女が問題だった。浮気でさえ嫉妬してあまりあると言うのに、その女は、その女は……」

 ちゃぶ台がかたかたと音を立て、茶柱が揺れる。親指の爪が人差し指に食い込もうが、何の意味も成さない。

「婚約者と私から婚約者を奪ったあの卑しい女の末裔だったのよ! これが殺さずにいられるか! 豪族と公卿の名誉にかけて私はかの一族を滅ぼさねばならなかったのよ。……ええ、閻魔様、私の嫉妬心のためにも」

 私にとって、思い出したくもない過去だけれど、話し始めたら止まらないものね。

「三百年物の復讐劇か、さぞよく酔えただろう。公卿からすれば、身内に妖怪が出る方が恥だと思うけど?」

「そうね。それは私が見栄を張っただけ。だから浄玻璃の鏡で閻魔様が見たものを聞けば良いのに。本心を言えば、豪族と公卿の名を頂いた私の名誉が大事だったのよ。豪族と公卿一族の名誉など私の知るところではないわ」

 

「まあ後は、錯乱して入水自殺しようとしたり、それが叶わぬと知って妖怪になったり、武士に止められたり」

 死にきれなかった私は、貴船神社で復讐を願い、聞き届けられた。宇治川で二十一日間祈り、鬼神へと成り代わった。あの一族を皆殺しにし、余る力で私の目につくもの全てに嫉妬して消していった。ある日私は武士を襲ったけれど、その者は私の腕を落とした。驚いた私はそれ以降人前に姿を現さなかった。

 

「綺麗な黒髪もこんな金色の髪になっちゃって」

「金髪になった訳って?」

「殺すわよ」

「あー……」

 この金髪は先祖返りよ、なんざ言えたらどれほど良かったことか。

「つまり、それは不幸なペルシア人の恋敵の髪色ってわ――失礼しましたー」

 私が渾身の力を込めて睨みつけると、死神は黙り込んだ。人の心に土足で踏み入る奴には必ず報復があるものよ。不快なことながら私は、あの女の髪色を羨ましく思っていたのだろう。人生の分岐点であり、憎むべきあの髪色。何色だったか……そのようなことは言う必要も無い。黒ではなかった気がするだけだ。

 

「その後は封印を恐れて強者に嫉妬しながら大穴に逃げ込み、そこが地獄で驚天動地! などと思えばいつの間にか地獄ですらなくなったり、鬼と出会ったり、さとり妖怪と出会ったり、幻想郷とやらができたり……。で、話すことはないのだれど」

 閻魔は、沈痛な面持ちで話し始める。

「まずは……こちらの不手際を謝りましょう」

「千年前に言ってほしかったわ」

 その謝罪を受け入れる意味などない。過去は取り戻せないし、それに、恨んではいない。あの女の末裔を殺す機会を与えてくれたのはあの閻魔様だから。そして、この閻魔様はその程度で慈悲などくれないでしょう。

 ねえ公明正大な当代閻魔様、貴方の前任は果たして不手際でこのようなことをしでかしたと本当に言えるのかしら?

 ちょっとおちょくってやろうかしら。

 

「ところで閻魔様。物の怪は何を食べて強くなる?」

「それは――」

「人よ。心でも、体でも。私は心が好みではあるけれど……」

「それ以上話さないでください」

 閻魔様とはいえ、自分から地獄へ行こうとするのは止めるか。それもそうか。大人しく引き下がろう。

「ままならないものよね。たった一つのボタンを掛け違っただけでこうにもなるのだから」

 閻魔様は困り顔を崩さなかった。そして、次の一言も予期できたものだった。

 

「黒です」

「……訳をお伺いしてもいいかしら?」

 

 小柄な閻魔様から放たれたとは思えぬ、重い一言。予想できていても、動揺はするものよ。

 

「自殺を図り、人間道を外れて修羅道に堕ちた。あまつさえ貴方は私怨から人を殺した。貴方が思う正当な復讐は、当時の理不尽でした。明確な法が無い時代でも、秤を持つ閻魔はいるのです」

 それを聞いて、私は少しの落胆と、心の底からの達成感を感じてしまった。死が近づき、心が乱れていることは否定できない。それでも、私は成し遂げたのだ。復讐を果たし、嫉妬の炎を以て生者の住まう場所からあの一族を放逐せしめた。それを閻魔が認め、私の罪(復讐の成就)は文書に残される。それでいいのよ。

 

「もう良いわ。満足した」

 私は目を瞑り、すっと立って、やられる気構えをした。

 

 

 

 ……刃は飛んでこなかった。

 

 

 

 薄目を開けば、動く気すらないように見える閻魔と死神がまだそこに座っていた。

 

「……まだ何か?」

「ええ」

 なんと閻魔様は、まだ何か話すことがあるらしい。今さら座るのも馬鹿馬鹿しいことでもあるし、私は閻魔様を見下ろす形で話を聞くことにした。

 

「今貴方に刃を立てる訳にはいかないのです。まずは、これを」

 閻魔様は、染みがつき、古ぼけた紙人形を私に差し出した。墨で何やら文字が綴られていた。私には分かる。安倍晴明の字だ。なるほど妖怪の処刑事情は改善されているらしい。妖怪が握れば死ぬのだろう。

 

 私は迷わずそれを右手に取った。

「……何も起こら――」

 

 ――ごとり。何かが落ちる音がした。私は何が起こったか分からなかった。

 刹那、全身から力が抜け、首がガクンと下がる。ボタボタッと鼻から畳に血がこぼれ落ちる。ようやく先ほど何が落ちたかを理解した。腕だ。私の右腕だ。

 

 とんだ代物じゃないの! それもそうだ! 安倍晴明の性格が良ければとうの昔に妖怪に騙されて死んでいる!

 

 そう思った時には、体の重さを支えきることすらできなくなっていた。気がつけば両膝が一気に畳に打ち付けられ、私はそのままちゃぶ台に突っ込んでいた。茶器とちゃぶ台がけたたましい音を立て、お茶は零れ落ち、血と混ざり合って畳に染みこんでいく。

 

 閻魔が何か言ったのを、遠くなる耳で聞いた気がした。

「貴方は何か勘違いしている。是非曲直庁が必要としている魂は、『水橋パルスィ』ではありません」

 

 私から落ちたはずの腕は、真っ黒に染まったかと思えば血の気すらない白に変わり、崩れ落ちる私に代わって入道のように大きくなった。変わり果てたその姿は、血で塗られた白装束、ぼさついた黒髪には金輪がかかり、松明が……いや、あれは。

 

「我々が欲するのは――」

 

 ぼやけていく目で私が見たのは、鬼神の首が落ちるところと……、

 

「『宇治の橋姫』ですよ」

 

 勇儀とヤマメが部屋に乗り込んでくるところと、

 

「私の友に手を出すなぁ!」

 

 床に広がる目玉に私を引きずり込もうとする腕の群れだった。

 

 

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