目を開けば、沈黙を保ち続ける大石の上に、私は立っていた。なぜ、私は立っていたのだろうか。どうにもわからなくて、首を傾げる。次いで、誰か居ないか、その五感を使って調べてみた。
誰もいない。ただ、ざあざあと音をたてて静寂を拒否する川のさざめきが、ここは生者のいるべき所ではないことを教えてくれた。
後ろの川は、五歩踏み入れたら帰ってこれなくなりそうなほど、灰色がかり、底が見えない川だった。そこには、感情もすべて水と共に併せて呑み込んでしまう白黒の鯨のような何かが、絶えず群れとなって川下に向けて泳ぐだけだった。
私が裂けた。
周りの異質な環境がそうさせたのか、理解が追いつかぬままに、私は飛び退いた。あわてて体勢を立て直そうとするも、無情にも手と腰は冷たい石の感触を得るだけで、試みは失敗とおわった。
ぺたぺたと、私が私の顔を触り、ここでようやく、私が竹になった訳ではないと知った。
「ごきげんよう」
薄い桃色の花、その花弁の腹のあたりがなすような、微かな白桃色が目についた。それは花卉のようであり、その実傘だった。
「気分はいかが」
もしや花の大妖怪に目をつけられたかと思った。しかし、そうではなかった。大妖怪は大妖怪でも、これは賢者のほうだった。スキマだ。スキマが鼻先に現れたのか。だから私は、私が裂けたと勘違いしたのか。
「……特に何も」
「『死ねば』、性格も変わると聞くわねぇ。こんなの、地底にはみせられないわ」
「空き箱を叩けば、空き箱の音を出すだけよ」
「……人格は大丈夫そうね。すぐに感情は戻ってくるわ。呆けているだけよ」
はてさて私は呆けた自覚などないが、これこそが痴呆となった証拠となりうるのだろうか。そういえば、まだ嫉妬をしていなかったか。この賢者は妬ましい。
……調子戻ってきたわね……。我ながら単純すぎて心配になってくるわ。
「私は死んだはずでしょう?」
「貴方の代わりに宇治の橋姫が死んだのよ。自分をいたわってあげたらどう?」
少しでも情報が欲しいと紫に聞けば、余計混乱する言葉が返ってきた。はて、こちら側が三途の川の『向こう側』だったか。紫を道連れにできたのなら、来世は天道でしょうね。……そのようなことがあるわけがない。
「それならば私は死んでいるのではないかしら」
紫は少し悲しそうな顔を見せたが、私はその表情を信じない。私は紫の次の言葉を待った。それは衝撃的なものだった。
「貴方は自分を宇治の橋姫と仰る。それが間違いですわ」
私は紫の一言一句を理解できず、あんぐりを口を開けて固まる。ふと、私の右腕に気がついた。失ったはずの右腕はそこにあった。
「幻想郷の一員として、特別に私が知っていることを教えて差し上げましょうか? 幻想郷に流れ着いたパールシー」
私は頷くしかなかった。
――昨日まで、あなたの魂は二つ入り交じっておりました。天竺で死んだペルシア人の魂と、妖怪となった公卿の娘の魂です。京で生まれたとき、あなたはこう誤解したのでしょう?
「私は前世を覚えている一つの魂を持った人間だと」
不正解。あなたは二つの魂を宿しておりました。哀れなペルシア人を受け持った閻魔は慈悲深く、あなたを地獄行きのところを人間道に回したのです。それもとびきりの因縁に。とはいえ、閻魔も何が起こるとは考えてはおりませんでした。そんな中あなたはそのまま死ねば良かったものをぬけぬけと妖怪になりやがり、迷惑をかける始末。さらに悪いことに、是非曲直庁の怠け者は魂の回収にやる気を見せず、ようやっとこの代で片がついたのよ。あなたは罰を与えられていない公卿の娘の魂を……、こっちの方がいいかしら? 「宇治の橋姫」の魂を失い、既に閻魔に罰を与えられた「ペルシアの豪族の娘」の魂を体に宿して今も生きている。
……さっき何が起こったかもついでに教えて差し上げましょう。あの紙人形は「宇治の橋姫」の腕を封印したものの一部よ。その封印が、二つの魂を持つ水橋パルスィに握りしめられて弱まった。それを感じ取った「宇治の橋姫」の魂が、憎き紙人形と水橋パルスィの腕を依り代にして、大妖怪復活といこうとした。かつての力を持たぬ水橋パルスィの妖力をほとんど吸い取って、「宇治の橋姫」の魂は、ペルシア人の魂と同居していた体から離れ、千年前の姿を顕現させたわ。……見かけだけね。中身は所詮水橋パルスィ程度の妖力を持った木偶ね。そして宇治の橋姫は死神に殺され、ことは終い。
そのついでに水橋パルスィは妖力を抜かれ、腕一本を失い、身体中の穴から血を流して昏睡しただけよ――
私は疑問を覚えた。ここまで丁寧に話すのは紫らしくない。探りを入れてみるに値するけれど、返ってくる言葉は碌なものではないでしょう。
「随分と……ご丁寧に話してくれるものね?」
「答えの出ない問いをけしかけて困らせるのは私の性に合いませんわ」
「いけしゃあしゃあと……」
「夢世界であることないこと言われるよりはましよ」
……そうか。私は、ドレミー・スイートと「仲が良い」のね。
「それに、気付かないあなたが悪いのよ。昔、あなたは分身を出そうとしていたわね」
確かにスペルカードを作るとき、分身を作ろうとしたことはある。そして、勇儀に止められたことも。勇儀の勘は良く当たる。
……問題は、分身を出そうとしたことをなぜ紫が知っているかということよ。
「ああ、あなたが仰いたいことは分かりますわ。それはね、私とあなたが初めて会ったとき」
こいつは次代のさとり妖怪でしょう。それはさておき、昔のことなど覚えてもいないけれど、確かにあの日はよく覚えている。変なところは無かったはずだけれど。そう、スキマ妖怪はアンチスキマ妖怪のふりをして我が家に押し入り、私が靡かないとみるや拳銃を我が家でぶっ放し、その詫びとして箒を……ああ、あれか。
思わず私はノゾキマ妖怪を睨みつける。ノゾキマ妖怪はニンマリと笑みを浮かべた。やはりこの妖怪は無敵に違いない。
「あの箒は良いものなのよ? そのお陰で私はまるで舞台装置のようにあなたの喜劇を支えられたもの。箒が無ければ、妖力を抜かれて腕を失っていたあなたは、おそらく地底の無頼共の残念な治療が原因で亡くなっていたはずよ。それが腕も妖力もみんな元通り。いい話でしょう?」
「そうね」
それはいい話ね。これを話すのが紫でなければね。これを話すのが紫である以上、私がすべきことの前振りでしかないのよ。それを知っている私は、逆らわずに紫に問いかける。
「それで、私は一体何をすれば良いのかしら?」
紫はそれには答えなかった。代わりの言葉は、少々いびつなものだった。
「さて、富貴。あなたは勇儀をご覧ずることになりましょう」
これは……、言葉遊びね。紫もずいぶんと昔の言葉を引っ張り出してきたものだ。もしかしたら私を馬鹿にしているかもしれない。
『みる』すなわち、結婚する。
これを知らない乙女など居ないでしょう。こいしですら頬を赤らめ……どうだか。あれなら、頬を赤らめる必要性を感じないこともありうる。
「あら、勇儀と会うことなんてないわよ? 場所も場所だし」
一応、二度も上流階級に生まれた自覚はある。妖怪に身をやつす時が長く、もはや下人でさえも、私よりはるかに高い身分だけれど。……私だってプライドの一つや二つくらいはある。紫が『見る』に結婚すると、見るの二つの意味をこめているなら、こちらも同じように返さなければならない。『見る』とそのまま返すのは無粋ね。ならば、『会う』と返すのがいいかしら。
『会う』の意味には、本意の相手と結婚する、だなんて意味があるけれど、……女の子同士だもの。『会う』だなんて無いわね。確かに親友だけど、それを恋心と揶揄されるのは少し腹立たしい。親愛と恋をわざと混同させる輩は、愉快犯に他ならない。
……そもそも、地上で勇儀の姿を見ること自体、紫が許すはずもない。だから、ここで会う訳もないわね。
「そうかもね? それは貴方の本意ではないのでしょう? それに、今も勇儀はあのかわで裾を濡らしているでしょうね。一人で渡るには、世は厳しい。それゆえ、誰しも橋を求めるのよ」
ああ、これはどちらの意味だろうか。この賢者にしては思ったよりも無理矢理な文だ。そういえば、強者は本気を出さないと聞いたことがある。私のことを稚児として見ているなら……、まあ、私としては何も言えることはない。気儘な支配者に楯突くなど鼠ですらしないから。
私はもう現し世にいる。となると、橋は私かしら。いや、ここまで持ち上げることなんてあるのか? その扇子に隠された紫の口元が見てみたい。どうせ見世物を見つけた時の顔をしているだろう。
……紫が言ったことから、勇儀は私の家にいると推測できる。
「無理ね。渡る前に袖をぬらしているだなんて、橋を諦めているじゃないの。橋を求めた者は皆、やがては橋と、橋のそばに一つ立つ松も忘れて、その色づいた川に飛び込むのよ。あわれなことに、沈まなかった者は居ないわ」
よし、上手く要素を載せられたはずだ。紫にとっては不足かも知れないけれど。私にはこれが限界だし。
……だから私はあいつに捨てられたのかしらね。でも、さすがに契りを結んでおいて、私を一目でも見に来なくなったのはおかしいわ。……思い出したらむしゃくしゃしてきた。くそ、妬ましい。……我ながら、どす黒すぎる妬みね。
二回も人生を歩んできて、その二回とも浮気されるって何なのよ?
「待つとし聞かば、今帰りこむ。とはならないわけね……。確かに、この瀬も無さそうな川では、気も乗らないもの。そうそう、その者が沈むと言うけれど、どうであれやがて浮かぶわ。……でも、あなたは重いから浮かばない。踏んだり蹴ったりなあなたは、なんとも浮かばれない女ね」
なんと痛烈な言葉だろうか。返す言葉もない。確かに、自ら穢れていった私に成仏できる道などないだろう。
むきになって言い返す言葉ではない。私は両手をあげて、降伏の意を示した。捨て台詞を一つ添えて。
「覗き見趣味に友達なんてできないわよ」
まるで千年は使い古された扇を紫ははたりと閉じた。どうやら私の恭順の印を受け取ったらしく、私には紫の歪んだ口元が垣間見えた
私は恐れた。そして理解させられた。
こいつは、どこまでも別の存在なんだと。私と同じ女の形をしていながら、その実中身は人が持ってはならぬ感情の溶解物だ。薄く膜が張られたその奥には、触ってはいけない何かがあるのだと。
「最近、できる妖怪が減っていて面白くなかったのよ」
「当たり前でしょう。これを好むのは、暇な根暗だけよ」
紫は先程閉じた、蝶が幾重にも描かれた紫色の扇子を無駄なことにまた開き、右目を瞑ってこちらを品定めするような目で見てくる。賢者は、口元を見せることが嫌いなのかもしれない。その賢者が私に歯をみせた意味に、私は戦くしかなかった。
「それって、暗ーいあなたのような?」
さらに、紫は人を馬鹿にすることが好きとみえる。そんな彼女に私は棘の生えた薔薇を贈ろうと思う。こいしがちょうど、百二十年前にみせたような。
というか、『暗い』って、無知という意味もあったような。どこまでも人を馬鹿にしている。
「ええ、流石我らが長。詳しいのね」
「……私といえども、そんなこと言われたら傷つくわよ? 紫ちゃん悲しいわ」
「おお羨ましや」
「……鼻も短いのに」
「天狗に処世術を教わりまして」
ほとんど表情が変わらないものの、表情豊かな紫はその雰囲気をころころと変え、こちらの情緒も揺り動かそうとしてくる。
「天狗……ふむ? ま、そんな訳ないでしょう。それで、これからどうするつもりかしら? あなたはあの閻魔から見逃された。私はその意味を諮りとれぬ女ではございませんのよ?」
「さぁね……。まだ感情の整理がついていないのよ」
とにかく、目を合わせることに疲れた私は、紫に一度背を向けた。何か三途の川を眺めたら、いい言葉でも瀬に浮かんでこないかと思って。……スキマに言われたとおり、私は見逃されたのでしょう。私の罪も、全て宇治の橋姫が背負って死んでいった気がするのだから。閻魔様というのは、存外皆甘い存在なのかもしれない。
「悪くない」
「は?」
「独り言ですわ。私はあなたのことをそこそこ評価しています。あなた如きがさとりと仲良くできるなど、予想もしなかった。だからこそあなたは幻想郷を知って、
……そこで泥のように眠ってくださいな。最後まで」
重すぎる一言一句。一方通行の聞こえてはいけない何かが聞こえてしまった。背筋に悪寒が走った。見てはならない何かがそこにあり、しかし、今にでも振り返らないといけない気がした。
……私は振り返った。
そこは、薄暗く、よく見知った場所であった。化け物は居なかった。
赤い欄干と綺麗な木目の橋。誰も通ることのなかったあの橋だ。今はそうでは無いのだ。土蜘蛛や町娘が時折通るようになったあの橋だ。紫にとって、それまでの私は何だったのだろうか?
私は橋に招かれるようにして欄干に背を預ける。
――幻想郷へようこそ、水橋パルスィ
初めてそいつからまともに名前を呼ばれてしまった気がした。
一応終わり。
この橋はもう渡る者が居ないわけではないとね!
過去の話から良い感じのところを引っ張って最後に伏線をできるかぎり回収するぞ! なんて頑張ったのは良いものの、文の拙さや一人称、三人称の乱雑な併用がそこかしこに見られ、当時はそもそも人称について理解していないことが明らかな文章ばかりで、恥ずかしくてゴロゴロしていました。特に前書きと後書きですね。
読者の皆様には、尻切れトンボなことや、伏線未回収なこと等と不満な点が多々あると思います。申し訳ございません。
長い間ご愛読ありがとうございました。
次作があればもう少し面白いでしょう。それでは!