雛森「シロちゃんに『雛森ィィィィ!』と叫ばせたいだけの人生だった…」 作:ろぼと
†††
風に揺れる木々。舞い落ちる木の葉。人の身動ぎ。日常非日常問わずありふれた光景が自然の理に従い、既知を既知たらしめる。
ただ
「────!!」
咄嗟に距離を取ったのは無意識の防衛本能か。そんな月島の意図を、少女──
「どうしたんですか、月島さん? 突然放り捨てられたらびっくりするじゃないですか」
「お、まえ…」
「あなたはあたしの"大切な人"なんでしょう? ならどうしてあたしをそんな怯えた目で見るんですか?」
ワザとらしく「おかしいなぁ?」と少女が首を傾げる。毎日見ていたはずの幼げな美貌に、青年はこれ程恐怖を感じた事はなかった。
「ふふっ、ふふふふっ……月島さんが…月島さんが悪いんですよ?」
そう責めるように前置き、不意に女が笑い出した。
「あたしだって必死に我慢したんですよ…? こんなこと思っちゃダメだって。月島さんはちゃんと『月島さんのおかげ』してこそ月島さんなんだって…っ」
「何を…」
「でも、そんな…そんな色男演技であたしにアタックして…『しめしめ騙せてるな』なんて満足そうな顔を五十年も見せられて……我慢なんて出来るワケ無いじゃないですか…! あんなの完全にあたしのコト誘ってるじゃないですか! あたしは悪くないっ!」
荒い息で捲し立てる少女の言葉を、月島はまるで理解できない。だが端々から感じる子供じみた邪気が彼に一つの確信を抱かせる。
「ッ、くそっ…!」
知られていた。気付かれていた。それも恐らく、自分の知らない最初の出会いの時点から。
いつぞやの空座町公園で見たあの女と同じ、不気味な笑顔。それは目の前で愚かな道化が足掻く様を嗤う、悪趣味な観客のそれだった。
辛うじて動揺を収め、瞬時に栞の刀を両手で構える月島秀九郎。だが無敵の
「あら、騎士ごっこはおしまいですか? 最後にあの藍染隊長と月島さんのドリームマッチが見たかったのに」
「…図に乗るなよ、魔女め。お前が雛森桃の中にいる事は最初から分かっていたんだ。この僕が今まで無策で過ごしてきた筈がないだろう…!」
これ以上この女を自由にさせてはならない。意を決し、月島は手札を切る。
「演目は終わりだ、"読書家"!」
瞬間、月島が振るった刀の残像から闇が滲み出した。
斬り付けたのは人でも無機物でもない、空間そのもの。
藍染も、浦原喜助も、
足元の僅かな地面を残し、全てが果てしない虚無に囲まれた二人だけの世界。敵を月島の無敵領域へ引き摺り込む、【ブック・オブ・ジ・エンド】最強の戦闘能力だ。
「ハハ…ハハハッ! 流石の未来視も僕の能力の底までは見抜けなかったようだね!」
「これは…」
「僕のためにのみ存在する正真正銘の神の楽園さ! 誰だろうと僕を傷付ける事も、僕の許可なく息をする事さえも出来ない! お前のような恐れ知らずに相応しい墓標だろう、ハハハッ!」
死神にすらなれていない未熟な身で正体を現したのが命取り。驚いたように辺りを見渡している雛森の表情が奴の無策の証だ。
「終わりだ、"読書家"。せめて最後の遺品にお前の【本】をありがたく頂戴するとしよう。雛森桃のではない、僕の記憶を奪ってまで隠したがった、お前自身の過去をね!」
間合いを無視する絶剣を少女の首筋へ添え、月島は全能感に勝ち誇る。
そして非力な雛の絶望を拝んでやろうと、青年は近付く一歩を踏み出し──彼女の一言に足が竦んだ。
「…あなたには沢山の幸せを貰った恩があります。覚えてないでしょうけど…
止めた方がいいですよ
一瞬、月島は何を言われたのか理解できなかった。
言葉の意味ではない。それまでの愉悦に歪んだものから一変した少女の顔が、あまりに状況に似気無い、憂いの影を落としていたために。
何かがおかしい。何故コイツがそんな顔をする。まるで僕の身を案じているかのような…
「ッ、黙れ化物! この僕を虚仮にした事を悔いて死ぬがいい!!」
けたたましく警鐘を鳴らす本能を押し退け、揺れる青年が最後に信じたのは、自分を大切な恩人と引き合わせてくれた己の
かくして月島秀九郎は、悲願の一手を宿敵へ見舞い──
近付きすぎないことだ
奴の過去を手に入れる直前、そんな誰かの声が頭を過った気がした。
†††
不思議な光景が神経を巡っていく。
洋服の群衆を吐き出す緑線の電車。照り付ける日差しを反射する瀝青。夜闇を照らす色鮮やかな電光掲示板。
目の前に広がっているのはいつもの現世の、現代の街並み。されど見慣れた景色であるはずなのに、月島には何かが決定的に違う、全くの見知らぬ異世界に見えた。
それは宛ら液晶画面の映像が車窓の風景になったかような、自分一人を残して世界そのものが理の枠を超えたかのような、筆舌にし難い衝撃的な感覚だった。
「あ、が…」
死神の数百年分どころではない、文字通り次元の違う密度の情報量が濁流の如く脳内に流れ込む。月島は破裂しそうな激痛に耐えながら、必死に世界の津波を掻き分け…
そして無垢な青年は遂に、望んだ"真実"を得た。
「なん、だ、これ」
…だが果たしてそれが月島の勝利を称える賞杯であったか否か。その答えは、放心したまま瞳孔を限界まで開く彼の様子が教えてくれるだろう。
──"読書家"の過去へ踏み込んだ青年は、とある薄暗い部屋の中に行き着いた。
内装に特筆すべきものは何もない、人間の自室。しかし逆に平凡であるが故に、それが日常の裏に蠢く深淵の魁に相応しくも思えた。
そこは他の世界とは桁外れの、重く、濃く、そして形而上的な気配を感じる異様な空間だった。
微かな明かり
それを頼りに
薄目を凝らす
流れに 本能に
逆らい 抗い
そうして辿り着いた
部屋の一隅
何気なく置かれた
簡素な家具
その三つ目の段に
それは あった
B
H
魂に浸透するそれらが理性を穢す。青白い肌に麻疹が粟立つ。ナニカが体中を這いずり回るおぞましい感覚の後、気付けば月島は意味をなさない奇声をひたすら叫んでいた。
カチリと、青年の脳裏で何かが噛み合う音が木霊する。
それは本来合わさってはならない鍵。繋がってはならない異なる次元。しかし如何なる悪魔の悪戯か、合わさる余地を有した破滅の罠。
月島秀九郎は知覚してしまった。自分達の立つ地平の正体を。悲劇喜劇が演じられる薄っぺらい平面を。
観測してしまった。自分達の立つ地平の上空を。そこから見下ろす、貌の見えない楽しげな巨人たちを。
そして彼は、それを──
「ひっ…ぃ…ひぅっ……ひぁぁあぁ…ッ!」
駄目だ駄目だ理解してはダメダ駄目ダここに僕が僕たち矮小な人間が魂魄がダメダ知ッテイイ事など一つもないダメダ急イデ逃げないと消エナイト立ち去らないと銀城が死ぬ僕も死ぬ何もかもが終わってダメダ消える消エルキエルってなんだナンダそうだそうすれば
キエレばいいんだ
瞬間、狂気に呑まれる月島の目に僅かな理性が戻った。
そうだ、昔まだ子供だった頃。今ほど達観していなかった自分の精神を守るために銀城が考案してくれた【ブック・オブ・ジ・エンド】の特殊な使い方があった。
禁じ手でもあるその手段は、月島自身の【本】を編纂し、完全に頭から処分する事ができる。
だが本来は慎重を期し万全の準備を終えて行うべき危険な改変も、精神が狂気に浸食される今の状況下においては是非も無し。青年は一秒でも早くこの悪夢を消し去ろうと、頭に浮かんだ"読書家"の過去の記憶へ刀を向け…
「ぼくのかこを、けし───」
そこで月島は、痛々しげにこちらを見下ろす、大きな琥珀色の瞳と目が合った。
「やっぱりこうなるのね……いえ、弱いあたしがあなたの影響から逃れるにはこれしかなかったんだけど──流石に二度目は、うん…」
その少女の独り言が、何故か青年の鼓膜に強く残った。幾度と繰り返し反芻し、気が狂う寸前の鉄火場の中、彼の脳髄に一つの単語が染み亘る。
"二度目"、奴はそう言った。
それはつまり…
「…まさか、まさかまさかまさかまさか!!」
一体いつ、誰が、どうやって、僕の記憶を奪ったのか。疑問は常に潜みながら、月島は無意識にもう片方の可能性を頭から排除していた。
そして今、逃げ続けた彼は遂に、恐ろしい現実に追い付かれる。
失われた過去、雛森桃との初対面の場面。ページを破り捨てるかの如き乱雑な改変。消えた"読書家"の【本】。
青褪める月島の心奥で、全ての違和感が一つに繋がった。
「…あたし、この世界が大好きなんです。これ以上あなたに介入されたら色々と動きづらいので、まだ現実のあたしへの影響が最小限で済む内にお引取り頂こうかなと」
「あ、ぁ、ああぁぁあぁ…」
勝敗が決し、自らの思惑を語る少女。小さく呟いた「もう直ぐシロちゃんに逢えるし」の本音は、愕然とする月島の脳に届かない。
閉じ込められた袋小路。【月島秀九郎】の、自我の死を選ぶしかない理不尽な一本道。最後の
恐らくこの世界の雛森桃へ最初に栞を挟んだ時点で、僕は一度奴の…いや、この世の"真実"を知ってしまったのだろう。そして瞬時に"読書家"の【本】と、挟んだ雛森桃との初対面の瞬間を削ぎ落す事で必死に正気を保った。
神への畏れのような恐怖心のみを戒めに残す、何も知らない新たな【月島秀九郎】になり替わる事で。
ああ。僕は始めから、同じ道を繰り返す、愚かなピエロだったのだ。
「…お別れ前に一つお伝えします」
遠のく意識が女の声を捉えた。
「その…ごめんなさい。あなたがワザワザあたしに栞を挟む程ですから、そっちのあたしは散々好き勝手してるんでしょう」
未来への懺悔にも期待にも聞こえる謝罪。しかし彼女は「ですが」と微笑み、再度開口した。
「あたしに銀城空吾を害する意思は一切ありません。…叶う事なら、この言葉をあなたが忘れずにいられますように」
それは情けか、魔女の罠か。だが自分達の生きる世界の真実を、"銀城の最期"を知ってしまった彼には、最早縋れる救いなど欠片もありはしない。
「……あ、そうそう」
そして苦笑気味に「最後にもう一つ」と重ねる少女。
閉じる瞼が絶望の闇を映す直前。月島秀九郎の耳に届いたのは…
全ての後悔の始まりを示す、無意味な忠告だった。
程々にしてくださいね?