雛森「シロちゃんに『雛森ィィィィ!』と叫ばせたいだけの人生だった…」   作:ろぼと

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…ごめんね、シロちゃん。





 あ と 1 話 あ る の 




 
 


雛森ィィィィ?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「みんな…待ってろ…!」

 

 

 三界を隔てる虚ろの狭間、黒腔(ガルガンタ)

 仲間を救い出し、皆の帰る場所である空座町を護らんと霊子の足場を駆ける人間の青年──黒崎一護は、同行者の四番隊隊長・卯ノ花烈より多くの事を聞かされた。

 

 "重霊地"空座町の価値とそれを狙う敵の真意について。

 諸悪の根源・藍染惣右介の斬魄刀の能力について。

 その能力の支配下にない自分が尸魂界の切り札足り得る事について。

 

 そして。

 

 

「───そんな事が…」

 

「はい。雛森元副隊長は五十年前の霊術院時代に、当時の阿散井副隊長、吉良副隊長、檜佐木副隊長、蟹沢三席、青鹿五席ら院生を虚の襲撃から守り、ここ黒腔(ガルガンタ)へ一人連れ去られた経験をお持ちです。おそらくは襲撃そのものが藍染惣右介の策。そして雛森さんはその時に彼の魔の手に堕ちたのでしょう」

 

 一護が迷いつつも尋ねたのは、あの謎多き恩人の女死神──雛森桃について。よく四番隊へ回道を教わりに来ていたらしく、卯ノ花は思いのほか彼女について詳しかった。

 

「あの子はとても多忙でした。護廷では副隊長、鬼道衆の精鋭部隊では三席に相当する第三班班長を兼任。暇を縫っては私の隊を訪れ癒術を学び、女性死神協会ではよく華道や料理の指南をお願いされました」

 

「…すげえな。その裏で藍染の暗躍まで手伝わされて……体が幾つあってもたりねえだろ、それ」

 

「ええ。もし私たちの見た雛森さんが【鏡花水月】の幻でないのなら、彼女が藍染に加担させられた悪事はそう多くないはず……そうであって欲しいと皆が願っています」

 

 顔を伏せる卯ノ花を一護は肩越しに一瞥する。

 彼の胸にあるのは安堵。己の虚化の制御を助け、幾度と黒崎一護という自我を守ってくれた、不思議な恩人のおねえちゃん。そんな彼女が多くの人達に慕われている事実は、青年の正義を迷いなきものにする。

 

 安堵序でに、一護はふと、自分と同じように雛森桃を助けようとしている一人の少年について気になった。藍染に彼女が連れ去られた時、そして数日前の再会時に酷く曇った顔をしていた最年少の隊長──日番谷冬獅郎だ。

 

「日番谷隊長とは家族同然に流魂街『潤林安』で育った幼馴染だそうです。そちらは貴方と親しい白道門番の一貫坂兕丹坊(いっかんざか じだんぼう)さんの方が詳しいでしょうが」

 

「兕丹坊が? …いや、そう言えば雛森さんってあいつと同じで流魂街のヤツらと仲良かったっけか」

 

 当時は囚われのルキアの事で頭がいっぱいだったが、思い返せば確かに自分達は何度かあの人ゆかりの人物や場所と縁があった。

 一度記憶を整理しようとする一護を見て、卯ノ花も幾つか彼の知識を補足する。多くは考察、推察の域を出ないが、青年には十分納得がいくものだった。

 

 雛森桃が死神になったのは、冬獅郎を筆頭に潤林安の皆を守るためだけではなく、自らの強大な力を律するためでもあること。

 そこで最初に彼女へ手を差し伸べたのが、不運にもあの藍染惣右介であり、ヤツの強さと、その力を隠し皆に好かれる生き方に憧れを覚えてしまったこと。

 

 そして、尸魂界を離反する際、自らの忠誠の対価に冬獅郎たちの安全を願ったこと。

 

「…あの子は自身の力に反し、とても謙虚で心優しく、賢く、そして臆病だったのでしょう。力ある者の孤独に耐えられず、しかしその力こそが大切な者を守るのだと知っている。一歩間違えれば彼女のようになっていた者を、私は何人も知っています」

 

「……」

 

 一護は思わず押し黙る。チャドや井上らと異なり、幸か不幸か特別な能力に目覚めなかった高校の友人たち、有沢竜貴、浅野啓吾、小島水色らと疎遠になったこの半年。雛森桃のジレンマは彼自身も抱えるものだった。

 

 あの人にはいたのだろうか。自分にチャドたちがいてくれたように、雛森桃には共に戦ってくれる仲間が。

 

 

 ───我等が軍団長閣下に不滅の栄光を! この命こそ我等の最後の忠義也!

 

 ───十刃はあの方の最も側にいられる場所。あそこは堪らなく心地よかった…

 

 ───生きることに意味があるのだと、あの方ならそうお考えになるはずだから。

 

 

 地底路の守護者アイスリンガー、三桁の巣(トレス・シフラス)のドルドーニ、眼帯の十刃から守ってくれたネル…

 彼女は、一体どんな想いで自らを慕う破面(アランカル)達を率いていたのか。

 

 

 ───それは、おねえちゃんのお守り。

 

 ───ごめんなさい一護くん、今はこのくらいしか…

 

 ───そう。やっぱりあなたはまだ、半人前なのね。

 

 

 あの七年前の梅雨の日、あのウルキオラ達の威力偵察の時、あの襲撃後に十刃を回収しに来た時…

 彼女は、一体どんな想いで俺を、黒崎一護を助け、力を付けさせようとしていたのか。

 

 

 ───ごめんね…シロちゃん…

 

 ───あなたは、生きて。

 

 ───来たら、あなたも倒します…っ!

 

 

 あの双殛の丘での別れ、あのグリムジョー襲撃の夜に残した言伝。あの三日前の戦闘で皆を蹂躙した時。

 彼女は、一体どんな想いであいつに剣を向けて…

 

 

 

「…悪ィ、卯ノ花さん」

 

「黒崎さん…?」

 

 無言で黒腔(ガルガンタ)を駆けることしばらく。一護は一つの宣言でその沈黙を破った。

 

「藍染を倒さなきゃなんねえのは俺だ。俺の住んでる町を、竜貴達を殺そうとしてるあいつは、俺が倒す」

 

「……」

 

「…だけど、あの人を助けんのは、多分俺じゃない。雛森さんを助けんのは、俺じゃダメなんだ」

 

 脳裏に浮かぶのは、あの辛気臭そうな顔をしていた氷の少年。ルキアを守れなかった修行前の自分によく似た、焦燥と無力感に呑まれる己の現身。

 

「日番谷隊長を信じておられるのですか?」

 

「さあな。別にルキアや恋次みてえに親しい訳じゃねえし、凄え斬魄刀を持ってる天才少年だってのを人伝に訊いただけの知り合いだ」

 

「…なら何故?」

 

 卯ノ花が目を細め真意を問う。

 

 何故、彼を信じるのか。そんなの、あの人の話をしてる時の彼の目を見ればわかる事だ。

 

 

「あいつの魂が『俺が助けるんだ』って、そう言ってんだよ」

 

 

 一護の答えに卯ノ花は目を見開いた。

 彼女の頭を過るのは、この人間の青年が駆け巡った八月初週の大激戦。彼はその身一つで護廷の猛者たちと戦い、霊界最高意思決定機関『中央四十六室』の決定を覆し、本当に朽木ルキアを救って見せた。

 そんな奇跡の男が口にする、日番谷冬獅郎の決意。彼はおそらく誰よりもあの幼い隊長の想いを強く感じたのだろう。

 

「卯ノ花さんも一緒に特等席で見させてもらおうぜ。あいつが…」

 

 

 

 ────初恋の女子を救い出す、男らしいカッケェ姿をよ。

 

 

 

 ニッ、とキザったらしく笑う青年。その顔に目をぱちくりさせた卯ノ花は、一拍置いてコロコロと笑い返した。

 

「ふふっ……ええ、そうですね」

 

 全く。こんな、自分の百分の一も生きていない幼子に励まされるなんて。

 

 知らずの内に寄りかかってしまいそうになる、どこか不思議な魅力を持つ青年。彼と斬り合えればどれほど愉しいのだろう、と疼く体を抑え込み、慈愛の微笑を浮かべる剣の鬼は、この男の想いに懸けてみる事にした。

 

「さあ、黒崎さん。もうじき偽の空座町です」

 

「…ッ! 応!」

 

 解空(デスコレール)の管理者、涅マユリと連絡を取り、開いた空間の光へ、二人は飛び込んだ。

 

 そこで彼らが…否、黒崎一護が目にした夢幻無き真実は…

 

 

 

 

 

 

 

「────なにやってんだよ冬獅郎オオオオオオオオオッ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 百五十年の狂気と絶望に染まった、悲劇の最高潮だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ぬちゃ…と。

 

 

 生温かいナニカが日番谷冬獅郎の顔にかかる。護廷十三隊の隊士として、席官として、隊長として、これまで幾度と触れ、感じ、舐め、嗅いだ、死の匂いだ。

 それが何かを脳が理解した瞬間、少年の体は反射的に戦闘に不要なあらゆる感情及び生理現象を抑制させた。

 

 果たしてその咄嗟の行動に何の意味があったかなど、涙が乾いた両目が映したものを見た冬獅郎にはどうでもいい事だった。

 

 

ぁ、ぇ……

 

 

 消え入りそうな声が聞こえる。己の視界に飛び込んできた光景を現実と認識させる、絶望の音。

 

「……ひ…な、もり…?」

 

 

 冬獅郎の目の前に、胸元から鈍色の切先を生やす雛森桃が佇んでいた。

 

 

 白い死覇装、新雪のような肌に映える悪夢の真紅。何が起きたのかすらわからない少年の耳に、あの男の声が木霊する。

 

「────残念だよ、桃」

 

 変わらぬ愉しそうな顔で「君はもう少し利口な子だと思っていた」と優しく少女の肺から剣を引き抜く藍染惣右介。

 噴き出す彼女の鮮血が冬獅郎の顔を濡らした。

 

「なん…で…」

 

『……!』

 

 少年の擦れる声が、虚ろな護廷の仲間達の意識を呼び起こす。自力か、あるいは天女の慈悲か。破壊の規模に反し、命を奪われた者は一人もいなかった。

 

「…下劣な」

 

「結局…彼女も捨てるのか…! 藍染惣右介…ッ」

 

 平子真子、浦原喜助、京楽春水、砕蜂、狛村左陣…。現世と尸魂界の垣根無く、未だ戦意を保つ強者達が立ち上がる。

 

「シロ…ちゃ……」

 

 だがその時、彼らの眼前で目を疑う事が起きた。

 

 

『────なっ…! 消えた!?』

 

 

 少女が崩れ落ちると同時、血だらけな彼女の姿が……塵となって掻き消えたのだ。

 

 まるで、最初からそこに"雛森桃"などという人物は存在しなかったかのように。

 

「ひ、な…もり…? おい、どこだ雛森…! 雛森ィィィッ!!」

 

 必死に首を振り想い人の姿を探す冬獅郎。だが辺りの焼け焦げ抉れた大地と、そこに残る真っ赤な血だけが、彼の愛した幼馴染の残した全てだった。

 

「くっ、藍染ッ! 雛森をどこへ遣ったァァァ!」

 

「フフ……さて、どこかな?」

 

「てめえええェェェエエエ!!」

 

 大切な女を連れ去った憎き外道へ目掛け、冬獅郎は烈火の怒りを叩きつけようとする。どこにそんな力が隠れていたのか、死力を尽くして敗れたはずの少年は何故か、幼馴染の命の危機に再度戦う力を取り戻していた。

 まるで、それが彼の成すべき定めであるかのように。

 

「まさか……【鏡花水月】!?」

 

「ッ、待つんだ日番谷隊長!」

 

「馬鹿野郎! 一人で突出するなッ!」

 

 周囲の声も、浦原の冷静な考察も耳に届かない。

 怒りに身を任せた上段の袈裟切り。だが冬獅郎の全力の剣は羽を抓むが如く藍染の指先に捕らわれた。

 

「ぐ…ッ! くそォ…!」

 

「愚者の歩む道は、全て強者の描いた絶望と悲劇で彩られている。それこそが君と桃の二人が共に歩むたった一つの道なのだよ、日番谷君」

 

「ぐあァッ!?」

 

 巨悪が振るう腕に投げ飛ばされた冬獅郎は、背後の京楽らの助力で何とか立ち上がる。だが剣を握り直した彼は脇目も振らず再度藍染へと突撃。

 

「ッ、落ち着くんだ日番谷隊長! 味方の被害が大きすぎる! ここは一旦みんなの態勢が整うまで──」

 

「邪魔だ、退け! 雛森の居場所を吐きやがれ、藍染えええン!!」

 

 京楽の制止を振り切り、宿敵へ剣を突き立てようとする冬獅郎。そんな彼を、巨悪の呆れと嗜虐の混じった憎い瞳が見つめていた。

 

「…やれやれ、わからない子だ。それともただ直視すべき真実を、私と言う明確な暴力の捌け口への猪突猛進で振り払おうとしているのかな?

 ──君の軽忽な行動が、私の桃を血で染めたという事を」

 

「ッ!! ふざけんな、誰がてめえの桃だ!! 雛森はてめえのモンじゃねえッ!!」

 

 何度も何度も敵へ剣を振り下ろす冬獅郎。

 あいつが血を流したのは一切合切がこいつのせいだ。先ほど胸を貫いたのも、崩玉なんて代物を埋め込んで暴走させたのも。全て。全て。

 雛森はこいつのものではない。こんな腐れ外道の手に堕ちるなど断じて許さない。

 

 あいつは、俺の…俺だけの…!

 

「それこそが哀れな幻想なのだと、君はまだ理解できていないようだ」

 

「何だと──ぐッ!?」

 

 だが冬獅郎の我武者羅な連撃は容易くあしらわれ、彼の小さい身体は一気に地面へ弾き飛ばされる。

 

「所有とは、その存在を自らの庇護下に置く事を指す。常に桃に庇護されてきた"君"が、彼女の所有物であるならまだしも、その逆はあり得ないんだ」

 

 受け身も取れず痛々しく咳き込み呻る少年へそう言い残し、藍染は半歩前へ進む。その僅かな動きは、背後から仕掛けた平子真子、京楽春水の両者の攻撃を嘲笑うように空振りさせた。

 

「ったく、随分日番谷君を揶揄う事に熱心じゃないの…! 何か理由でもあるのかい?」

 

「自慢の"桃"が自分以外の男ンために泣くんが気に入らへんねやろ! 男が男に女の話でちょっかい出すんは嫉妬か嫁自慢やって旧石器時代から相場は決まってんねんで!」

 

 渾身の刺突、斬撃、能力を悠々とあしらう藍染に挑発を投げる二人。だが男はそよ風を浴びるような涼しい顔で平子達を嘲笑う。

 

「"嫉妬"、"自慢"……そんな言葉で己の無知を恥ずかしげもなく晒すのは実に君らしいな、平子真子」

 

「ハッ、なんや藍染! 図星かいな?」

 

「そう見えたのなら、やはり君は私の幻を訳知り顔で連れ歩いていた百年前から何一つ進歩していないと言う事だ」

 

「──ッ、おんどれ…!」

 

 思わず青筋が浮かぶ平子真子。その忌々しい失態の借りを返すためにも彼はここにいた。だが冷静さを奪われかけた平子をすかさず京楽春水が援護する。

 

「でもボクとしても君がここまで桃ちゃんに執着してるのは予想外だよ…! 一体彼女の何にそこまで惚れこんでるんだい、惣右介君?」

 

「京楽隊長。残念だが、君があの子の特異性を知るには既に時を逸している。そしてたとえ知ったとしても、君に出来る事など何もありはしない。かつて私の要の闇を照らす光になれなかったのと同じように」

 

「…言うじゃないの、彼を悪に引き摺り込んだ元凶がさ…!」

 

 ああ、全く。これだからこの男はやり辛い。京楽は相手の急所を抉るような話術に臍を噛む。

 

 実は彼は藍染の部下、東仙要に対して一つの負い目があった。あの善良な男を悪へと堕とした事件に関わる事だ。

 無論京楽に非は一切ない。だが東仙が藍染に従い尸魂界を離反した時、そして彼が狛村達との戦いでその最期を迎えた時、胸に宿ったやるせなさが京楽の嘘偽りない本心だった。

 

 ならば、桃ちゃんもそうなのだろうか。要君のように、誰かのお節介が巡り巡って彼女の不幸を煽る結果になってしまったのだろうか。

 一瞬にも満たない須臾とは言え、ふと考えてしまうほど、美人に弱い京楽は雛森桃の凄惨な悲劇にその心を大きく揺さぶられていた。

 

 そんな彼と平子達を見下ろし、藍染が自身の心中を語る。

 だが暗喩に満ちた男の言葉は謎めいていて、そして何故か……聞いてはならぬと本能が訴えているかのような戦慄を覚えるものだった。

 

 

「彼女が私にとって何であるか……いや、雛森桃がこの世の全ての者達にとって何であるか。その断片を表す言葉は数多あるが、何れ一つとして正解ではない。それこそが我等の生きる三界が、あの子の存在を持て余している事実を示唆しているのだ」

 

 

 …何だ、この男は一体何を知っているのだ。

 

 だがその真意を問い質すより重要な事が冬獅郎にはあった。胸に穴が開き、今も命の危機に瀕しているであろう、大切な幼馴染の居場所をヤツに吐かせる事だ。

 

「ッ、さっきから訳わかんねえ事をベラベラと…! そんな事のために雛森の人生をぶっ壊したのか!? あいつにあんなに血を流させたのかッッ!!?」

 

「勿論だ。それが彼女へ通すべき私の義理だからね」

 

「義理…だと…!?」

 

 あいつを傷付ける事の何が"義理"になると言うのか。だが冬獅郎がそう怒鳴る直前、藍染が「ああ、そうだ」と彼へ振り向いた。

 

「義理のついでに……君には一つ、謝罪を伝えて欲しいと桃から頼まれていたんだ」

 

「……ッ!」

 

 ゾワリと肌が粟立つ。瀞霊廷の清浄塔居林での時とよく似た、醜悪な三日月の弧を描く唇が、男の顔にへばりついていた。

 

 そして、心の底から愉しむように、巨悪が無垢な少年へ謝罪する。嗤いながら「すまない」と、前置いて…

 

 

 

「───彼女が君に一度として見せた事のない、雛森桃の心と体……その至るところの数々を、私には許してしまった…とね

 

 

 

 その時。

 

 おそらく、最初にその言葉の意味を理解したのは背後の大人達だったのだろう。子供の無知か、はたまた本能的な現実逃避か、何を言われたのかわからずきょとんと呆ける冬獅郎の背に、ブワッと彼らの異様な激情がのしかかった。

 嫌悪、憐憫、義憤。だがそんな大人達の反応が、少年の僅かな困惑を晴らしてしまう。

 

 日番谷冬獅郎は護廷十三隊の隊長だ。子供ながらにして大人の世界を生きる彼は、当然様々な知識を断片的であれば知っている。

 

 何故、砕蜂が嫌悪の感情を? ヤツの言葉はあの冷徹女が顔を歪めるほどのものなのか?

 何故、京楽が憐憫の感情を? ヤツの言葉はあの食わせ者が感情を乱すほどのものなのか?

 何故、狛村が義憤の感情を? ヤツの言葉はあの義に生きる男を怒らせるほどのものなのか?

 

 ヤツに許した…至るところ…心と体…俺には見せた事のない…

 

 児戯の糸遊びのようなそれらが一つ一つと繋がっていく度、少年の臓腑に熱が沸く。ぐつぐつと煮え滾る地獄の釜の様に。

 

 

「────あ…あ、ああぁ、ああぁぁああぁぁあああああアアアアアア"ア"ア"ア"!!」

 

 

 そして大人達に遅れること僅か半瞬。巨悪の言葉を理解してしまった日番谷冬獅郎の視界は、烈火の赤一色となった。

 

「ッ、あかんチビ助!」

 

「乗るな日番谷隊長! わかりやすい挑発だ!」

 

 冬獅郎に、己の命も同然に彼女へ惹かれる日番谷冬獅郎に、最愛の少女を穢された憤怒、憎悪を堪える事など出来はしない。視線の先の世界には、憎い憎い仇敵ただ一人。

 

────止めろ! 何やってんだ冬獅──

 

 遠くに聞こえた最後の制止の言葉を振り切る。

 そして少年の刃は持てる限りの暴力でその切先を巨悪の心臓に突き立て…

 

 

「死ねええええええええ藍染えええええええんンン!!」

 

 

 

 恋焦がれるほど愛おしい、柔らかな肉を貫く感触と共に、藍染惣右介を串刺しにした。

 

 

 

『!!?』

 

 戦場に衝撃が走る。まさか、あんな感情任せな突撃を凌げなかったと言うのか。あの藍染惣右介が。

 冬獅郎を除く誰もが同じ思いで、舞い散る血花に包まれる二人を注視する。

 

 だが。胸を突き抜かれて尚、藍染は薄く笑っていた。

 

 

「な…ぁ」

 

 

 その変化は、まるで目の前の真実を彼の脳の隅々に染み込ませるかのように、ゆっくりと現れた。

 

『まさか…ッ!』

 

 男の姿が、桃色の花びらとなって散り始める。左上半身から少しずつ、少しずつ。その花びらの人形の中身を明かしながら。

 

 最初に現れたのは、華奢な左肩。蝋のように白く、生気に欠けた肌に続き、膨らんだ胸元を隠す白い衣服が晒される。

 そして現世のドレスに似た、その血染めの死覇装が露わになった時。

 

 

「……言っただろう、日番谷冬獅郎?」

 

 

 はらり、と。

 冬獅郎の目の前で、彼の良く知る艶やかな黒髪が風に舞った。

 

 

 

 

 

 

 

「───雛森桃に血を流させるのは、いつだって君なのだ…と」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「───シロ…ぢゃ……」

 

 

 ゴポリと湿った、嫌な声が自分の名を呼ぶ。

 剣から伝う心臓の鼓動、柔らかい肉の感触。

 

 その先に、あいつが居た。

 

「雛…森……?」

 

 剣を手放し、彼女を抱き締める。あの双殛の丘で失ってから、やっと叶った、二度目の触れ合い。

 だと言うのに。望んだ歓喜も、幸せも、一つとして少年の胸の内には湧いて来なかった。

 

「雛…も…り……?」

 

 その体を抱えたまま、冬獅郎はゆっくりと焼け焦げた地面へ降りる。足下の町を消し飛ばすほどの力を秘める者とは思えない、羽のように軽い体だった。

 

 

「ぁ…は……」

 

 

 少女の青白い顔に、笑みが浮かぶ。悲しそうで、辛そうで、何もかもを諦めてしまったかのような、空虚な笑み。

 

「こう……なっちゃ……じゃな…いか、って……おも……た…」

 

 消え入りそうな声で「悪い事いっぱいしちゃったから」と、少女がか細い言葉を紡ぐ。そんな意味の解らない懺悔の言葉を、穴の開いた肺から絞り出すように。穴の開いた心臓から溢れる血と共に。

 

 …なんだ、これは。一体何が起きているんだ。

 

 止まらない。抱えた背中からその生温かさが流れ出るにつれ、彼女の僅かな体温が消えていく。

 

「…ありが…と……シロ…ちゃ……」

 

 少女の手が優しく頬を撫でる。昔のあいつの、あの元気な温かさはどこにもない、冷たく、震える、弱々しい手。

 

 そして…

 

 

 

ごめ…んね───」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 だ い す き だ よ 。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そう言い終えた少女の手が、冬獅郎の頬から離れた。

 

 

 

 冷たい木枯らしが抉れた大地を吹き通る。頬に残ったその僅かな温もりが消えた時、ようやく少年は、腕の中で重たくなった彼女の名を呼んだ。

 

「雛森…?」

 

 閉じた瞼に浮かぶ涙が、風にキラキラと揺れている。魄脈は消え、心脈は止まり、息は無い。

 そして、彼の欲する返事も。

 

「…おい…雛森……」

 

 何度、何度と揺すっても。

 嘘だろう、目を覚ませと呼びかけても。

 

 頼んでも。

 

 縋っても。

 

 非力で精いっぱいの笑顔を浮かべたまま、彼の胸元で項垂れる少女は動かなかった。まるで本物の、可憐で美しい人形のように。

 

「あ…ぁ……」

 

 なんだ、これは。

 

「…あぁ…あ…」

 

 この両腕の中に眠るモノは、一体何なんだ。

 

「…ああぁぁあ…」

 

 俺は、あいつを救わなくてはならないこの戦場で、今、一体何を抱き締めているんだ。

 

 

『────あなたに守ってもらおうかな…』

 

 

 ふと、あの時の記憶が頭を過る。全てが壊れる前の、何気ない日常の一頁。

 いつだって強かったあいつが、どうしようもなくなった絶望の果ての最後に縋った、小さな小さな希望。

 

 それを裏切られて。大切な仲間達へ剣を向ける道へと突き落とされ。崩玉の力を行使する兵器へとなり果てる、その最後の瞬間に。

 

 もう一度だけ縋った、最後の希望を…

 

 

『シロ…ちゃん───』

 

 

 

 

 

 

たすけて…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「────うあ"ああぁぁぁぁあ"あ"あああああああぁあ"ァア"ア"ア"アアアァァァァァアアアアァア"ァァァァア"ァァア"ァァァアアアアァァァア"ア"アアア"ァァァァアアア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 少年の細やかな、何よりも大切だった幸せを奪われた、悪夢の二月と二十九日。

 

 

 その果てに、ようやく取り戻した"幸せ"は────物言わぬ骸となり果てていた。

 

 

 

 

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桃玉「……」(プルプル


 

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