ブラックホール(完結)   作:At.f

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無意識エスケイプ

 誰かが私を呼んでいる。とてもあたたかくて、安心できる声だった。

 その声に引っ張られるように、私は――

 

「おい、君。おーい」

 左頬を横に引き伸ばされ、私は微睡みからゆっくりと覚めた。優しい風が頬を撫でる。上体を起こすと、頭がずきりと痛み、私は思わず短く呻いた。

「お、やっと目が覚めた。どうかな、気分の方は?」

 私の頬を伸ばしたこの声の主は、左隣に屈んでいる女の子らしい。華奢で小柄な体と、少し高めな可愛い声から、すぐ女性だと分かった。着古しているのか、少し傷んだ、足元まで覆われている服を羽織っていて、フードを目深く被っている。その下から覗く銀髪は、肩の長さまで伸びっぱなし。そして肌は雪のように白く、不健康にも見える。

「そんなにじろじろ眺めるのは、失礼だと思うんだ」

 少女は頬を膨らませると、目元を更に隠すようにフードを下に引っ張ってしまった。

「それで、キミはどうしてここに来たんだい?」

「私? えぇっと、そもそもここがどこなのかも分からないんだけど」

 顔をぐるりと動かし、少し周りを見渡してみる。私が眠っていたのは大木の下で、周りには赤くて細い花弁が特徴的な、儚げな花が咲いていた。

 しかし、私はこの風景に全く見覚えがなかった。私はどうしてこの場所にいるのか、今まで何をしていたのか、眠る前の記憶が抜けてしまったみたいにすっからかんの状態だ。困り果てて隣の彼女を見ると、何かを察したのか小さく笑った。

「記憶喪失、か。ボクはグリム、よろしく。キミの名前、覚えていたら教えてほしいな」

 グリムと名乗った少女――その一人称と喋り方で、見た目とは違い中性的な雰囲気の子だと思った――は先に立ち上がり、私に右手を差し伸べてきた。その手をそっと取って、引き上げてもらう。

「私は……ありす。こちらこそよろしく、グリム」

「アリスか。うん、いい名前だと思う。積極的に呼びたい」

「そ、そう? ありがとうでいいの?」

 彼女は口元だけでそっと微笑みを浮かべる。ほんのり紅い唇に、目が引き寄せられた。

「ふふ、どういたしまして。で、アリスはこれからどうするつもりなのかな」

 グリムに下から顔を覗き込まれて、あれこれ考えてみる。目覚める前の記憶が無いから、帰る家も分からない。しかし、どこかに何日も泊まれるお金の当てもなかった。

「とりあえず……野宿とか?」

 私が困り果てて言うと、目の前の彼女はぶふっ、と噴き出した。

「ここで野宿する気かい? 食料はどうするんだ。それに外には危険がいっぱ――」

 前言撤回、私に野宿は無理だと悟った。手を雑に横に振って、グリムの話を遮った。

「あーもう、私が悪かったから……それなら、どうすればいいの?」

「一つだけ方法があるよ、エマ様に会いに行くっていう」

 彼女は人差し指を立て、記憶の無い私ですら、聞き慣れない単語を発した。名前からなんとなく、神々しいオーラを纏った美女を思い浮かべる。

「エマ様……って、誰なの」

「説明が難しいけど、会えばアリスのことを教えてくれる。それはボクが保証するよ」

「随分自信があるのね……?」

 私が分からない私のことを知っているなんて、見透かされているみたいで何だか気分が悪い。訝しげな目線でグリムを見ていると、彼女はため息をついて、

「記憶のないアリスに簡単に説明すると、エマ様はヒトじゃないんだ。ここら辺一帯を管理している、カミサマみたいなものだよ」

 と難しいと言った説明を付け加えてくれた。しかし、記憶のないありす、の箇所の語気を強められると、自分が情けなくて黙るしかない。なるほど、神様か。それなら私のことを細かく知っていても、そこまで不思議でもないような気がした。

 そうでなくても、記憶のない状態で外にほっぽり出されているよりかはマシだろう。

「……分かった。それなら私、エマ様に会いに行く」

「よし来た、それならここで会ったのも一つの縁ってことで、ボクが案内するよ。一人では道も分からないだろうからね」

 そしてグリムは少し歩いて立ち止まった。私が早足で横に並ぶと、彼女は前を指差す。

「丘を下って少し行くと、町がある。そこで腹拵えをしようか。お金はボクが払うから」

 目を凝らすと、確かに大きな門が見える。空腹は感じていなかったが、私は黙って頷いておいた。奢りなら断る理由もない。私の反応を見ると、グリムは満足そうに笑った。相変わらず鼻と口元しか見えないが、そこが綻んでいるのが分かる。

「よし、決まりだね。ついてきて」

 門までなだらかな一本道を下っていく。家や店はなく、だだっ広い草原が広がっているだけ。しかも、私たち以外には人の姿が見えない。空は明るいのに、少し不気味に思えるぐらいに静まり返っている。グリムが言いかけた、外が危ないという言葉を思い出した。

「ねえ、門の外に人はいないの?」

「人がいないってわけじゃないんだ。ずっとここに留まっているのが好ましくないだけ」

「好ましくない、ってどういうこと」

 私が首を傾げると、グリムはとても不機嫌そうなトーンで続けた。

「アリスみたいに一人でいる子を狙う悪質な輩もいるってこと。ボクらの仕事は、そういう悪いヤツをしょっぴくのと、キミのような迷っている子を案内することなんだよ」

「うーん……それって大変な仕事じゃないの?」

「真面目にやっていると大変だね。でもボクがこうやって案内役を買って出るのは、アリスみたいなイレギュラーの子が見えた時だけ。好奇心半分ってヤツかな」

 人が困っているというのに、悪びれもなく不謹慎なことを言う子だ。しかしこれから救ってもらうのも確かなので、そこには特に何も言わないでおくことにした。

「そら、門だよ。ふむ、今日はあんまり並んでないな」

 会話に夢中になっていて、彼女に言われるまで気が付かなかった。目の前には巨大な濠があり、そこに横幅の広い橋がかかっている。そしてその先に、随分頑丈そうな見た目の門がどっしりと構えていた。つい見とれていると、グリムに服を引っ張られてしまった。

「並ぶって……あれ、何してるの?」

 グリムと似た服の二人組が門の前に立ち、中に入ろうとしている人に話しかけている。

「入るべきではない人が入らないようにしている。検問みたいなものだよ」

 私たちの前には四人並んでいたが、背格好も、見た目年齢もバラバラ。よぼよぼの杖をついたお婆さんもいれば、妙にしっかりした服装のおじさんもいる。と思えば、私とそう歳の変わらないように見える少年まで、さまざまなラインナップだった。

「アリス。ボクだけじゃなく、他人のことをジロジロ観察するの、やめた方がいいよ」

 グリムにそう窘められるまで、舐め尽くすようにその人たちを眺めていた。特に正装姿のおじさんは、目の前の門とあまりにも合わないので、さらに気になる。一方私が着ているのは、上と下が繋がっている服だ。下はひらひらした布で構成されていて、少しそわそわする。柄は白に黒い水玉模様だ。上着は羽織っていないが、特に寒さは感じなかった。

 前に並んでいた、背が高めのスタイルのいいお姉さんが町の中に入っていくのを見送ると、いよいよ私たちの番だ。私はグリムの陰に隠れるようにして、橋を渡り終える。

 そうして門番らしき二人の前に立つと、右側の男が驚きの声をあげた。

「おい、グリムじゃないか! お前がここに来るなんていつぶりだ?」

 グリムと服装こそ同じだが、門番の方が背が高いため、少し見上げればフードの中が見える。そこから覗く目は、妖しく紅く光っていた。正直、かなり不気味だ。

 対するグリムは、かなり落ち着き払った様子で、

「久しぶり、モルテ。さあ、いつぶりだろうね。ボクはかなり気まぐれだし、面白い方に流れていくだけだよ」

 と、軽く流していた。この態度は素っ気なく見えるけれど、私からすると、とても安定していて安心感がある。私は彼女を盾にするように、その背後へと隠れた。しかし、

「で、その嬢ちゃんはどういう事情でここに来たんだ」

 いきなり左側の男がそう問いかけてきたものだから、思わずびくりと体を震わせてしまった。どう答えればいいのか分からない。グリムはそんな私の方をちらりと見ると、人差し指を自分の唇に当てる。そして小声で大丈夫、任せておいてと告げて、

「ちょっとね、家族とはぐれたらしいんだ。娘を探している親は来なかったかな?」

 トーンを変えずにさらっと嘘をついた。目を丸くする私に構わず、彼女は話を続ける。

「娘を探す親だぁ? 今日は見てねぇな。お前が本気で探せば見つかるんじゃねぇのか」

「はは、ボクはよっぽどのことがない限り、本気を出すのはごめんだよ。それこそ笑い転げるぐらいの面白いことじゃないと」

「ホンット、勿体ねえな。お前ぐらい優秀なヤツが、フラフラしてんのは。オレだったらあちこち巡って稼ぎまくりよ」

「お世辞は結構。もういいかな、早いところ町に入りたい。この子がお腹を空かせてる」

 グリムが一歩踏み出してそう言うと、門番二人は顔を見合わせた。同じタイミングでため息をつくと――仕方ないな、という気持ちが伝わってくる――脇に逸れ、道を開けた。

「さ、行こうか。人が多いから、はぐれないように」

 彼女は私の手を握ってきた。温かいとも冷たいとも言えない、握っている感覚がゼロと言っても過言ではないような、不思議な手だった。

「あの、ありがとう」

「気にしないでいいよ、これぐらいはしてあげないとね」

 私が感謝を述べると、グリムは右手を横に振りながら、くすりと笑みを浮かべた。これが、面白いものが好きな彼女の癖なのだろう。その笑顔を、私は羨ましく感じた。

 

「よし、こんなものでいいかな。遠慮なく食べていいよ」

 町に入った私たちは、人の波に揉まれつつ、最初の目的である飲食店の中へと入った。席に向かい合って座ると、メニューに目を通したグリムが適当に注文をする。目の前にいろんな料理が並べられていくのを、私は呆気に取られて見ていた。

「ええっと、あの、グリムってお金持ちだったりする?」

 このままがつがつ食べ始めるのも気が引けるので、質問を投げてみる。一方グリムは、彼女の一番近くに置かれた白い麺を早速啜っていた。

「んむ、そうだね。ボクは同業者の中では優秀な方、かな。単純に強いだけって感じだけど。でも、もっと真面目な頃もあったから、その時のお金がたくさん残ってるのさ」

「え、真面目だったんだ……全然そんな風には見えない」

 実際、グリムには自由奔放という四文字がこれでもかというぐらいに似合うと思った。

「成績がいい分、妬まれちゃってね。どんどん孤独になった。だから、自由にやらせてもらうことにしたんだよ。エマ様から一定のノルマは課せられているけどね」

 思っていたよりも事情が深そうだった。話題が重くならないうちに、一番近くの炒めご飯に手をつける。口に入れてみても、味がよく分からなかった。

「そんな難しい顔をするものじゃないよ、ボクは大して気にしてないし」

 食べる手を止めないところから、大して気にかけていないのだろう。しかし私は、彼女のそんな態度すら悲しいと思った。独りが寂しいのは、誰だって知っていることだ。

「でも、グリムは悪くないのに」

「ボクが完璧に正解っていう保証もないよ。あの時に周囲と足並みを揃えてれば、目をつけられることはなかっただろうし。出る杭が打たれるのは、世の常だよ」

 そう言って彼女は手に持った食器をくるくると回すと、ボクって自由人だからさ、周りの気持ちなんて分からないんだよ、と付け加えた。

「だけど、貴女が優れているからって、それが虐げられる理由にはならないでしょ」

「あはは、これはお話が平行線になりそうだね。勿論、アリスの言うことも間違っちゃいない。でも、いいんだ。ボクは今のボクの方が好きだから」

 既にグリムは五皿を平らげた後だった。細い体のどこに入るのだろうという量だ。

「それにアリスと会えた。昔のボクじゃ、この出会いはなかったよ。これは確実さ」

「むっ。そういうことを言われると、私も言い返しづらい」

 私が頬を膨らませると、彼女はまたくすりと笑って話を続ける。

「あの場所、キミみたいに子供が一人でいるのは別に珍しいことじゃないんだ」

「……そうなの?」

「ああ、一つしかない通り道だし。さっきボクが適当に言ったように、親と一緒だったけどはぐれた子とか、そもそも一人で来ている子とか。人によって事情は様々だけどね」

「でも、私はそれすら覚えてないんだけど」

「そう、それが問題だ。自分のことが分からないままじゃ、手の打ちようがない」

 あれだけたくさんの料理が並んでいたのに、すっきりしたテーブルに突っ伏す。

「なんで、忘れちゃったんだろう……」

 私は小さい羽虫が鳴くような声で呻いた。自分にまつわる記憶がすっぽり抜けている。思い出そうとしても、頭に不快な靄が溜まっていくだけだった。

「いやいや、アリスはちゃんと覚えているよ」

 グリムが私の顔を覗き込む。口の端に赤いソースを付けたまま。

「全部覚えているけど、無意識の内に避けて――逃げているだけ。辛いことからね」

「なんでグリムがそんなこと分かるの」

「……さあね。強いて言うなら、アリスとボクは一緒ってことかな」

「なにそれ、余計わかんない。でも、逃げているだけ、かぁ。嫌なことから……」

 私は突っ伏した姿勢から起き上がる。そして、宙を見たまま一瞬考え込んでしまった。異変は、まさしくその時に起こった。

 『あいつ、ずっとすました顔して感じ悪いよな』

 『ほんっと、優等生気取ってんのって感じ』

 『ありすなんて名前して、あいつの家、超貧乏らしいぞ』

 『なにそれ傑作。すっごい名前負けじゃない』

「――ッ!?」

 視界が歪む。慌てて立ち上がったグリムの輪郭が揺らいだ。目の前が暗くなり、光が弾ける。頭が痛い、苦しい。まだ思い出してはいけない、と警鐘を鳴らされている。

「しっかりして、ありす!」

 耳元で声がする。手をきつく握られるのが分かった。ほんのり暖かくて、それに少し安心して、私はゆっくりと手を握り返し、意識を手放した。

 

 体が上下に動くのを感じて、目を開く。開眼一番目に入ったのは、グリムの背中だった。何秒か固まった後に、現状を理解し声を張り上げる。

「な、何考えてるの!?」

「落ち着きなよ。気絶したキミを店の中に置いていたら迷惑だろう。だから店を出た」

「おぶって歩く必要はどこに!?」

「え、何。お姫様抱っこをご所望だったのかな」

 そんなことをされたらたまったものではないので、グリムの後頭部に軽く頭突きを食らわせて、降ろしてもらった。引き摺って歩いて貰っていた方が良かったかもしれない。

「いたたっ……まったく。遠慮のない子だよ、ほんと」

「グリムに言われたくないんだけど」

 じとり、と呆れ顔でその横顔を見つめると、彼女はそっぽを向いて口笛を吹き始めた。

「とにかく、今はあまり思い出さない方がいいみたいだ。まだその時じゃない、そんな気がする。何事にもタイミングってものはあるから」

 気を失う前に流れたあの映像は、私の記憶で間違いないだろう。しかしグリムが言うように、思いだそうとする度に倒れてしまうのなら、体がもたないのは確かなことだった。

「こうなると、先を急いだ方が良さそうだね。このままじゃ不安過ぎるから」

「やっぱり、エマ様に聞くってこと?」

「そうなるね、でも半分ぐらいは来たよ。キミがぐったりしている間にだいぶ進んだ。さっき町を出たから、暫く歩いて川を渡れば、エマ様の住んでいる場所はすぐそこさ」

 私が振り返ると、先程見たものと瓜二つの門が立派に構えているのが分かった。随分狭くて閉鎖的な町だなと思う。しかし過ぎたことより、私はこれからの行程が気になった。

「川……川ね……」

「あれ、泳げなかったりするのかい? 平気だよ、船があるから」

「そういうわけじゃないけど。なんか怖いなって、なんとなく……」

「はは、恐ろしく的を射ない答えだね。もう無理して思い出さなくていいけど」

 霧がかかったように一切が思い出せないのも気分が悪いが、また倒れてしまえば彼女に迷惑をかける。私は頭を横に振って無理矢理思考を断ち切った。

「そんなに振ったら頭がふっ飛ぶんじゃないかな」

「ふっ飛ぶわけないでしょっ」

 彼女の冗談に突っ込みを入れ、歩みを進める。町に入る前の草原とは違い、ゴツゴツとした岩場が多くなった。少し歩きづらいのと、見ていてあまり気分が落ち着かない。こんな場所にエマ様は住んでいるのか。それとも、川を渡ればまた違う風景が広がっているのか。いろいろな考えが浮かんでは消えたが、今はグリムについて行くしかなかった。

「お、開けてきた。アリス、そろそろ川が見えるよ」

 急な石段を転ばないよう慎重に降りると、やたら石が多い、広い河原に出た。川の向こうを見つめると、対岸に島があるのが分かった。あれが目的地のようだった。

「ボクもここに来るのは久しぶりだ。長らくサボっていたからね」

「向こう岸にエマ様が住んでいるのよね?」

「そう、だからあとちょっと。船のある場所はこっちだ。付いてきて」

 左の方向へと川沿いを下っていく。程なくして桟橋と、船が二隻見えた。グリムが船頭さんに運賃を渡し、私たちは船に乗り込む。足元がふらふらして、やはり怖い。気を付けつつ座ると、恐らく木材でできている簡単な作りのそれは、静かに発進した。

 空を見上げると、黒い毛なみの鳥が彼方へと飛んでいった。そして遠くから、ぴっ、ぴっ、という甲高い鳴き声がする。嗄れた声を想像していたので、違和感を覚えた。

「どうして仏頂面で空を眺めてるのさ」

 向かい合って座っているグリムが、私の方を見て言う。

「鳥の鳴き声が変だなって」

「鳥が? 記憶が無いのに変だって言うなんて、それこそ変なことじゃないかな」

「それはそうかもしれないけれど……」

「ほら、あんまり考え込むのは止した方がいい。船上で倒れるのは勘弁してほしいな」

 けらけらと笑って、グリムは懐から棒状の包みを差し出した。

「飴、あげるよ。さっき川が怖いって言っていたから、これで気持ちが紛れたらいいな」

 こういう思いやりを見せられると、どれだけからかわれても私は彼女を憎めなくなりそうだ。包みを解くと、細い棒にくっついて、ギザギザの波線のような形の、薄い黄色の飴が出てきた。ほんのり果実のような甘い香りがしたが、口に含んでみると味がよくわからなかった。船の上で余裕がないからか、またはここら一帯の食べ物があまり美味しくないのか。しかし気が紛れるのは確かだったので、私はグリムの優しさをありがたく思った。

 飴が舐め終わる前に、船は対岸へと達した。船頭さんにお礼を述べて、陸へと上がる。

「で、エマ様はどこにいるの?」

「なかなかキミもせっかちだね。というか見てわからないかい、あれ」

 もはや指を差すまでもないと、グリムは顎で道の先へと私の視線を促す。そこには城と言っても過言ではないぐらいの、巨大な屋敷が構えていた。

「さ、行こうか。ここまで来ればもう終わったようなものだし」

「……グリムともお別れ?」

「それはどうだろう。アリスがこれからどうなるか、決まったわけじゃないから」

 そうだ。記憶を取り戻した後の私は、どうすればいいのだろう。全てを思い出せば、自然に理解出来るのかもしれないけれど。近くで翼を休めていた黒い鳥が羽ばたいて、また甲高い鳴き声が聞こえた。先程のものより、間が長くなっていた気がした。

 先導していたグリムが金属で出来た門を押して開ける。門番はいない。庭は薄暗く、道の脇に灯った火が、私たちの影をゆらりゆらりと照らす。屋敷の扉が、重苦しい音を立て、ひとりでに開いた。雰囲気に呑まれ、私は一言も発せられなくなった。

 エマ様の部屋はどうやら地下にあるらしい。私はグリムの後にぴったりと張りつき、ぐねぐねとした通路をあちらこちらに曲がり、緩やかな階段を下っていった。

「さあ、ここだ。並んでいて。なるべく静かにね」

 一際大きい扉の前に立つと、グリムは上を見上げて言った。私は言われた通りに、前にいるおじさんの後ろに並ぶ。それを確認すると、また後でね、とだけ残し、彼女は奥の通路へと消えていった。一人になって視線をさまよわせていた私は、そこであることに気付く。前に並んでいるおじさんに、見覚えがあったのだ。

 町の前の門に並んでいた人だ。服がぼろぼろになっていたので、気が付かなかった。そして何を思ったか私は、彼の背中を押して、声をかけてしまった。

「……あの」

 不思議そうな顔で、おじさんが振り向く。やつれていて、顔も痣だらけ。顔色も悪い。今まで後ろからしか見ていなかったせいか、後ろ姿とのギャップに驚いた。

「ええと、その。さっき町の前で見かけたんですけど……その傷、どうしたんですか」

「ああ……。自分のしでかしたことに後悔して、やっぱりここから逃げたいって思った。でもあっけなくフードのやつらに押さえられた。これはそん時の傷」

「え、悪いことしたんですか……?」

 私には、目の前のおじさんが悪い人には見えなかった。人を見かけで判断するのはよくないけれど。それよりも、逃げたい? 何のことを言っているのか、理解できなかった。

「迷惑かけたから、悪いことをしたのかもな。電車に突っ込んで自殺したんだ、俺は」

「え……?」

「いや、死後の世界なんてあるんだな。生前は鼻で笑い飛ばしていたけど、今こうなっちゃ全く笑えないわな」

「え、あの、死後の世界って。私、記憶が……」

 質の悪い冗談かと思ったけれど、その一言が引き金になり、私は全てを思い出した。

 彼岸花。グリムのここに留まるのはよくないという言葉。味のしないご飯。意識を失っていた私を運んだグリム。彼女が急いでいたのは、倒れた分のロスを回収するためだろう。石だらけの河原。変な鳥の鳴き声。舐めた飴は卒塔婆の形。

 グリムは最初から、私をここに連れてくるのが目的だったに違いない。フードの中の彼女の顔がどう動いていたのかを、私は知らなかった。口元の微笑に、騙されていたのだ。

 

 ――しっかりして、ありす!

 

 驚いた顔のおじさんを後目に、私は逆方向へと逃走を始めた。もう形振り構っていられない。グリムが気がつく前に、この屋敷から脱出しなければ。階段を駆け上り、通路を右に曲がる。そしてまた階段を上る。しかし、そこで私の足は止まった。部屋に行き着くまでに、やたら何回も曲がるなと疑問には思っていた。グリムは道順を完璧に覚えていたようだけれど、私にはどの階段を使って、どの通路を通れば外に出られるかが分からない。物陰に縮こまり、これからどうしようか考えていると、近くで話し声が聞こえた。

「子供が一人、消えたんだってな」

「がはは、子供か。すぐ捕まってエマ様の前に引き摺り出されるに決まってらぁ」

 まずいことになってしまった。どうやらグリムはすぐに戻ってきたらしい。このままでは、時間が経つほど逃げるのが困難になる。今すぐにでも地上に――

「早く戻らないと、なんて考えているのかな、キミは」

 足音は聞こえなかったのに、私の真上で声がした。視線をゆっくりと上に向けると、ローブ姿の少女が立っていた。……グリムだ。

「そんなに怯えた表情にならなくてもいいよ、ボクらはキミを、煮たり焼いたりして食らうわけじゃないんだから。さ、戻ろう」

「嫌だ、私が戻るのは下じゃない、上なの!」

「アリス、キミに手荒な真似はしたくない! ボクの言うことを聞いてくれ」

「今信じろって言うの!? 私のこと騙すような真似したくせに!」

「それは……でも、本当のことを伝えたら、確実にキミは混乱しただろ」

 よく聞いてくれ、とグリムは私の隣にしゃがみこんだ。

「そもそも、アリスが逃げたと言いふらしたのはボクじゃない。キミの前に並んでいた人だ。教えたら自分の罪が軽くなるとでも考えたんだろうね。今更無駄なんだけど」

 彼女は大きなため息をつく。心底退屈だ、という気持ちが込められている気がした。

「それに、キミは望んでここに来た。川に飛び込んで、死のうとしたんだ」

 耳を塞いでしまいたい程の事実を突きつけられる。でも、今更後には引けなかった。

「後悔してるんだってば、だから戻りたいの!」

「ボクさ、別に逃げることは悪くないことだと思うんだ。キミみたいな小さな子が自ら死ぬ道を選ぶなんて、よっぽどひどい経験をしたんじゃないかな」

 ぽん、と頭に手を置かれる。温もりがない、生きているとは思えない体温だった。

「騙したのは謝る、確かにボクはエマ様に命令されて動いていたよ。アリスのことを最初から知っていたし、キミに詳細を伝えずにここに来た。でもアリス、この世界に来てまで傷だらけになる必要はない。ボクが傍にいれば、キミには誰だって手出しできないさ」

「確かに私は、グリムと同じだった。嫉妬されて、一人になった。それが辛くてここに来た。でも、私は帰りたいの。自分勝手かもしれないけれど、私を呼ぶ声がするから!」

 私には帰る場所があるのに、そのことをずっと忘れていたのだ。

「アリス、キミの手……!」

 グリムが声をあげる。自分の手元を見ると、ゆっくりと自分の体が点滅しているのに気が付いた。私の手を通して、地面が見えたり見えなかったりを繰り返している。

「この世界でのキミの存在が、揺らいでいるんだ。前兆はあったから、早めにエマ様へと引き渡したかったけど……もう遅いや。戻りたいっていう意志は強固みたいだね」

 そう言って笑うと、彼女は左右を確認して立ち上がった。

「ここはアリス一人じゃ戻れないからね、ボクが案内するよ」

「え、いいの? 道だけ教えて貰えばいいんだけど」

 私がそう聞き返すと、グリムは呆れた、という風に天を仰いだ。

「追っ手が来るに決まってるだろ。脱走者をむざむざ見逃すボクらじゃない」

「だったら、尚更! グリムだって、そちら側でしょ? 私を見逃すだけでいいから」

「あーあ、さっき言ったばかりなのに。もう忘れちゃったのかな」

 グリムがフードを脱ぐ。透き通った赤い瞳が露になり、私の視線を釘付けにした。

 

「ボクは面白い方に流れるんだよ。さ、行こうか。キミの、最後の逃避行だ」

 

 差し出された右手を掴む。遠くから走る足音が聞こえ、私たちは顔を見合わせた。

「走るから、しっかり付いてきなよ」

「言われなくても分かってる!」

 服の裾をはためかせ、前を行くグリムは迷いなく右へ左へと曲がる。私はその後を必死に追った。階段を一段飛ばしで駆けていくと扉が見え、グリムが蹴飛ばして開け放つ。階数を重ねる毎に、追っ手が多くなって来ているのを感じて、思わず身震いをした。

 門を抜け、直線の道を全速力で走り抜ける。目の前に川が迫ってきた。

「そういえば川、どうやって越えるの? グリムって船は漕げる?」

「脱走はノープランでしないでくれるかな。勿論漕げないから、ちょっと失礼するよ」

 脚と肩に触れられたかと思えば、私は軽々と彼女の胸の前へと持ち上げられていた。

「結局することになっちゃったね、お姫様抱っこ」

 恥ずかしさで顔が真っ赤になった。しかし、この体勢でどう川を越えると言うのか。

「そういう伏線は回収しなくていいから! で、水の上でも歩いていくの?」

「当たらずとも遠からず、かな。こうやって行くんだ!」

 助走を付けると、グリムは川へ向かって跳躍した。驚いた私は、落ちない様に彼女にしがみつく。そうして川面が近づいた、と思った瞬間にはまた空へと浮かんでいた。信じられないことに、水面上をジャンプして渡っている。

「なんで行きは使わなかったの!?」

「今は非常事態だし! キミがいる分、これでも遅い方さ。船で移動したら秒で捕まる」

 ふわりと対岸へと着地したグリムは、私を優しく降ろしてくれた。後ろを見ると、川の上を渡ってくる影が見える。皆一様にローブ姿だ。ざっと数えただけでも五十人以上はいる。恐ろしくなって、私たちはまた走り始めた。

「やれやれ、優秀なことで。ま、走り続ければ追いつかれやしないよ、急ごう。キミの体が完全に見えなくなる前に、あの大木の場所まで行かないと」

「見えなくなったらどうなるの?」

「それ、この状況で聞く? 向こうにも戻れず、こっちにも受け入れられず、永遠にさまようことになる。ちなみに今から屋敷に戻っても遅い。捕まったら最悪だ」

 河原と岩だらけの道を抜け、町に入るのを止めようとする門番をグリムが突き飛ばす。驚いた眼差しの通行人を押し退け、置かれていた樽を蹴飛ばし、それでも走るのをやめなかった。騒ぎが大きくなる度に、グリムの口元はにんまりとしていった。

「ほんと、グリムって愉快犯みたい」

「あながち間違っちゃいないね、ボクは面白くてやって――」

 言葉を切り、グリムが視線を空へと向ける。そしてその目を細めると、顔を歪めた。

「まずい、鳥だ。伝達用の手紙をぶら下げてる。モルテに伝えるつもりだ。さすがに追いつけないと思ったか……なにかあったらボクが食い止めるしかないか」

 グリムは真剣な表情で私の方を見る。どう答えればいいのか分からない。

「で、でも、グリムは」

「ボクは一緒に行くわけじゃない。キミが帰れたら、それで勝ちだ。迷ったらダメだよ」

 とうとう私たちは門に辿り着いた。そしてグリムが危惧していたように、二人の門番が道を塞いでいる。間をすり抜けたら捕まってしまうだろうか。左側の男が口を開いた。

「伝書が来た。グリム、てめぇ、どういうつもりだ?」

「出来ればその質問は後にして欲しいね。十五分後ぐらいにしてくれるとありがたい」

「無駄口を叩くな! 良いから、そいつをこちらに引き渡せ」

 右側の男が一歩、こちらに踏み出した。しかし、下がるわけにもいかない。

「面白い冗談を言う、この子の体がどうなってるか分からないのかい?」

「てめぇは甘いんだ、グリム。必要以上に死者に情けをかけるな」

「アリスは死んでない、まだ戻れるんだよ。今すぐそこを開けてくれさえすれば、ね」

「俺たちまで裏切り者にする気か? 優秀なお前と違って、下っ端の俺たちは、そんなことをすれば門番すら出来なくなるんだぞ」

 左と右の男が、口々に言う。後ろのざわめきがにわかに大きくなってくる。

「ああ、ホント。うんざりするんだ、警告しているのに聞かないやつって」

 そう呟くと、グリムは右の男に向かってスタートを切った。私と走っていた時とはスピードが違う。これが彼女の本気なのか。

「グリム、てめぇ何を……ぐっ!?」

 軽く跳躍すると、左の男の顔面に素早く膝蹴りを浴びせる。その一撃で男はよろけた。そして彼が背中に背負っていた鎌を奪うと、右側の男に向けて振るう。呻き声とともに布が切り裂かれ、彼は尻もちを付いてしまった。流れるような、鮮やかな手際だ。

「ボコボコにすると悪いからね。それより、もう時間がない。無駄な時間を食った」

 自分の体を見下ろすと、私が気付かないうちに、腕がほぼ透明な状態になりつつあった。男の体を飛び越えると、町を後にする。

 ようやく、私とグリムが初めて出会った場所、あの大木が見えてきた。私たちは手前の丘の前で止まった。グリムが深呼吸をして、私の方を向く。

「あの木の向こう側が、キミの世界へと繋がる帰り道だ。覚悟はできたかい?」

「あの、グリム……ありがとう」

 私が一つうなずいて言うと、彼女はきょとんと目を丸くして、

「いいよ、ボクも面白いものを見せてもらった。逃避行も、これで終わりだけど――」

 それから、目を細めてにこりと笑った。あの世で一番輝いている笑顔なのだろうなと、確証もなかったけれど、そう強く感じた。

「――次に会う時は、キミがおばあさんになっていることを祈るよ」

 だから私もつられて、涙を浮かべながら微笑を浮かべる。別れたくない、と思った。

「うん、その時は、また」

「ああ、迎えに来る。だから、それまで少しだけお別れだ」

 背後の喧騒が徐々に大きくなってくる。グリムが私の背中に、右手でそっと触れた。

「時間だね。あ、またすぐ来たとか言ったら、その時は首を撥ね飛ばすから」

「えっ。死後の世界じゃ、死なないんじゃない?」

「死なないけどすごく痛いと思う。くっついたらまた撥ね飛ばす」

 くすり、と彼女らしくグリムが笑う。私は大木の向こうを見据えた。暗闇が広がっていて、何も見えない。

「これは、私が選んだ道だから。もう後悔しない」

「……うん、それでいい。じゃあね、アリス。キミに会えてよかった。ボクの方こそ、」

 ありがとう、と唇が動くのが見えた。グリムの背後から迫り来る追っ手たちと、呑気に手の平を振る余裕な態度の彼女が、とてもおかしくて、私は大きく叫んだ。

「またね、どうもありがとう!」

 刹那、闇が私を飲み込む。自分が上っているのか、下っているのかさえ分からなくなる。揉みくちゃにされ、それでも必死にもがき続ける。戻りたい、と強く願った瞬間、眩い光に包まれた。キミはよく頑張ったよ、という彼女の声が聞こえた気がした。

 

「……す、……りす」

 誰かが私を呼んでいる。とても暖かくて、安心出来る声だった。その声に引き上げられるように、私は。

「ありす! よかった……」

 ゆっくりと目を醒ました。視界に白い天井が映る。すぐ隣に座っていた女性が、私の右手を握って、ベッドの上の私を見つめている。顔には涙の痕が見え、目は腫れぼったい。お見舞いに持ってきたのか、棚に綺麗な花と林檎が置かれていた。

「おはよう、お母さん。えっと、ただいま?」

「バカ、心配したのよ、本当に……!」 

 ゆっくり起き上がると、痛いぐらいに抱きしめられる。触れた温もりが、耳元でするすすり泣きが、私に生きているということを感じさせた。

 あの世界は、本当にあったのだろうか。たとえ私の夢だったとしても、次に彼女に会う時には、胸を張れるようにしたいと思った。

 カーテンが揺れ、私の風を頬が撫でる。真夏の太陽が、病室を静かに照らしていた。

 

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