ブラックホール(完結) 作:At.f
独りになってから、一体どれだけの時が過ぎただろうか。大体百を過ぎた頃から数えるのをやめてしまったニルには、全くもって見当が付かなかった。ただ確かなのは、何百年経っても自分の容姿が全く変わらないのと、そんな気の遠くなるような時間を過ごしておきながら、訪ねてくる者が一人もいなかったことぐらいだ。木々がひしめき合う鬱蒼とした森の中、朽ち果てた一軒家の裏側にある庭が、彼の住処だった。かつてはビニールで覆われていたその裏庭も、今では鉄の骨組みすら錆び付いて、その大半が折れてしまっている。長い期間をかけて風化していくそれを毎日見る度に、どうして自分の姿は変わらないのだろう、と不思議に思うのであった。
ニルの日常は、いたって代わり映えのない日々だ。朝、小鳥の囀りで目を覚ませば庭を後にし、そばに流れている小川で水を啜って顔を洗う。白髪で碧眼の、その整った顔が波紋でゆらゆらと揺れた。そうして、そこら辺を泳いでいた小魚を何匹か握って取り、踊り食いをする。ぴちぴちとした感触がすり抜けていって、喉越しがとてもいい。腹ごしらえを終えると、猿と木登り対決をして、木の実を分け合って食べる。森の主気取りの熊の肩を揉み、その毛皮でもふもふの膝を借りて昼寝。目覚めるともう日が傾きかけているので、熟れた果実をいくつかむしり取ると、庭へと帰宅するのだった。こんなことをもう十万回は繰り返している。だから今日も今日とて、猿達と木登り競争に興じていた彼は、今までとは明らかに違う異変を感じ取った。
「んぐ……?」
木の上に登り、遠くの景色を眺めながら呑気に木の実を齧っていた時だった。真っ白な鳥達が大群を成して、ニルの頭上を突っ切っていった。何事だと思った次の瞬間、青い空を切り裂いて、赤く眩い光が堕ちてきたではないか。何百年も生きてきた結果、あらゆることに図太くなった彼でも、予想外の事態に呆気に取られた。赤い光は尾を引いて、そのまま地上へひゅるひゅると落下していく。そして重く低いずどおんという音が響くと、木々が忙しなくわさわさと揺れたので、ニルは咄嗟に木にしがみついた。
(隕石……?)
木の実を齧り齧り、彼はそのようなことを考える。とりあえずは様子を見ておかないとならないと思い、木からするりと降りた。猿に別れを告げ、生い茂った草を掻き分けつつ、何百年ぶりかの事件に少しだけ胸を踊らせた。
「あーあ、なんでこうなっちゃったかなぁ……」
ステラ・ヘクセラは誰に言うでもなく、ウンザリしたトーンでぽつりと呟いた。ちょっとした家出のつもりが、見たこともない惑星に不時着してしまったのだから無理もない。彼女が乗っていた一人用の宇宙船は、墜落の影響であちこちが故障してしまい、すぐにこの星から離脱できる状態ではなかった。
「お母様に助けてって言うのも面目が立たないし、大体ここってどこなの……?」
宇宙船のパネルにはノーシグナルの文字がゆっくり点滅するのみで、ステラの現在地を表してはくれない。レーダーも墜落で故障しちゃったかな、と彼女は首を捻った。どこにいるのかが分からないとなると、救難信号を送って待つ他にやることがない。ステラは途方に暮れると同時に、少し安心もしていた。これなら暫くの内は忌々しい怒号からも解放される。一週間経ったら戻る気ではいたが、今頃父親が必死の形相になって自分を捜していると考えると、少し愉快な気分にもなった。
「って、よくよく考えたら一週間分の食料しかないのが問題か。自然があるってことは、外での活動もできる、よね」
ステラはコックピットの窓から外を覗く。真っ青に晴れ渡った空を背景にして、白い鳥が飛んでいるのが見えた。どうやら酸素がありそうだ。どちらにせよ、ここに閉じこもっていても埒が明かないと考えたステラは、意を決し外に出てみることにした。出入口のハンドルを回し、周りを警戒しながらそっと扉を開ける。宇宙船が墜落したことによって木が倒され、辺りの地面が窪んでいたが、それ以外の異常はない。ゆっくりと深呼吸し、特に息苦しさを感じないことを確認すると、ひとつ大きく伸びをした。
「んーっ。とりあえず、損傷がないか見ておこうかな」
まずは宇宙船の点検を始めようと、ステラは機体の裏側へと歩みを進めようとした。しかし、そこには自分と大して変わらない年齢に見える少年がいたのだ。彼はその場にしゃがみこみ、熱心な眼差しでステラの宇宙船を眺めていた。
「……へっ?」
想像の右斜め上を行く事象に、ステラは生まれてこの方出したこともないような、腑抜けた声をあげた。そうして、その声でこちらに気付いた少年と、ステラの目が合う。
「えっ、あの、君は……?」
少年はステラを見るや否や、目玉が落ちてしまうのではないかと言うほど、驚いたように目を見開いた。一方ステラも、知らない惑星で人間に遭遇するとは思っておらず、伝わるかも分からないというのに、うっかり母国語で話しかけてしまった。
「ッ!?」
少年はあわあわと身振り手振りで何かを伝えようとした後、一気に青ざめてステラから一目散に逃げていった。
「え、あっ、ちょっと! 待ってよ!」
ステラも走って追いかけようとするが、相手はこの森の中に住む野生児。瞬く間に距離は拡がり、ステラ側から彼の姿はすぐさま見えなくなってしまう。
「何、どういうことなの……?」
ステラは唖然としたまま、謎の少年が消えた森を見つめていた。
「に、人間、だ。なんでここに、来たんだろう……」
ニルはすっかり、人類は絶滅したものだと思っていた。大きい熊の膝を借りながら、ぼーっと過去の回想に耽る。始まりは、遠い昔のことだ。
彼がまだ幼い頃――と言っても、容姿は今とさほど変わらないが――この星にもたくさんの人類が住んでいた。そして、彼もそのまた一人だった。しかし、星の資源が底を尽き、環境問題が段々と危機的なものになり、各国の関係が険悪になっていった。そうして、人類は本格的な殺し合いを始めた。弱肉強食、敗者は滅びゆく定めだと言わんばかりに、限りある安全地帯を巡って命懸けの椅子取り合戦。その中で、ニルもとある研究所に招集された。国のお偉いさんが言うには、少年達をとてもすごい兵器にし、他国を討ち滅ぼす……そういう内容の作戦だった。当時のニルにはよく理解できなかったが、そういう経緯で、彼は人間ではなく、人間の格好をした兵器に生まれ変わったのだ。
しかし、他の少年達には見られなかった力が、ニルだけに発現することになる。彼は改造手術が終わった直後、五秒で自分を兵器にした白衣の男を殺した。それと同時に、自分の身体の中へ鈍い痛みと共に何かが入ってきたのを感じる。彼は文字通り男の命を奪い、自分のものとしたのだ。この時点で、ニルの寿命は百五十年近いことになる。しかし、当時のニルはその事実を知る由もなく、研究所のあらゆる人に助けを求めて回ろうとした。そうしてできあがったのは、白衣を着た死体の山と、三千五百年ほどに延びたニルの寿命だった。だが、それだけでは終わらない。命からがら逃げ出した研究者の一人が、お偉いさんにとんでもない少年が現れたと報告してしまった。元々兵器にされるはずだったニルのことだから、身体もとても頑丈で、その上に大体五十人分の命まで持っている。誰だってこれに食いつかない手はない。すぐさま実戦へ投入され、戦場で撃たれてもまた起き上がる彼の姿は、さながらパニック映画に出てくるゾンビのようだった。それが命を奪えば奪うほど強固になっていくわけだから、かなりの数の国と兵士が恐れおののき、白旗を挙げた。それをしたところで、彼の近くにいれば命を吸い取られてしまうのだから何の意味もなさなかったが。そうして戦争が終わり、ニルのいた国は勝者になった。しかし、その時点で人類は絶滅寸前。そして彼もその能力を恐れられ、今住んでいる森の中に幽閉された――これが事の顛末である。それから何百年もの間、彼は人間と顔を合わせることはなかった。けれど、それでいい。ニルだって人の命を奪いたくはない。もちろん研究所に呼ばれたのだって、自分の意志ではなかった。先程だって、宇宙船の中から生きている人が出てくるなんて、思わなかったのだから。
「あーっ! こんなところにいた!」
森の中でも大きく響く高い声に、過去を思い出していたニルはびくりと肩を震わせた。声のした方にさっと視線を向けると、そこには宇宙船から出てきた少女がこちらを指差して立っていた。綺麗な赤髪に端正な顔立ちで、赤色のポシェットを肩から提げ、真っ白なブラウスと茶色のコルセットスカートという、鬱蒼とした森には全く似合わない容姿をしている。ニルは毛皮を服代わりに着込んでいるだけなので、まるで原始人と未来人が邂逅したような滑稽な絵面がそこに生まれた。
「わわっ、ちょっとストップ。聞きたいことがあるからー!」
ニルはまた背を向けて逃げ出そうとしたが、少女が大声でそれを止めた。恐る恐る振り向くニルに、少女は一歩を踏み出した。
「ち……近寄らないで、危ない」
ニルは慌てて自分の右手を前に突き出し、これ以上進むな、のサインを出した。ニルは今までの経験から、どれだけ近付いたらその人の命を吸ってしまうかというのが感覚的に分かっている。いきなり出てきた少女に驚き咄嗟に逃げたのは、彼女をこんな場所で死なせないために他ならなかった。
一方少女は、自分の発した言葉が翻訳機を介さずとも伝わったことに少しだけ驚きながらも、そんな彼へ向かって慎重に会話を続ける。
「危ないって――なんで? その後ろにいる熊のこと?」
「違う、僕が、危ない」
「全然危険人物に見えないんだけどなー……」
少女がそう言うのも無理はなく、ニルの容姿は彼女の星にいた男子達とそう変わらなかった。頬に埋め込まれている、機械のチップが集まったような鱗を除けばだが。しかしこれこそが、兵器であるニルと人間とを見分ける目印であり、彼もこの鱗を、内心では忌々しいものだと思っていた。
「むー……分かったよ、近づかない。でも、質問はしてもいいよね?」
ニルの真剣な表情からただならぬ事情を察したのか、少女は不本意そうながらもその場で立ち止まった。とりあえず距離を取れた安心からか、ニルは何度もこくこくと頷いた。
「私はステラ・ヘクセラ。君の名前は?」
「……ニル」
「え、なにか他にないの? それともニが名前でルが名字?」
「違う。名字はあったかもしれない。けど、忘れた。ニルが名前」
「ええーっと……親御さんは?」
「多分もういない。どこの誰か分からないから、確かめようもない」
「どうしてこんなところにいるの?」
「ずっと昔から、ここに住んでいる」
最後の答えはステラを大いに驚かせた。こんな、人が誰も住んでない星で、一人で生きてきたの? 昔からとは言ったが、ステラの目にはニルが自分とさほど年齢が変わらない少年に映るので、余計に混乱してしまった。
「うーん……つまりはこの星の原住民? 君以外の人がどこにもいないんだけど」
「長い間、誰とも会ってない」
「この森に一人ってこと!? あーっ、ますますワケ分かんなくなってきた!」
ステラはつい先週こっそり見たサバイバル映画を思い出した。もっとも、主人公は目の前の貧弱そうな少年ではなく、屈強なマッチョの男であったから、ますますニルへの疑問が積もっていく。ステラ的には、うっかりスペースデブリに追突して、自分みたくこの星に不時着したと言ってくれた方がありがたかった。意思疎通できるのは不幸中の幸いだが、彼女とて人の子なので理解の範疇を超えてしまうことはある。よくよく思案して、ステラは一つの結論を導き出した。
「うーん、できれば、君の家に案内してくれない? 実は今日の私、行くとこないんだよね。この星に観光目的で来たわけじゃなくて」
一人ぼっちの子を、このまま放っておけない。その気持ちを彼に悟られないように、苦笑いを一つしてステラはそう言った。ニルはしばらく迷っていたが、彼も女の子を森に一人で居させるのはかなり心が痛んだので、
「……分かった。こっちにある、ついてきて」
と、若干渋々と答えた。くるりと反転し、森の中を住処に向けて迷いのない足取りで歩んでいく。後ろに着いてくるステラが、感嘆の声を上げながら見たことのない機械を木や猿たちに向けていたが、理由を聞くと、
「私の星、野生の動植物ってあんまりなくて、大抵は人の管理下にあるんだよね。建物もほぼ機械で構成されてるし」
ニルにとってはちょっぴり寂しい答えが返ってきた。一人ぼっちの彼にとっては、この森に住まう生命たちが家族みたいなところがあったから。ニルには機械だらけの星は想像がつかない。はるか昔でも、この星の全土がロボットとビルディングで占められることはなかった。
「それは、いいこと?」
「発展してるって思えばいいことかもしれないけど。でも、私はあんまり好きじゃないな、私の世界」
「む……色々ありそう」
「そんなに含んだ言い方、してるつもりないんだけどなあ」
ステラはくすりと笑って、ニルの追及をかわした。彼はむっとして何か言葉を継ぎ足そうと思ったが、そこで見慣れた廃屋が出てきたのでやめることにした。
「え、これが家……?」
「違う。この裏」
きょとんとした反応のステラもお構いなしに、ニルはいつも通りすたすたと家の裏手に回る。そうして後を付いて行ったステラが見たのは、幻想的な風景の庭園だった。見たことのない植物が生い茂り、ひらひらと白い蝶がそこかしこで舞っている。ニルが他の生き物も住みやすいようにと、努力して手入れしていた結果だ。ステラは思わず感嘆のため息を漏らした。
「うわあ……ここに住んでるの?」
「寝て起きてるだけって方が正しい。いつもは一日、ほとんど森の中」
「なるほどね。これなら寂しくないわけだ」
「でも、こうして人と話したのは久しぶり。けっこう、嬉しい」
ニルはにへりと柔らかい笑みを浮かべた。兵器として恐れられていた彼は、改造されてからというものの、作戦の事務的な命令しか伝えられてこなかった。人と近づけないため、特殊な無線機で。動物たちと遊ぶのは楽しいけれど、ステラとの会話はそれ以上の感動がある。ニルはそのまま芝生に寝転んだ。
「ふふ、そっか。私もこうやって普通に話すのは久しぶり。ニルほどじゃないんだろうけど」
「……ステラも、ひとり?」
ニルが顔だけ起こしてそう聞くと、ステラはその仕草を見てくすっと笑った。
「ううん、両親がいるから一人じゃないけど。私、小さい頃から厳しく育てられてきたから」
「むむ、なんだか息苦しそう」
「苦しかった。決められた道を完璧に進むようにされていて、家の名前に相応しい子になれって言われて。特にお父様は怖かったな」
「大変じゃ、ない?」
「うん、すごく大変。期待には応えなきゃいけないし、他の年頃の女の子みたいに自由に遊ぶことだってできない。いつだって、私は籠の中の鳥だった」
「だからステラは、ステラの世界が嫌い」
「うん。発展するために進むのは素晴らしいことだけど。これが本当に正しいのか、まだ今の私には分からない」
ここまで育ててもらっておいて自分勝手かもしれないけどね、とステラはそう付け加え、ニルと同じように芝生に寝転ぶ。
「空、高くて青くて、綺麗だなあ……」
「夜になると、もっとすごい。星がたくさん見えるから」
「へえ、いいこと聞いちゃった。端末のバッテリー残しとかないと。見える星空も私のところと全然違うだろうし」
「空がよく見える場所、知ってる。……行く?」
「えっ、いいの!? 行きたい!」
ステラはガバッと上体を起こして、ニルの方を期待の眼差しで見つめる。ニルもその反応が満更でもないのか、にぱっと満足気な笑みを浮かべた。
「よし、決まり。……その服装、ひらひらして動きづらそう。平気?」
「うーん、多分大丈夫でしょ。ご心配なく」
先に立ち上がったニルに、服に付いた草もそのままでステラも続く。空のよく見える、開けた場所――森の中にある小高い丘を目指して、二人は裏庭を後にした。
「ニルーっ、まだ着かないの……?」
「まだ。ステラ、思ったより体力がない」
「それを言わないでよー! 仕方ないでしょ、本当に家から出ないんだし」
草木を掻き分けてずんずん進んでいくニルに、ステラはかなりの遅れをとっていた。一切足を止めず、道なき道を進んでいくその姿に、感心するやらもう少し休んでほしいやらで、複雑な気分だった。
「ねえ、ここが森のどこかって分かるの?」
「変なことを聞く。ずっと住んでいるから、覚えないわけがない」
「いやいや、覚えるってレベルの広さじゃないでしょこれ……私にはどこまで続いてるかも分かんないよ」
彼が恐らくできるだけ短めの道のりを選んでいることは分かるのだが、ステラにとってはどれだけ歩いても景色が変わらないように思える。おまけに彼女は革靴を履いており、それが更に歩きづらさを倍増させていた。舗装のされていない地面の、泥がべたべたと張り付いて鬱陶しい。ステラは足を少し乱暴にあげて、そして、強めに地面につこうとした時だった。ニルを追うのに必死になっていたステラの目線が、今の足元が切り立った崖の上だということに気付かず、ずるりと足場を踏み外した。
「きゃ……っ!?」
ぬかるんだ地面がステラの左足を取り、横へと滑る。高所だからといって柵があるわけもなく、重心がぐらりと左に傾き、右足で踏ん張ることもできなかった彼女の身体が宙に投げ出された。
「……あぶない!」
ステラは何か掴めないかと慌てて右腕を伸ばす。次の瞬間、素早い動きで戻ってきたニルが、身を乗り出してその手首を握った。『とてもすごい兵器』の彼は、反射神経もその場の判断力もずば抜けている。それは何百年経とうと、変わらないことだった。しかし――
(痛く、ない? どうして、そんなことが……)
――人に近づき命を吸い取る時の、あの鈍い痛みがなかった。ましてや、直接触っているというのに、何故? 駄目だ。ニルは頭をぶんぶんと振り、目の前の宙ぶらりんの少女を助けることに集中しようとした。どんな理由にせよ、ステラの命を奪わないのなら、落ち着いて助けることができる。右腕に力を入れ、左手で踏ん張り、ステラの身体をぐいっと引き上げた。
「ケガ、してない?」
「大丈夫、助けてくれてありがとう……そ、それより、近づいちゃって大丈夫だったの?」
ステラが慌てたようにそう聞くと、ニルはどうすればいいのか困ってしまった。今まで彼に近づいた者は五秒として持たなかったのに、ステラは彼の隣にいても平然としている。距離を取ることも忘れて、ニルはただ呆然とするしかなかった。
「分からない。こんなこと、今までになかった」
「……ううん、そっか。そうだよね」
ステラは立ち上がると、ニルに手を差し伸べた。ニルは驚きと困惑の入り交じった表情でその手を見つめたが、そっと手を取った。彼の記憶に誰かと手を繋いた経験はない。初めての温もりを、しっかりと味わった。
「この上に着いたら、私と、私の国のことを話すよ。今度はきちんとついていくから、もう一回案内して?」
ステラ・ヘクセラは、とある国の王女として生まれた。ニルからは想像できないほどの、機械だらけの星の国。全ての環境を人の管理下に置かなければならぬと、建国者が唱えたとされている。資源不足による過酷な戦争を乗り越え、命からがら今の星へと逃げ出したその経験から作られたと彼女の父は言っていた。どんな人でも最初から決まった安定した道を進めるように、国の方から将来を決めるのだ。そうすることによって、国家の体制は盤石なものとなるし、貧困に苦しむ者も生まれない。
「って、お父様は思っているみたいなんだけどね」
「……すごい。整ってる。争うこともなさそう」
二人が丘の頂上に到着したのは、日が西へと沈みかけた頃だった。涼しい風がステラの髪の間を通り抜け、どこからかセミの鳴き声が聞こえる。
「でも、私はそうじゃないってことを、昔から知ってたの」
ステラには王女という称号以外にも、周りの人と違うところがあった。彼女は特殊能力を持っていたのだ。これに目覚めること自体は、ステラの星では珍しくない。遠い過去の人類が覚醒してから、その血筋を受け継ぐ者に発現するということは多々ある話だ。 つまり、問題はどういう能力かという方にある。彼女の力は『人の思考を読み取ることができる』というものだった。それも、周りにいる人間の心を無作為に読み取ってしまうから、両親は頭を悩ませた。一般的に歳を重ねれば能力自体は消えていくものだと言われているが、彼女の王女という立場上、それまで部屋の中でずっと過ごしているわけにもいかない。
「お父様は私に能力の制御を命じたの。説明は難しいんだけど、能力専門の先生まで呼んで、かなり辛い訓練を積んだ。でも、どうしても上手くいかなくて、ある日こっそり家を抜け出した」
外の世界で彼女が聞いたのは、今の暮らしに対する人々の不満だった。本当は自分の夢があるのに、それを潰されて決められた人生を歩む。しかし、死ぬことはないから、文句を言おうにも言えない――そんな、もやもやとした不満だ。ステラはそれまで、父の統制が完璧なものだと思っていた。誰も困ることがない、それこそ理想的な国だと。
「ショックだったの。皆、きちんとした未来が守られてるのに、なんで不満なんだろうって思った」
途方に暮れて、ステラは王都の郊外まで一人で歩いて泣いた。うずくまっていた彼女を捜しに来たのは、能力の制御の方法を特訓していた先生だった。
『どうして泣いているんだい、ステラ』
ステラと目を合わせるように屈んだ先生は、綺麗な黒髪と吸いこまれそうな真っ黒な瞳で、彼女の国では余り見かけない風貌だった。最初に出会った時はそれを不気味だと感じていたステラだが、多忙な両親に代わって彼女を見ていた先生は、ステラのことを何よりも考えてくれていた。
『んん……悲しくなっちゃって、泣いてたの』
ステラは、自分の能力で他人の心の中を覗いてしまったこと、そこにあった不満の種のことを先生に話した。自分はどうすればいいのか全く分からない。能力の制御もまだ上手くいっていなかったことも重なり、彼女の目からは次から次へと涙が溢れていった。
『そうか、私も家庭教師としてまだまだだなあ』
ふう、とため息を漏らして、先生はステラの頭を優しく撫でた。いつもは厳しい先生だったが、時折見せる優しさこそが彼女の本当の姿であることを、ステラは前から知っていた。
『ステラ。自分の置かれている毎日が、窮屈だって思ったことはない?』
王家の子として育てられたステラは、幼い頃から厳しい指導を受けてきた。礼儀や作法、正しい身だしなみ。それに加えて、能力に目覚めてからはその特訓までしてきた。しかし、それ以前に彼女は年頃の女の子だ。普通の女の子に憧れることもあった。
『……ある、けど。わたし、お姫様だから。がんばらないと、いけないの』
『君は偉い子だよ、本当に。でもね、そうして自分を殺していたら、いつかダメになる。自分に正直に生きなさい。違うって思ったことには、きちんとノーが言えるようになりなさい』
『正直に……?』
『ああ。みんな一緒なんだ、この国は。でも、誰もが自分を押し殺している。でも、ステラなら変えられるよ。そう思ったから、私は君の先生になったんだ』
『わたしが、変えるの……?』
『そうともさ。だから、一旦涙は拭いて、未来のために備えよう。明日からまた特訓だ』
先生はステラの手をぎゅっと握り、目を合わせて呟いた。
『私はステラを、君の可能性を信じているよ』
「正直、なんで期待されたのか分からなかった。私、王女としてはダメダメなんだ。ここにいるのだって、お父様は皆のことが分かってない、なんて大喧嘩して星を無理やり飛び出してきたからだし」
先生はステラの能力を『人と触れた時に思考が読める』程度まで落ち着けると、短い手紙とある花を残して彼女の元を去ってしまった。
「でも、ようやく気付いた。私は、私達は、ただ自由を知らなかっただけだったってことが」
日が森の向こうへと沈み、朱色が引いていく空へ藍色がじわりと滲み出す。輝く満天の星の下で、ステラはぶら下げていたポシェットから一輪の花を取り出した。ニルもそれをじっと興味深そうに覗き込み、聞いた。
「……それは?」
「先生が私に残した、プリムラってお花。この経験が、いつか君の糧になる日が来ますように、って」
紫色の花弁が、夜の色に溶けていく。ステラは、過去を懐かしむようにそっと目を細めた。
「さっき手を握った時に、君の記憶を見たよ、ニル。本当にずっと独りだったんだね」
「……うん」
「でも、それ以上に君は、楽しそうだった」
「たしかに、森のみんなと遊ぶのは、楽しい」
ステラは寝転び、プリムラを空に掲げた。ようやく、先生の言っていたことを理解した。きっと彼女は最初から、本当の幸せを知っていたのだ。
「人の未来とか自由とか、そういうものは誰にも決められないんだ。やっと分かった」
兵器としての使命を果たしていた頃のニルと、今のニルはまるで別人だ。人を殺めるのは、彼の望んだことではなかった。しかし、彼を縛るものはいなくなり、今では自由な人生を謳歌している。傍から見れば永遠に続く悲しいものかもしれないが、それでも彼自身にとっては楽しい日々に変わりはない。
「今の私とみんなも、過去のニルと一緒だろうなって。物騒なことは一切ないけど、人から与えられた役目を果たすだけじゃ、不満だよね」
「それは、あたりまえのことだと思う」
「私達はずっとそれを続けてきちゃったからなあ……理想の世界とは真逆に行ってるのに、それが普通なんだって信じてた」
それに気付けるのは、他人の心が読めるステラしかいない。そして、彼女自身が正直にならなければ、運命は開けない――先生は一体どこまで見通していたのだろうと、ステラは小さく感嘆のため息をついた。
「私、自分の星に帰るよ。きちんとお父様と仲直りして、明日のことを考える。王女の位は外せないけど、皆の未来を決める国から、皆の未来に寄り添う国にしてみせる」
「ステラ、なんだかかっこいい」
「えへへ、そうかなぁ? ふふ、褒められるとやっぱり嬉しいな」
ステラは照れ臭そうに頬を赤く染めて、微笑する。それから、ニルにそっとプリムラを差し出した。ニルは驚いて目を丸くし、ステラの顔を凝視する。
「これ、預かっててくれないかな」
「で、でも、これはステラの大切なもの……」
「だーかーら! 預かってって言ってるでしょ。私、女王様になって、皆が笑える理想の国を作ったら、この星にニルを迎えに来る」
「え、でも、みんな、ちかづいたら危ない……」
「大丈夫。私の先生みたいな能力専門の研究者はいるし、そうでなくとも、能力は歳を取る度に消えていくっていうのが通説だから。実際、私が隣にいてもなんともないでしょ?」
「……それは、そうだけど」
「ま、決定権はニルにあるよ。動物たちと遊ぶのが楽しいなら、ここにずっと残るのも一つの手だと思うし。でも、私と話せて嬉しいって言ってくれたから」
ニルは迷ってしまった。この森も好きだし、ステラの星も気になる。それに、人を傷つけることがないなら、一人で過ごす必要もないのだ。
「……分かった。ぷりむら、預かっとく」
その返答に、ステラはぱあっと顔を輝かせた。ここまで心から笑ったのはいつぶりだっただろう。小さい頃から厳しく育てられたステラには、全く見当がつかなかった。
「ありがとう、ニル。私、めげずに頑張るから。それとね、言いたいことがあるんだけど――」
ステラはニルの顔を見つめて、柔らかく微笑んで言った。
「――ニルの顔、すごく綺麗だよ。空に浮かぶどの星にも負けないぐらい、輝いてる」
満天の星空の下、静かな惑星で、思いの通じ合った二人はそっと肩を重ねる。それから夜が明けるまで、楽しい話でひとしきり笑い合った。
青空の向こうから、昨日と同じような赤い光がゆっくり落ちてくるのを、ニルは涙を堪えながら眺めていた。ステラと繋いだ手を、ぎゅっと握りしめる。
「ニル、もしかして泣いてる?」
「泣いてない、まだ」
「ふふ、まだかあ。大丈夫だよ、永遠のお別れじゃない。立派な女王様になって、また君に会いにくるから。私が理想とする世界にしてみせるよ」
「……約束した」
「うん、私は約束を破る主義じゃないもん。お父様ともちゃんと向き合って、自分の気持ちをちゃんと伝える」
赤い光は地上に近づくにつれて、段々とその輝きを増している。木に囲まれていなかった丘の上が通信を受けるには好環境だったらしく、大喜びで写真を撮っていたステラは、父親からの怒涛のメッセージに冷や汗をかいた。帰ると言ったところで自分の宇宙船が壊れているのだから、ステラにとって迎えが来るのは嬉しい話ではあったが。
「あーあ、お父様にこっ酷く叱られるだろうなあ。数日は引っ張りそう……」
「だいじょうぶ。ここから応援してる」
ニルはステラの手を気に入ったらしく、何回も握り直してきた。ステラも、その手をきっちり握り返す。
「うん、そうだよね。本当にありがとう、私に当たり前を気付かせてくれて。いつか絶対恩返しするから!」
宇宙船が地上へ着陸し、入口が自動で開いた。ステラはニルの頭をぽんとひと撫ですると、手を振りながら宇宙船へと乗り込んでいった。
「じゃあ、また会おうね、ニル!」
入口が閉まり、宇宙船が浮上を始める。堪えていた涙が、永遠の別れではないと知っていても、瞳から勝手に落ちていった。
「ステラ、またね……!」
森のどの動物にも負けないような声で、彼は叫んだ。船の窓から見えるように、手をいっぱいに振った。宇宙船が遠くの空に消えて、見えなくなるまで、ずっと。