ブラックホール(完結) 作:At.f
――夜は嫌いだ。
誰もいない病室で過ごす夜なら、尚更。心の中で渦巻く靄が、胸をはち切れんばかりに圧迫して苦しくなる。理由はよく分からない。後悔と言われればそうかもしれないし、不安と言われても僕は頷くだろう。
寝苦しくなって目を覚ませば、もう見慣れてしまった病室の天井が視界に映った。夢見はもう長いこと悪い。自分を覆い尽くそうとする影の夢。正体はとっくのとうに分かっている。目を逸らしたいのに、逸らせない。日中起きている間ならば、まだ他のことに意識を向けられるけれども、悪夢を見たあとの真夜中となるとそうはいかなかった。
(……悪夢なんて言うのも、失礼な話だな)
別に、あの人が悪いわけじゃない。今の僕がこうなっていることだって、彼は知らずに過ごしているだろう。悪いのは、迫られた時に受け入れてしまった僕だ。向こうを原因みたいに責めるのはお門違いだった。
(分かってはいる、けど)
あの夜のことは今でも鮮烈に焼き付いている。誘いを断れずに部屋に連れて行かれて、その適当な態度のまま口付けを交わした。少し乾いた唇を押し付けられ、スポーツマン特有の逞しい腕で身体を弄られて、それからは――。……他人と交わったのは、あれが最初で最後だった。こんな身体になってしまったのだし、それ自体はもう揺るぎのない事実だろう。
結果として僕はHIVに感染し、そこから合併症で入院することになった。一回だけで相当運が悪いとは思ったが、たかが一回されど一回ということなのか。彼側が相当プレイボーイな様だったし、どこかの誰かから貰ってきてしまって……そんなことを、もう何百回と考えてしまっている。そんなことをしたところで、どうにもならないことは分かっている。だが、考えていないと、自己嫌悪で胸が押し潰されそうになるのも、また一つの事実だった。
ごろりと寝返りを打つ。 病気自体はまだそこまで酷くはない。……けれども、免疫がダメになっている以上、他の合併症を引き起こす可能性だってある。未来に希望なんて持てはしなかった。そうしてまた、眠れないまま夜が明ける。
「はあ……」
「どうしたんだよ。具合でも悪いか、ブレット?」
「具合が年中悪い僕にその質問はおかしくないかな」
時計の針は丁度午後二時ぐらいを指している。今日は面会があった。幼馴染みのボブで、僕のことを理解してくれている数少ない人物だ。ブロンドカラーの髪に、ちょっとぽっちゃりした体型。幼い頃から細くて、病気になってから更に細くなった僕とは正反対だ。
「あははっ、悪い。……また眠れなかったのか」
「ここ数日特にね。どうせベッドにいるだけなんだし、ボブが帰ったら多分寝る」
「ったく、俺が来るからってそんな気を遣わなくてもいいんだけどなあ」
彼が笑うと、元々あまり見開かれていない目が更に細くなった。教室で普通に過ごしていても、先生から寝ているのかと怒られるぐらい細目だ。笑った顔は素敵だし、性格もほぼ難点がない。居心地がよかったから、小学生の頃からずっと一緒にいる。今もこうして、病院に来てくれる。ほとんど着替えを置いていくだけの家族よりも、彼と話す時間の方が僕にとっては暖かかった。
「……ブレット? おーい、ブレット?」
「っ!? ……ごめん、ボーっとしてた」
「おいおい、大丈夫かよ。俺そろそろ帰るから、ゆっくり休んだ方がいいぜ」
「あ……うん、分かった」
椅子から立ち上がり、ボブがいそいそと帰り支度を始めた。引き留めようとも思ったが、彼の心配を無視するわけにもいかない。
「じゃあな、また来週にでも来るからさ、元気でやっとけよ」
「だから、今の僕にそれを言うのは変でしょ」
「あははっ、あくまで心意気だって。弱気になったら終わりだからな」
手を振りながら、彼は病室のドアを閉めた。急に病室が静かになる。テレビが置かれているけれども、僕は普段からそれをあまり見ていない。
「……あの鈍感男が」
ボブには感謝している。が、どうにもこうにも彼には鈍いところがある。僕が踏み出せない一歩を、彼の方から歩んでくれるということはまずない。僕が……同性にも恋愛感情を抱くということを知っていながら、自分はその対象に入っていないと思っているらしい。
彼は誰にでも優しい。クラスの中心にいつも立っており、僕はそんな彼にいつもついていった。ボブの隣にいればまず間違いは起きなかったし、彼も僕のことを親友と思ってくれている。それから大学に進んで、少しお互いの連絡が途切れた時に、僕はうっかりレールを踏み外したのだ。僕がずっとボブのそばにいたのなら、こんな過ちも犯さなかったはずだ。今頃幸せに家でスナック菓子でも頬張っていたことだろう。しかし、ボブは僕がこんな風になっても見放さない、いいやつだ。
「……どうして、僕なんかに構うんだろうな」
彼が消えていったドアの方を見て、僕はぽつりと呟いた。ボブは僕と違ってバイセクシャルではない。本人の口からそんな言葉が出た試しはないし、高校の頃に僕が自分の性質を告白した時も、
『まあ、いいんじゃないか? 好きになるやつが男でも女でも、好きって気持ちは変わんないだろ。な?』
と、平然と言い放った。普通、もっと引かれてもいい話だ。小さい頃から自分の隣にいたやつが、実は男も好きになるやつだった! なんて話、自分でしていても正直気味が悪い。僕が自分の心を理解し始めたのは中学生も終わる頃になってからで、自分でもこの感情をどう扱っていいものか悩んだのだから。
頭の金髪を掻き毟る。なんて哀れなのだろう。結局僕は、このままベッドの上で死に行く運命だ。これ以上、ボブの人生にブレットが関わる必要はない気がしていた。ため息を吐こうとして咳き込む。喉に痛みを感じて、口の中に生暖かい何かが広がった。嫌な予感がして、ティッシュを手に取り、何かを吐き出す。口から離すと、そこには真っ赤な血が点々と染み込んでいた。
「おーっす、ブレット。今日はまた一段と元気が無いように見えるんだが、どうした?」
「……別に、どうもこうもしてないよ」
「の割にはいつもより暗い面をしてるんだけどなあ。お、そうだそうだ」
一週間後、僕の病室にまた顔を出したと思ったら、ボブは開口一番にそう告げた。そういうところは核心を突いてくる癖に、肝心なところには気がついてないから、腹が立つ。僕はボブが真横でバッグを漁っているのを横目に、先週のことをぼんやりと思い出す。あの後すぐ看護師を呼び、診察をした。担当医の話だと、吐血しているのはどうやら内蔵に肉腫ができているということだった。投薬しても効果に関しての望みは薄いというのも聞かされていた。そして、近いうちに身体中に転移するということも。つまり、それは――。
「ほら、見てみろよこの記事!」
ボブが取り出したのはありがちなゴシップ誌だった。日付は少し古めのもの。いったい家のどこに積まれていたんだろうか、少し乱暴にホコリが拭いてあった。
「へえ、ボブでもそういう本読むんだ」
「うんにゃ、俺はあんまりだな。母ちゃんがこういう雑誌好きなんだよ」
「ああ……なるほどね」
「んな事はどうでもいいんだよ、ほら」
彼が指さした記事には『フレディ・マーキュリー、ファンに真実を!』とそれっぽい大袈裟な見出しが付けられていた。こちらを睨みつけるような、眼光の鋭い彼の写真が載っていた。音楽にさほど詳しくない僕でも、さすがにフレディ・マーキュリーぐらいは知っている。QUEENのボーカルだ。ボブはQUEENの熱烈なファンで、前にもライブの一体感が凄いとか、掛け声があるんだとか、熱心に話していた。
「で、君の大好きなその人が豪遊してたから、なんだって?」
「最初の見出しだけ見て俺の涙ぐましい努力をスルーするなよな。重要なのはこっちだって」
「フレディ・マーキュリー、同性愛の真相、か。……本人、肯定してないんだよね?」
「まあ、そうだけどさ。近しい人のカミングアウト番組もやったみたいだし、ほぼ本当だって。ブレットみたいな人達に対する、世間からの冷やかな目ってあるだろ?」
「そりゃ、ないって言ったら嘘になるね」
「でもほら、あんなドデカいバンドのボーカルだってそうなんだからさ……」
ああ、なるほど。ボブがわざわざこんな冊子を持ってきた理由がわかった。彼はどうやら僕が落ち込んでいる理由を、同性愛そのものに対してだと思っているらしい。勿論、僕にだってそういう時期もあったけれど。もう、そういう問題じゃないんだ。ボブの話を遮って、僕は言った。
「ごめん、具合が悪い。今日は帰ってほしい」
「え? お、おう。なんか悪いな、いきなり」
「いいよ、言いたいことは分かったから。それに、あんまり頻繁に来なくたっていい。ボブだってわざわざ来るの、大変だろうし」
「ブレット……」
「……おやすみ」
ボブがいる方向とは真逆の、窓際へと向いて布団を被る。さすがにこの行動で彼も諦めたのか、ため息を一つ吐き、
「分かったよ。これ置いておくから、暇な時に読めよ」
と言って片付けを始め、間もなく扉の閉まる音がした。
最悪だ。何もかも失った気分だ。ボブですらもこの悩みを分かってくれないのなら、僕のことを理解してくれる人は果たしてこの世にいるのだろうか。太陽は病室を照らしているのに、僕の心だけが凍えている。ボブへの思いが、どうしようもない現状が、全部マイナスの感情へと置換される。死にたくなっても、死ぬ勇気すら僕は持っていない。昔から、誰かに決断を任せることしかできない臆病者だった。
病院の白い無機質な廊下に、穏やかな陽の光が射し込んでいた。あれからというもの、身体に出た肉腫は増えるばかりだ。もう人前で半袖の服も着たくはない。少し暑くなり、誰も来ないのを確認してから、デニムジャケットの袖を少しだけ捲ると、右腕にも大きなホクロのようなものがあるのが分かった。首や額にあるものはもう隠しようがない。ボブはあれ以来姿を見せないが、次会った時にはきっと病状が進行しているのがバレてしまうだろう。
「……あるのかな、次」
自分の痩せ細った頬を撫でる。いよいよ、もう後がなくなった。特にやり残したことはないはずだ。僕の人生なんて、最初から誰かの後をこそこそついていくようなものだった。生まれて来なければ良かったとさえ思うぐらいだ。誰かを本気で愛したことも、愛されたこともなかった。
「……僕って、なんだったんだろうな」
僕が呟くのと同時に、キィィ、と扉の開く音がした。僕しかいなかった廊下に重そうな足音が響く。
(ああ。きっとこの人も、僕と同じ患者なんだ)
僕は俯いた姿勢のまま、自分の前を通って出口に向かう男へと視線を向けた。
すらりと長い脚。鼻の下に印象的な髭。サングラスとカーキ色の帽子を着用して、まるで見られたくないと言わんばかりに顔を隠しているようで――
(……いや、待ってくれよ)
――僕はその顔を、間違いなく見たことがあった。病院ですれ違った? いや、ここで合うのはほとんど担当医と家族と、それにボブだけだ。……ボブ、そうだ、あの時に。
『ほら、見てみろよこの記事!』
『……本人、肯定してないんだよね?』
『そうだけどさ……』
ああ、そうか。そんなことがあるのか。これが運命の思し召しだろうか。ボブが熱く語っていた掛け声を思い出す。
「……エーオ」
僕がそう呟くと、男は出口の前で歩みを止めた。そして、僕の方へとゆっくり振り向く。間違いない、この顔は見間違いようがない。彼は少し黙った後、口元に笑みを浮かべて、
「エーオ」
と、はっきりそう言った。そして再び歩き始めた彼は、そのまま出口の扉の向こうへと消えた。光の射し込む方へ、歩んでいった。それが僕には、どうしても眩しく見えた。
(フレディ・マーキュリー……)
あの日、ボブが持って来てくれた記事には、本人はインタビューに答えなかったと書き連ねてあった。それでも、病院にいるということは「そう」なんだろう。疑惑を否定したいなら、そのまま立ち去ればよかったのに。
QUEENが『ライヴ・エイド』に出るという噂を聞いたのは、それからすぐの話だった。正直、冗談かと思った。もしフレディが僕と同じような病に侵されているとしたなら、そんなことをしている理由が分からない。歌えるのかとか、病気ならパフォーマンスをできるのかとか、色々な疑問が頭の中で駆け巡った。
そうして僕はライブ当日、もやもやした気分のまま、めったに点けなかったテレビの電源を入れた。音楽に詳しくない僕からすると、名前ぐらいしか知らないアーティスト達が次から次へと出てきて、知らない音楽を演奏して終わっていくだけの番組だった。だから僕は、ただ一組の登場だけを待っていた。もう、時計が午後の七時に差し掛かるところだった。
『女王陛下、QUEEN!』
歓声と共に、上半身タンクトップ姿でその人は現れた。フレディはピアノの前へと座り、何音か弾くと、そのまま歌い始めた。
『ママ、たった今人を殺したんだ。やつの頭に銃口を突きつけて、引き金を引いただけなのに』
ライブの始まりには似合わない、ゆったりとしたバラードだった。しかし、テレビに映る会場は揺れている。
『ママ、ああ。死ぬのが怖いよ。たまに思うんだ、いっそ生まれてこなければよかったって』
ギターが唸りをあげる。バラードが終わると、フレディは右手を高く上げてピアノを離れた。先程とは打って変わって、軽快な音楽が流れ出す。
『お前はまだまだ終わっちゃいない。まだ誰かが、お前を愛している!』
(……ああ、そうか)
今のフレディを見て、誰が彼のことを悲劇の主人公と言うだろう。ステージを左右に動き回り、世界中の観客へと全身全霊でパフォーマンスをしている。彼は自分が病気でも、それを何もかも諦める理由にはしない。テレビからは、僕ですらも聞いたことのある、あのリズムが流れてきた。
『
「お前なら、見てくれてるんじゃないかって思ったよ」
QUEENの演奏に夢中になっていた僕は、病室に入ってきていた人物に気付かなかった。それは、ここのところ僕のせいで姿を見せなかった人物で。
「……ボブ」
「ぽかんとした顔するなよ。あんまり集中してるから、声かけづらかっただけだって」
「でも、僕は!」
「言うな。俺だって、配慮足りてなかったしさ」
「……ごめん、ありがとう」
QUEENの持ち時間が、彼らのライブの終了を告げようとしていた。
『俺たちは最期まで闘い続ける』
「僕さ、言おうって決めたことがあるんだ」
大歓声を送られるフレディを見ながら、僕はぽつりと言った。僕は彼みたいなスーパースターではないけれど、せめて今からの生き方を変えることぐらいはできる。ずっとやらないと思っていたことだ。この気持ちには、蓋をするつもりだった。けれど、もうこの思いは止められないだろう。
「ボブ、僕は、君のことが――」
<完>