ブラックホール(完結) 作:At.f
ぱたん。ゆっくりと、余韻に浸るように本を閉じた。放課後の図書室は夕日が差し込んでいて、少し目を凝らすと宙に舞った埃と塵がきらめいている。運動部の発するよく分からないランニングの掛け声が聞こえてきて、それが近づいてはまた遠ざかる。はう、と息を吐いて、読んだ物語を思い返していく。シリーズの六巻目で、続編は未だに出ていない。いざ読み終わってみると、もっとこの世界を見ていたい気分に苛まれる。主人公は愛したヒロインと結ばれて、これから幸せな生活を送るはずなのに、どうしていいところで終わってしまうのだろう。あたしは小説を通学鞄にしまって、どこか満たされない気持ちで席を立った。なるべく音をさせないように、忍び足で図書室の出口へ向かう。カウンターに向かって座っている図書委員の子も静かに本を読んでいて、すぐ横を通り過ぎても気付かないようだった。毎週火曜日にいる委員の女子だったが、あたしは彼女の名字がなんとか谷であることしか知らない。クラスも一緒なのに、目立たない生徒の名前まで覚えてられなかった。
目立たないと言えばあたしもそうだと自虐気味に思う。高校の門を抜けてから、きっとあの子もこちらの名前なんて覚えてないだろうなと悲しくなる。授業では指名された時しか発言せず、休み時間はトイレに引きこもり、放課後は図書室に入り浸って本を読む。そうして誰とも話さずに駅の改札を通り過ぎて、都会の冷たい風と共に滑り込んできた電車に乗る。何回も繰り返してきたルーティンで、今更これを乱すつもりもなかった。あたしは誰とも関わりたくないし、きっとそんなことを考えているやつとは誰も関わりたくないだろう。それで、よかった。
アパートの二〇三号室の鍵をがちゃりと回して扉を開ける。冷たい外気に晒されて、耳と鼻が凍りそうなほど痛い。靴を適当に脱ぎ捨てて、ただいまと小声で言ったが、薄暗いリビングから返答はなかった。代わりに聞こえてきたのは、怪獣のいびき。どうせ昼間から飲んだくれて、そのまま床で寝ているのだろう。ちゃぶ台の上にはきっと飲みっぱなしにしてある缶ビールが置いてある。確認しなくとも分かる、いつもの光景だ。あたしは馬鹿らしくなって、リビングには入らずにそのまま自室へと向かった。通学鞄から本を取り出して、本棚にしまう。本の背表紙にイラストが描いてあって、それを揃えると絵が完成していく仕組みだ。主人公は四巻の背表紙にいて、中心より少しズレている。七巻目があればちょうど真ん中になるのにと、やはり次の話が欲しくなってしまう。物足りなくて、何度も一から六巻を読み返してしまっていた。しかし、作者のブログは六巻目を出した報告の後から沈黙を続けているので、期待するだけ無駄だと心の底では分かっている。
ずっと不快なバックミュージックになっていた、怪獣の鳴き声がぴたりと止んだ。あたしは慌てて立ち上がる。リビングに戻ると、赤い顔をした男がそこに寝転がっていた。やはりちゃぶ台の上には、缶ビールが四本転がっている。その四本目は横倒しになっていて、天板にビールの溢れた跡が広がっていた。一缶買うだけでも高いのに、この男はちっとも大切に飲まない。
「オウ、帰ったのかァ」
「う、うん。ついさっき。ただいま」
無理やりに笑顔を作り出して、目の前の男の視線に耐える。本の背表紙を長々見ている暇があれば、早いところ着替えておけばよかったと後悔した。部屋着に着替えたのなら、あたしはこの男から見てただの女の子に過ぎない。けれども制服でいると、そこに分かりやすく女子高校生であるという事実が書き足されてしまう。最悪だ。
「オイ、こっち座れ。……早くッ!」
無理に上げた口角が震えるのを感じた。独りでいるのにはとっくに慣れたが、これと二人きりにされるのには一生慣れないと断言できる。脚が震えているのがバレませんようにと祈りながら、男の右隣に正座する。男は身体を寄せてきたかと思えば、ぎゅっと抱きついてきた。酒臭さが鼻腔を嫌というほど強烈に刺激して、胃液が込み上げてくるのを堪える。下手なことをして怒らせたら、余計面倒なことになってしまう。大丈夫、少し耐えればいいだけだ、と毎回自分に言い聞かせている。それでも気持ち悪さは誤魔化せないから、こちらの顔が見えないように抱き返した。男の肩の上にあたしの頭が乗るようにする。男の毛むくじゃらの手があたしの身体を撫でていく。それから力任せに押し倒されて、腕を掴まれた。背中がひんやりした硬い床にがつんと当たる。眠っていたくせにかなり酔っ払っている。今日は面倒な日だと思った。ああもう、制服がシワになる。だから早く着替えておけばよかったのだ。
「俺はな、お前を見ているとなァ、アイツを思い出すんだよ」
あたしの上に馬乗りになったまま、男は目を潤ませる。そのうちにぽたぽたとその瞳から涙が垂れて、あたしの顔をべたべたと濡らす。
「目つきなんか特にそっくりでよ、お前が歳重ねることに俺はなァ!」
男の顔が迫る。乾燥した唇、黄ばんだ歯、剃り残してざらざらとした髭。その全てから逃げたくなって目を瞑る。男の唇が触れる前に、キッチンの炊飯器からきらきら星が鳴り響いた。それと同時に、押さえられていた腕からふっと重さがなくなる。恐る恐る、ゆっくりと目を見開いて、男があたしの上から退くのを見た。
「チッ……萎えた、さっさと飯作れよ」
「うん、分かった。すぐできるから」
男の臭いから逃れるように、キッチンへと急ぎ足で向かう。冷蔵庫の中には最低限のものしか入っていない。日曜日に買い物に行って、どうしても足りなかったら木曜日に買い足す。あたしと男の二人分しか作らないから、カレーを作って三日間ほど誤魔化すこともあった。
卵をボウルにこんこんと押し当てて、片手で卵を割る。殻の中からたらりと垂れた白身が、男の口内で糸を引いていた唾液と重なってげんなりした。あたしの頭の中が蝕まれて、思考回路が毒されているみたいだ。そしてそれは、黄身とかき混ぜられた白身のように絡みついて離れない。
男がこんな風におかしくなったのはいつからだろう。フライパンに広がっていく卵を見ながら思う。男と女はあたしが小学三年生の頃に離婚した。女がひどい浮気をしたとしか知らされていない。それ以上のことは聞くな、聞いたら殺すからなと言われた。男が過去の写真を全て処分したせいで、その女の顔すらも忘れてしまった。養育費は支払われているけれど、向こう側もあまりにもお金がないのか、大した額ではない。あたしは行きたかったいい設備の私立を諦めて、公立の高校に嫌々通っている。男は先月仕事でトラブルを起こしてクビになって、酒の量が異常に増えた。それから次の職を探しているのか、ずっと酒を飲んでいるのかは分からない。何処に就こうが興味はないけれど、こいつと二人で飢え死にするのはさすがに嫌だな。そうなれば、きっと最後まで求められるのだろう。白米の上に薄く広がった卵をそっと乗せた。そしてケチャップをたくさんかける。チキンライスにする気力も湧かない。これはきっと料理完了未満――オムライスもどきだと思った。
いただきますの声は小さい。食べている間、ひとつの会話も交わされない。ちゃぶ台の上からはまだ微かにビールの匂いが漂っていて、鳴るのはスプーンと皿が擦れ合うかちゃかちゃとした音だけ。今日は学校で何があったかとか、勉強の進みはどうだとか、そんなことは聞かれもしない。この家庭にあるのはあたしと男の歪んだ関係だけだ。一人娘と父親という言葉を当て嵌めるには、あたしたちは不完全すぎる。だからと言ってどうすることもできない。この現状を打破したところで、状況がとびきり好転するようには思えなかったし、もっと酷くなることだってあるだろう。あたしは未成年で、まだ生きていく術すら知らないのだ。社会の荒波に放り出されても、こんな少女を拾ってくれる人がいるとは思えない。
窓の外が暗くなってきた。オムライスもどきを平らげると、おもむろに立ち上がって電球のスイッチ紐を引く。が、電気が点かない。とうとう電気代も払えなくなったのかと背中がひやりとしたが、まだ食事中だった男がこちらを見上げて、
「それ、昨日の夜から調子悪いぞ」
と、小さな声で呟いた。家には替えの蛍光灯なんて気の利いたものはない。だからと言って居間を真っ暗にしておいたら――ああ、何でも悪い方向に考えてしまう。あたしは皿をキッチンシンクにぶち込んで、ついたケチャップを洗い流すように水へ浸した。洗い物は後にしよう。
洗面所に向かって、身嗜みを整える。ぴんと伸ばしてみたけれど、制服のシワは誤魔化せない。冬の制服のスカートが重いのも気になったが、着替えている暇があれば早いところ家を出たかった。鏡に顔を寄せると、目の下にこびり付いて取れない隈が露わになった。あいつに求められる晩もあるせいで、よく眠れない日が多い。男は目付きがあの女に似ているとよく漏らすが、こんな目のやつと付き合うのは多分センスがないのだと思う。
「はは、ひっどい顔……」
自嘲気味に笑って、独り言を漏らす。化粧品を買うなんて贅沢、できるわけがない。お金が足りないと、使い切りのものを買うのはどうしても気が引けてしまう。あたしの自室には本ばかりが増えて、それでも満たされない分は図書室に行ってどうにかする。リップクリームすら塗れない唇は、さっき近付けられた男のそれと同じようにかさついていたから、目を逸らすようにマスクを付けた。
「お父さん、あたし、替えの蛍光灯買ってくるから」
居間にそう呼びかけて、玄関で履き散らかしたローファーを脇に退け、中学生の頃に買ったスニーカーに足を通す。制服なのにちぐはぐな格好だ。扉を開けて、この瞳が冬の外気に晒されたところで、やっと返答がきた。
「オウ、気を付けろよ」
思ってないくせに。
最寄りの電器屋に向かうには、二駅先まで行かなければならない。通学定期券を使って、電車に乗り込む。こういう時にタダで済むのはありがたい。朝は混み合っている電車も、都会の方面に向かうからなのか、人はまばらで少なかった。車窓から見えるマンションや家の明かりがきらきらと光っているのを、ぼーっと眺めた。あの一つ一つに幸せが詰まっている気がする。切れかけの電球じゃ、それに及ばない。電車はゆっくりと止まって、少し俯きがちになりながら降りた。眩しすぎる光が、あたしの瞳を揺らしてしまうから。
水曜夜の電器屋はそれでも静かな方だった。ゲームコーナーのテレビでは、大きな鎌を持ったキャラクターが派手に敵を倒しながら進む映像が流れている。それを横目で流しながら、電球や蛍光灯を取り扱っているコーナーへと向かう。色とりどりの光が、あたしを出迎えた。まだ誰のものにもなっていない明かり達が、生活の暗闇を埋めるために今か今かと手に取られるのを待っている。あたしはその中の、見慣れた型の品物を手に取った。電気代も節約できるし、いい加減LEDにすればいいのにと、前にそれとなく男に聞いたことがある。すると不機嫌そうに顔を歪められ、あの光の色が落ち着かないと突っぱねられてしまった。
「……ごめんね」
あたしたちみたいな家の暮らしを照らしたいとは思えない。蛍光灯に同情するなんて変な話だ。でも、あたしが手に取ったせいで、この明かりの未来は決まる。蛍光灯の明かりだけでは、この家庭の暗闇は照らせないのに。
レジ袋が北風に吹かれて、しゃかしゃかと音を立てる。最寄りの駅から家までは歩いて十分ほどだ。時刻は七時半になりそうなところで、もう辺りはすっかり暗い。蛍光灯を替えるためには、スマートフォンのライトで照らしながら作業しなければダメだろう。二〇三号室まで帰ってきたあたしは、鍵を回そうとして違和感を覚えた。行きに閉めたはずなのにロックが掛かっていない。あの男が外出中なのだろうか。警戒するようにゆっくりと扉を開けて、忍び足で廊下を進む。明かりのないリビングから、何かの物音がする。まさか、泥棒? でも、鍵は間違えなく掛けたと言いきれる。いつも気にしているから、そこは間違いない。いや、違う、この物音は。あたしの、聞き覚えのある――
「……っ!」
居間にいたのは二人の人影だった。手に持っていたレジ袋がするりと手のひらから滑り落ちていく。それがかしゃりと音を立てるのにも構わず、玄関に戻って乱暴にスニーカーを履いた。帰ってきたことには気付かれただろう。それでもいい。扉を勢いよく開けて、アパートの廊下を駆け抜ける。冬のスカートは重いから、走るのに向いていない。足をもつれさせながら階段を降りて、どこに向かうわけでもなく走り続けた。分からない。あたしとあいつは、それは歪な関係かもしれないけれど、上手くやっていたはずだ。脳内がぐちゃぐちゃになって、思考が纏まらない。勘違いしていただけだったのか、あいつにとってあたしってなんなのか。今更新しい女なんか連れ込んで、何のつもりだ。いや、今まで知らなかっただけで、ずっとこうだったのかもしれない。あたしの居場所なんて、学校にも、家にも、この街のどこにもないんだ。涙が堪える間もなく溢れ出てきた。息が上がる。冷たい空気を取り込んだ肺が痛くなって足を止めた。
「最っ低だ。馬鹿だなあ、ほんと」
手の甲で涙を拭う。あいつが父親らしくなくても、あたしのことをきちんと娘として見ていなくても、それでも何らかの形で必要とはしてくれていると思っていた。なのに、現実はこのザマだ。一発、相手側に怒鳴ってやればよかったのかもしれない。今になって逃げ出したのが無性に悔しくなって、電柱に握り拳を当てた。でも、どういう風に言えばよかったのだろう。涙が滴り落ちて、地面のコンクリートに小さな染みを作っていく。
――ぴこん。
ポケットに入れていたスマートフォンの通知が鳴った。アプリを開くと『もう遅い。帰って来い』とだけ文字が連なっていた。そういえば洗い物をまだしていなかった。怒らせないためにも、早く帰らないと。あたしはどうしようもなく子供で、ここから逃げたところでどうにもならない。
「ていうか、ここ、どこなんだろ」
一心不乱に走ったせいで、自分の現在地が分からなくなってしまった。長いこと住んでいる街だが、必要な時以外に外出をしないので、詳しい道は知らない。スマートフォンの地図アプリを立ち上げたいが、通信制限が怖くて使うのをためらってしまう。充電も二十パーセントしかなく、心もとなかった。買い換えを渋った結果、バッテリーが馬鹿になってしまっている。明るい方へと向かうように、ふらふらとさまよっていたら、駅前の商店街へ出ることができた。いつも進む家の方向とは反対側のアーケードだが、ここからなら帰れるだろう。これからどうしようかと重い足取りで商店街を進むと、本屋のショーウィンドウが目に飛び込んできた。そういえばしばらく本屋に入ってなかったなと思い、あたしは扉を押した。
本の匂いが鼻を擽る。こんなに汚れたあたしでも、本は拒むこともなく静かに出迎えてくれる。だからずっと、図書室や本屋の雰囲気そのものが好きだ。若い世代向けの小説が置いてあるコーナーに足を進めて、そこに飾ってある本に目を奪われた。見慣れたタイトルの第七巻目がそこに平積みされていた。持っているシリーズの、その続きだ。帯には大きな文字で『最終巻!』と宣伝文句が書かれている。慌てて財布を開いて、今の所持金を確認する。蛍光灯を買った時のお釣りが残っていて、ギリギリ買える金額だった。いつもなら、少しは買うのを躊躇したかもしれない。けれど今は、迷う気持ちすらも湧かなかった。
「六百八十六円です」
七百円をカルトンに置く。あたしの財布は軽くなって、手持ちの重みは念願の続編へと変わった。少し軽くなった足取りのまま、家に帰ることにした。今帰らなければ、夜中までふらふらしてしまう気がしていた。
「……ただいま」
小さく、控えめに言った。廊下に放り出していたはずの蛍光灯はなくなっていて、驚いたことに居間からは光が漏れていた。映る影は一つで、酒の匂いが充満している。ちゃぶ台には男が新しく開けたのだろう、缶ビールが二缶転がっている。先程の出来事が悪い夢のように、いつもの風景だった。男は窓の外を見ており、こちらを向こうともしない。
「遅い」
「ごめんなさい、あたし、邪魔するつもりは」
「どうしてくれんだ、なァ? お前のせいで中途半端になったんだよ」
あたしの言葉は遮られた。謝罪の言葉のひとつもない。留守のうちに女を連れ込んで、勝手にやることやっていたクセして、悪びれる様子も見せない。あたしは拳をぐっと固めた。
「そんなこと言ったって……」
「あァ?」
「あんたの方が悪いでしょ! あたしのこと散々めちゃくちゃにしておいて、それなのに、それなのに――!」
感情が爆発して、大声を張り上げた。目の前の男はこちらが怒りだしたことに驚いているようだった。一度は止まったはずの涙がぼろぼろと溢れ出る。こんな当たり前のことすらもきちんと言えないのが、情けなくってしょうがない。
「なんだお前ッ、親に向かってその口の利き方は!」
「親? 自分が父親だって言うなら、もっとそれらしく振る舞ってよ! あんたなんか、あたしが普段何処で何してようと関係ないって思ってるんだよね⁉」
「お前、言わせておけばいい気に……!」
勢いよく立ち上がった男に腕を掴まれ、そのまま乱暴に押し倒される。それでも心の奔流は止まらなかった。自分を止めることができなかった。
「違うって言うなら、少しはそういうところ見せてよ! さっきだって、あたしの帰ってくる時間が全然分からないからあんなことになって――ッ」
馬乗りになられて、平手打ちをされた。目の前の男は顔が真っ赤だ。酔っ払っているわけではない。怒鳴る口からはアルコールの匂いがしないのに、部屋はずっと酒臭い。最近、缶ビールが馬鹿みたいに開けられていたのは、臭いを上書きするためだったんだな、とあたしはくらくらする頭で思った。
「お前は黙ってればいいんだよ! 一人じゃ何にもできねェクセに、口だけは偉そうにしやがって!」
「それでも、あたしは……あんたのこと、心から父親って呼びたかった」
自分でもびっくりするほどに、冷たい声が喉から出た。あたしの願望が、未来が、希望までもが既に冷えきっていた。目の前の男も、この声の震えに身体の動きを止めた。
「……おやすみ」
あたしは男の重みから抜け出て、鞄を拾う。呆然とする男を後にして、そのまま部屋に引きこもった。
ずっと自分の心を誤魔化していた。歪な関係だけど、不完全だけど、現状を維持していればいいのだと言い聞かせていた。そうして現実逃避していたら、気付けば世界の崩壊がすぐそこに迫っていた。
「そうだ、本……」
あたしは今いる現状から逃げるように、買った小説を読み始めた。内容は本編の後日譚で、主人公とヒロインが結ばれたその後のストーリーが展開されていた。幸せな物語とは決して言えず、それでも前を向いて生きていく人物達が力強く描かれていた。何度もため息をつきながら、後書きに辿り着く。そこには『この度SNSを始めました』と書いてあった。今にも電源が落ちそうなスマートフォンで作者の名前を検索すると、確かに本人のアカウントが出てきた。ブログをブックマークしていたから、わざわざ名前で検索することがなかったのだ。
「……みんな、変わっていくんだ」
あたしは本を床に置くと、膝を抱えてうずくまった。小説の内容が心へと更に刺さった。それまでの困難な経緯を思えば、主人公とヒロインは結ばれるだけで幸福だったはずだ。それでも満足せずに、次の幸せへと手を伸ばしていく。あの男だって傍から見れば、ようやく過去に踏ん切りを付けて、新しい出会いを探そうとしていると言えなくもない。ここで止まっているのはあたしだけだ。不完全の中でずっと甘えていた。
「変わらなくちゃ、いけないのかな」
現状で止まっていることが許されない、そんな気がした。きっと男は新しい女を連れてくるし、それを拒むことなんてできやしない。求められなくなるのは、嬉しいことだ。相手をしなくてよくなるのだから。でも、あたしが止まっていたせいで、世界は変わってしまった。勝手に地球は回って、名も知らぬ誰かに終止符を打たれてしまうのだ。あたしはその時、どうすればいいのだろう。無慈悲な朝日が昇ろうとしていた。