IS《インフィニット・ストラトス》~やまやの弟~ 作:+ゆうき+
「んっ……あれ? お姉ちゃん……?」
強制的に眠らされてから丸一日後、真琴はようやく目を覚ました。上半身をムクりと起こし、目をぐしぐしと擦った後、寝癖がついた髪もそのままにキョロキョロと辺りの様子を伺い始めた。
見た事の無い部屋、家具、そして医療器具。そして、自分の腕に刺さっている点滴の針。全てにおいて真琴の心を落ち着かせる要素などまるで無かった。
腕に刺さっている針がじくじくと痛む。子供にとって注射の針は泣く子も黙るナマハゲよりも怖い。ナマハゲと注射を持って笑顔で歩いてくる看護婦の二択だったら、恐らくどちらも選ばずに鼻水を垂らしながら泣いて逃亡する位には。
「うう……」
今自分にとって一番良い選択肢は、注射針を外して誰かを呼ぶ事だろう。あくまで主観における選択肢、だが。
しかし腕に刺さった針を抜くのは大人だって怖い。というか触りたくない。触るたびに、ごく僅かではあるが鋭い痛みが走るのだ。真琴は半分涙目になりながら自分の腕に刺さっている注射針を睨み付けて、なんとかならんものかと必死に思考を巡らせた。
ちなみに余談だが、医者が子供に注射を行う際好きなお菓子やアニメの話をして子供を気を逸らして、その隙に注射を終えるという手段がある。まぁ、既に腕に刺さっているのを自覚し、しかもそれがどうしようもないのだから意味の無い余談ではあるが。
注射針と睨めっこをする事1分。真琴は視線の先に綺麗に切りそろえられた林檎を見つけた。ご丁寧にウサギさんカットである。これは食べてくださいという神の啓示か。
「んしょっ……」
涙目の真琴に笑みが戻る。腕に痛みが走らない様に体を起こして、その腕とは反対の腕をウサギさん林檎に手を伸ばし、掴んだ。この時点で既に真琴の脳内からは注射針の事なぞ記憶の彼方へと吹っ飛ばされていた。涙がまだ瞳に残っているが、感情は既に悲しみから喜びへと上書きされている。
「わぁ……」
今まで見た事が無かったのだろうか。もう夢中である。
満面の笑みを浮かべて林檎をほお張り、シャクシャクと小気味良い音を立ててウサギさんは消化されていく。頭から食べられていくウサギさんリンゴはどんどん減っていく。丸一日寝ていたのだから、それ相応に腹も減っていたのだろう。
「目が覚めた様だな」
食べ物を租借する音だけが響いていた病室だったが、不意に千冬の声と同時にドアが開いた。そこに居たのは、普段と変わらない表情の千冬と心配そうな表情をしたセシリアだった。
「真琴さん! どこか痛い所はありませんか!?」
セシリアの姿がブレる。そして気づいたら真琴の目の前にいた。ジャパニーズアニメにその様な移動術が有った気がするが、彼女はそれを体得しているとでも言うのか。
瞬間移動でも行ったのではないかと思えるような速さで真琴の元へ駆け寄ったセシリアは、何故か体中の触診を始めた。
さすりさすり。
真琴の体に異常がないことを確認すると、今度は抱き締め始めた。真琴としてはまだまだ満腹ではない。それに皿の上にも林檎は残っている。
「むぁ」
「心配しましたわ……! ご無事でなによりです!」
「えっと……大丈夫なんですけれど」
胸の谷間から顔をのぞかせる真琴を、愛おしげに撫でる彼女の表情が、徐々に心配するそれから変化を始める。真琴の視線は相変わらず林檎へと向けられたままだ。
「もうわたくしの傍から離れてはなりません。真琴さんはわたくしが守りますわ」
「病人に負荷を与えるな馬鹿者が」
「へぶっ!」
何処からともなく取りだした出席簿で、千冬はセシリアの頭を勢いよく叩いた。衝撃でセシリアはお辞儀をする。嗚呼、彼女の頭からプスプスと煙が上がっている。
「ど、どこから取り出したのですか……」
「機密情報だ。ほら、さっさと離れろ」
「致し方ありませんわね……」
渋々、本当に渋々とセシリアは真琴を解放した。それにより自由の身となった真琴は、再び果物を食べ始めた。
「真琴君、今食事を用意させるから果物を食べるのは控えてくれないか。もっと栄養がある物を取った方がいい。……真琴君? ……またこのパターンか」
千冬は置いてあった果物を全て片付けた。これで今彼が手に持っている林檎を食べ終われば気づいてくれるはずだ。
「♪~……あれ?」
自分の手の届く範囲に甘い匂いのする物がなくなったため、真琴は現実に戻ってきた。食べ物を求めてキョロキョロと辺りを見回し、千冬が残っていたそれを持っていると分かると、上目使いで彼女を切なげに見つめ始めた。
「ま、真琴君。気持ちは分かるが今はもっと栄養のある食物を摂取して欲しい。……頼む、そんな目で私を見つめないでくれ……」
子供の涙目の上目遣いってずるいと思う。
◇
「ごちそうさまでした」
病人食を食べ終えた後、真琴はベッドに横たわっている。周りには千冬や国枝といったIS学園の関係者や、ドイツ軍の関係者が見舞いに訪れていた。
「ところで千冬さん」
「なんだ?」
「なんでぼくは病院にいるんでしょう」
「っ!」
病室に居た全員が固まった。真琴はあんな出来事を体験したにも係わらず、今自分が何故病院にいるか分からないと言ったのだ。
嫌な緊張感が病室を包む。果たしてどこまで記憶を失っているのか、不安が全員の心臓を握り潰しに掛かる。
「覚えていないのか? 真琴君は飛行機の中で突然倒れたんだ。急きょ着陸して最寄りの医療施設に運んだという訳だ」
「そうだったんですか……ごめんなさい」
「いや、気にする必要はない。誰だって体調が悪くなることだってあるさ」
千冬は内心かなり焦っていたが、今真実を告げるのは上策ではないと判断し、それらしい事実をでっち上げてなんとか乗り切ろうと試みた。
『オルコット。すぐに医者を連れてこい』
『言われなくても!』
セシリアが猛ダッシュで病室を出ていく。それを見ていた真琴は首を傾げながら見送っていた。
◇
「ふむ……記憶の欠如が見られるね」
診察後、真琴の保護者一同は別室に呼ばれ診断結果を聞いていた。全員、その表情は優れない。
「詳しく説明して頂きたい」
「正式な病名は解離性健忘と言います。つまりですね……辛い出来事を経験して、耐えきれなかったんでしょうね。本能的に記憶を封印してしまったということです」
「……記憶の回復は可能なのか?」
「手段としてはそれなりに存在します。催眠術などで呼び起こす方法もありますし、麻酔薬を用いる事もありますが……今後の事を考えると、今は記憶の欠如については本人の前で触れない方が良いでしょう」
「分かった。皆いいな、くれぐれも真琴君の前で話題に出すんじゃないぞ」
「分かっていますわ」
「それでは、真琴君の元に戻るとしよう」
(おつらいとは思いますが、ずっと、思い出さない方が良いのでしょうね……)
「くれぐれも、旅客機の話題を出す際は慎重にお願いします。フラッシュバックという訳ではありませんが、何かの語句がキーワードとなって記憶が蘇る可能性は決して低くありません」
医者の言葉を胸に留めた一同は、沈痛な面持ちのまま、誰も言葉を発する事無く真琴の病室へと歩き続けた。
途中、何やら自販機を見つけたセシリアが真琴への差し入れとして飲み物を買おうとしていたが、残念ながら此処はドイツであり、使用通貨はユーロである。自分の手に取ったポンド通貨をワナワナと震えながら睨み付け、その後泣く泣く購入を諦めていた。
普段IS学園にいるときに用いる通貨は円である。そして自分の国の通貨はポンドのため、めったな事ではユーロが財布に入っている事は無かったのだ。
涙目のセシリアを先頭に病室に戻ると、そこにはチェス盤を前に思考の渦に飛びこんだ真琴と、涙目になった特殊部隊の隊員が居た。ラウラも横で経過を観察しているみたいだ。
「何をやっているんだ?」
「教官……」
「あら、チェスですの?」
「ああ。博士が暇だと言うんでな、クラリッサに頼んでチェスで勝負しているんだが……」
「隊長……何ですかこのワンサイドゲームは。博士は本当にチェスの経験が無いのですか?」
皆が盤面を見てみると、あらびっくり。真琴がチェックをかけている。
「強すぎです……。私はそれなりの腕を持っていると自負していますが、ここまで一方的に負けそうなのは初めてです……」
「そこまでワンサイドゲームだったのか? 盤面を見る限りではそんなに差はないと思うが……」
「教官、今回のゲームにおける博士の持ち時間は3分です」
「なっ」
「なんですって!?」
チェスの世界にはグランドマスターという称号を持っている人達いる。チェス人口の0.02%程しかいないそれは、正に神の領域。彼らが気まぐれで始めた持ち時間1分と言うルールがあるのだが、それは彼らでしかまともにプレイすることはできない。しかし真琴は、クラリッサの待ち時間を利用しているという点を除いて、その領域に片足を入れつつあった。
「それに対してクラリッサの持ち時間は30分。奇跡の頭脳とは良く言った物ですね」
「……ちぇっくめいと」
「……参りました」
がっくりと項垂れるクラリッサ。そこには一筋の涙が浮かんでいた。
「とっても面白かったです。またあそんでくださいね」
「……ええ、そうですね」
結局、勝負は真琴の5戦5勝で終わった。最終的に真琴の持ち時間は2分まで減らされたのだが、スポンジが水を吸収するような勢いで真琴は腕を上げていった。本当に、奇跡の頭脳とはよく言ったものである。
対するクラリッサのプライドはもうズタズタだ。しかし、もう辞めたいとやんわり真琴に告げると、彼が悲しげな瞳で彼女を見つめてくるのだ。誰が抗うことができようか。とてつもなく難題である。
「さて、もういいだろう真琴君。君は少し休むといい」
「えっと……その……」
真琴らしくない歯切れの悪い物言いに、皆頭の上に疑問符を浮かべた。
「ひとりじゃ、その……」
「そう言えばそうだったな……。しかし、私は今から会議に出席しなければ……」
「織斑先生! それでしたらこのわたくしが「却下だ」何故!?」
意気揚々と挙手をしたセシリアを一蹴する千冬。セシリアは涙目になりながらも反論する。
「山田君から頼まれているのさ。オルコットを真琴君を一緒に寝かせるな。とな」
「ぬぐっ……」
(あのメロン……こんなときまでわたくしと真琴さんの仲を邪魔するというのですか!)
ぎりぎりぎりぎりとセシリアの口から歯ぎしりの音が聞こえてくる。しかし千冬には暖簾に腕押しというか、糠に釘というか、歯牙にもかけていない。
「さてどうしたものか……ラウラ、クラリッサ。真琴君が寝付くまでどちらか一緒に寝てやってくれないか?」
「それでしたら私が」
挙手したのはラウラだ。寝る、つまり体を横にするというのは最も無防備になる瞬間だ。実力がある者が近くに居た方がいいのは当然だ。
「すみません……あ、あの、よろしくおねがいします」
羞恥心から頬を染めながらも、天使の様な汚れを知らない微笑みを含みながら上目使いで見上げる真琴の以下略。
まぁ、ラウラも当然たじろいだ。
(こ、これは……これがクラリッサから教わった『萌え』という物なのだろうか。なんというか、とても守ってやりたくなる……)
「ぬぐぐぐぐぐ……」
一方、それを見つめるセシリアの表情は険しい。ハンカチが会ったら、今頃ズタズタに噛み千切られているのではないだろうか。ハンカチに労災は認められているのだろうか。
「オルコットを隊員と一緒に外で見張りをするか、客室で待っていてくれ」
「わかりましたわ……」
ラウラは寝る体制に入るため、装備を外して服を脱ぎ始めた。ジャケットとズボンを脱ぎ去り、下着だけ(待機状態のISは装着しているが)になり、いそいそと真琴の横へと潜り込んだ。
「それでは博士。翌朝0800まで、この状態で護衛をさせて頂きます」
「おねがいします」
ベッドの中で真琴とラウラが何やらボソボソと話をしている。
対するセシリアの纏う空気は重い。というか暗い。見ていて痛々しい。近づかないで欲しい。
(これは本格的に対策を打たなければまずいですわ……。大事を取って一泊と仰っていましたが、状況によって日程はいくらでもずれます。このままズルズルとラウラさんや織斑先生に真琴さんとの添い寝の権利を奪われてはなりません!)
―――さて、会議の議題を私は聞かされていない訳だが。
―――まぁ焦るな千冬。おい、千冬に資料を。