────東京、某所。
今日は新月の夜、されど街の光は消えず。
時計の針が0時を回り、家人が眠りに就く時間となっても、繁華街は煌々とした照明に照らされて様々な人々が行き交っていた。
仲間との団欒を終え、酒気に塗れて家事に着く者。
残業の愚痴を漏らしながら、気晴らしに夜の店の暖簾を潜る者。
恋人と共に、これからの蜜月に想いを馳せる者。
彼女は、そんな者達の一人。
大学の友達と飲みに行った帰りに、少し近道をしようと裏路地を使った。
ただ、それだけの話の筈であった。
年若い少女が人気の少ない路地を行くのは少々以上に危険が付き纏うものだが、まだ少女らしい甘さが抜けきっていない彼女には危機意識が足りていなかった。
夜に出歩いても特に問題のなかった、田舎から出て来て間もない事もあったのかもしれない。
そんな彼女は当然の如く路地裏でガラの悪い男達に遭遇し、即座に逃げ出した。
幼少期、野山を駆け回っていた健脚が夜の路地を駆けていく。
だが、地の利は男達にあった。
路地の構造を知り尽くした男達から逃げ切る事は出来ず、遂には袋小路に追い込まれてしまった。
少女を見る、男達の好色な目。
その眼は一様にギラついており、まるで動物を狩る獣のよう。
彼等の脳裏には、少女を組み敷き欲望の限りを尽くす妄想が繰り広げられているのだろう。
普通の少女であれば、その妄想は現実となり少女は悲惨な末路を辿っただろう。
世を儚んで、命を絶つ事すらあったかもしれない。
だが────。
「まったくもう、余計な力使わせるんじゃないっての」
「あっ、が……っ!?」
────────それは、普通の少女であったのならばの話である。
地に伏していたのは、男達の方だった。
戦闘、と呼べるものですらなかった。
少女が軽く地を蹴り、男の懐に飛び込む。
そして拳を腹に叩き込み、昏倒させた。
その繰り返しを、四度。
ただそれだけで、四人の男達は全員が地に伏していた。
少女の名は、
制服のような飾り気のないワイシャツと、青いジャケット。
そして身体の線が浮き出るスキニージーンズを履いた、黒髪ショートの小柄な少女である。
彼女は別段、空手の有段者というワケでも、武術の心得があるワケでもない。
ただ、幼少期より人よりずっと力が強く、足も速かった。
原因不明の高い身体能力任せに、いつの間にか地元では『男殺し』『熊女』等々不名誉な仇名を付けられていた少女であった。
都会に出て心機一転、過去の自分を知る者がいないこの街でイメチェンなるものを図っていた彼女であったが、それはそれとして降りかかる火の粉を払わない理由はない。
まあ、噂が広がるのも嫌なので、逃げ切れるものならそれで済ませるつもりではあったのだが。
「でも、これならもっと本気で走った方が良かったかなあ。壁走りとか普通の人は出来ないって聞いたから、目立つのマズイと思って控えてたんだけど」
んー、上手くいかないもんだなー、と少女は倒れ伏す男達を一瞥する。
男達は呻き声をあげながら悶えており、立ち上がれそうにはない。
その気になれば首に手刀を叩き込んで意識を飛ばす事も出来たが、そうしなかったのにはワケがある。
葵はスマホのカメラでパシャパシャと倒れ伏す男たちの姿を写真に収めると、手近にいた男の手首を踏み砕いた。
「ぎっ……っ!?」
「取り合えず、もうこんな事はしないでね。次君等が馬鹿な真似した時は、分かるよね? 君等の顔は覚えるに値しないけど、写真見ればすぐ思い出すからね」
ギリギリと踏み砕いた手首を圧迫しながら、葵は男がコクコクと頷くのを見届けてようやく足を離し────────男の身体を、思い切り蹴飛ばした。
ぐへっ、という悲鳴と共に男の身体が壁に叩きつけられ、その衝撃で今度こそ意識が消失する。
男がぶつかった壁は鉄骨でも当たったかのようにめり込んでおり、どう見ても人間業ではないのだが、少女にとってはこれが
「ま、君等みたいなのは言っても聞かないだろうから、直接身体に叩き込んでおくしかないよね────────てなワケで、全員タマ潰しとこっか」
「ひ……っ!」
普段と変わらぬ軽やかな笑みを浮かべ、少女は空恐ろしい事を口にする。
だが、男達は痛みで身動きが取れない。
目だけは笑っていない少女の笑みを前に、男達はガタガタと震え出す。
「お、おたすけええええええええええええええええ……っ!」
「あ……っ!」
その恐怖が、痛みを上回ったのだろう。
男達のうちの一人が、それまで見た事もない瞬発力で立ち上がり、路地の出口に向かって駆け出した。
火事場の馬鹿力、というものだろう。
いきなりの事だった為少女も反応に遅れ、男を獲り逃してしまう。
追うかどうか迷った少女であったが、わざわざそんな労力をかけるよりも、目の前の男達に
「へ……?」
────────目に見える
男達が倒れ伏している、路地の行き止まり。
ビルに囲まれた袋小路のそこには、金網が張ってあるだけで誰かが通れるような隙間はない。
その、行き止まり。
正確には、その真下。
ただのコンクリートであった筈のそこが、黒い水溜まりのようなものに変わっていた。
今日も昨日も快晴で、雨など一週間近く降っていない。
何より、それは水と言うにはあまりにどす黒かった。
まるで、ヘドロを煮詰めたような色のその水は、話に聴くコールタールのよう。
嫌な空気だ。
葵は、その空気に覚えがあった。
あれは昔、幼い頃地元の山で初めて子連れの熊に出会った時のような、本能的な恐怖。
野生動物の剥きだしの殺意に晒された時に感じた、「食われる」という恐怖と嫌悪。
自分を排除対象としか見ておらず、あまつさえこの身体を
そんな懐かしくも忌まわしい空気を、この水溜まりは発していた。
その黒い水面が、泡立つ。
男達も、そこで葵のただならぬ様子に気付いたのか、水溜まりの方に顔を向けた。
顔を、向けてしまった。
「はへ……?」
「え……?」
ばくり、と顎が閉じる。
一瞬、その場にいた誰もが理解を放棄した。
水溜まりから、何かが出て来たワケではない。
逆だ。
その顎は目のない、鮫に似ていた。
しかしその腹には無数の鋭利な棘が生えており、一本一本がうねうねと蠢いている。
尾びれは鋭利な刃のようであり、その付け根には人の指のようなものが揺れている。
何より、
正体不明の、怪異。
そう呼ぶのが相応しい、異形の化け物。
その怪異の顎は、最も近くにいた男の頭を一噛みで食い千切った。
当然の帰結として頭を失い絶命した男の首から溢れ出る、夥しい鮮血。
嗅ぎ慣れぬ死臭が、路地の奥を満たしていく。
バリボリと、怪異の口の中から聞こえるおぞましい咀嚼音。
それが、男達の理性の限界だった。
「ひっ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ……っ!!!」
「うわああああああああああああああああああ……っ!!」
「こ、殺されるううううううううううううううううううううううううううううううううう……っ!!」
みっともない悲鳴をあげながら、男達は本能が命ずる恐怖という感情に従って動き出す。
無残に頭を食い千切られた仲間の死に際の光景が、彼等の理性を破壊した。
脇目も降らず、走り去ろうとする男達。
目の前の怪物から逃れる為に、一刻も早く。
なんでもいい。
ただ、こいつに殺されるのは、食われるのは嫌だ。
そんな感情が、男達の足を動かした。
そう、
「へ……?」
ばくり、と顎が閉じる。
その顎は、怪物の顎ではない。
正確には、その怪物の口の中から現れた顎だった。
まるで
足がなければ、人間は動く事が出来ない。
それ以前に、足を失うような大怪我をした段階で出血の量は尋常ではなく、放置すれば出血多量で息絶える。
もっとも。
『食e物q@! 食e物q@!』
この怪異が、男達を放置すればの話だが。
ばくん、と。
既に聞きなれてしまった音が、鳴る。
今度は、悲鳴すらあげる間もない。
怪異の口の中から次々現れた新たな顎が、二人の男の身体を数瞬で食い千切る。
食い残された手足が落ち、コンクリートの地面に、夥しい鮮血が降り注ぐ。
ずるり、と怪異の口内から現れた顎が、根本から吐き出され、あたかも最初からそうであったように怪異は三つに分裂した。
バリゴリと、骨を噛み砕く音がする。
怪物は行儀の悪い子供のように歯の間から人血を溢しながら、捕食した男達を咀嚼していく。
「なに、これ……?」
葵は、その一部始終を見ている事しか出来なかった。
元々、男達を助けようという気はない。
そも、女性に乱暴を働こうとした下種共だ。
積極的に排斥する理由はあっても、彼等を助ける理由はない。
だが、如何に幼少期から人並外れた膂力を持ち合わせていた葵とて、人の死を間近で見るのは初めてだ。
しかもこんな、怪異に捕食された人間の末路など。
(そうだ。逃げなくちゃ)
戦う、という選択肢はない。
少女の膂力が人のそれとは異なるとて、相手は正体も知れぬ怪物だ。
多少力が強い程度で敵う程、生易しい相手ではないだろう。
幸い、怪異は喰らった男達を咀嚼するのに夢中だ。
今なら、逃げられる。
そう考え、葵は恐る恐るその場から一歩を踏み出した。
『────逃t@xue』
────────その考えが、浅慮であったとは気付かずに。
怪異は、葵に注意を向けていないのではない。
前菜を食べ終えた後の
その
それを見逃す程、怪異の食い意地は甘くはなかった。
「……っ!」
怪異の食欲に塗れた視線を浴び、少女は理解する。
此処からは、逃げられない。
この怪異は、身体の大きさに見合わぬ速度を持っている。
葵でさえ、
怪異のスピードがあの口の中の顎の展開速度に限るのか、それとも本体も同等に素早いのか。
それが分からない以上、迂闊に攻めに出るべきではない。
故に、取るべき
────
あの怪異が自分を喰らおうと迫って来た時、その動きを見切り脳天に一撃を叩き込む。
問題は、敵が三体存在すること。
だが幸い、この路地は狭い、
あの巨体であれば、精々一度に襲い掛かって来れるのは二体が限界だろう。
ならば、ギリギリどうにかなる。
これでも、以前に山に棲む狼の群れを蹴散らした事があるのだ。
問題があるとすれば、怪異の
あの怪異一体一体が、車並みの大きさだ。
サイズは即ち、生命力と直結する。
大きければ大きい程、自然界の戦闘では有利になる。
無論例外はあるが、大きさが強さである事に変わりはない。
あのサイズでは、どれ程の威力の一撃を叩き込めば絶命するのか分からない。
(けど、熊でも脳天をかち割れば倒せたんだし、こいつもいける、筈)
葵は腰を沈め、構えを取った。
怪異はそんな
元より、この怪異に我慢などという概念はない。
獲物があれば、根こそぎ喰らう。
それこそが、この怪異の行動原理。
怪異はその
二体の怪異が先行し、その背後から残る一体の怪異が迫る。
予想通りの、直線的な軌道。
葵は最小限の動きでその突進を躱し、一体目の怪異の脳天に向け手刀を振り下ろす。
かつて熊さえ沈めた、少女の一撃。
それは最早手刀の域にあらず、鋭利な刀での一閃に近い。
当たれば絶命する、必殺の刃。
そう────。
『愚t! 愚t!』
「ぎ……っ!?」
────────それが、常識の枠内にいる生物が相手であれば。
相手の虚を突いた、予想外の一撃。
普通の野生動物が相手であれば、それでケリが着いただろう。
だが。
怪異は、普通ではないからこそ怪異なのだ。
手刀による攻撃を受けた怪異は、その身体から無数の棘を生やし、葵を迎撃した。
慌てて腕を引き戻した葵だが、一歩遅くその棘の一つが右腕に突き刺さっている。
咄嗟に左腕の手刀で棘を叩き折り、その場を離脱した葵だが傷は深い。
これでは、右腕は最早使い物にならないだろう。
(駄目だ。これじゃあ、勝てない)
痛みを気合いで抑え込みながら、葵は心中で舌打ちする。
葵にとって最も威力の高い攻撃は右足での蹴りだが、蹴りとは即ち移動を放棄する動きに他ならない。
相手が一体ならばともかく、対峙しているのは機敏な動きの怪異が四体。
まかり間違って迎撃されれば、移動の軸である片足を失うハメになりかねない。
更に、あの棘を生やす攻撃があると分かった以上、肉弾戦など以ての外。
だが、葵に徒手空拳以外の戦闘方法はない。
つまり、あの怪異を倒す方法はない。
『食0p\! 食0p\!』
「あ……」
葵の脳裏に過った、諦観。
その隙を、怪異は見逃しはしない。
三体の怪異が、一斉に葵に飛び掛かる。
動く機は、失した。
少女の肢体は、怪異の餌に成り果てる。
「────おっと、そうはいきませんよ」
────────その男の、介入がなければ。
『痛e! 痛e! 誰q@! 誰q@!』
突如、葵の背後から狐のような形の無数の炎が飛来し、怪異の頭部に着弾。
頭部を焦がされた怪異は怯み、その場でのたうち回る。
「……っ!」
それを好機と見た葵は、素早くその場から離脱。
その声の主の下へ、駆け寄った。
「…………アンタ、何?」
その男の姿は、奇妙だった。
歳は、20過ぎくらいだろうか。
背は高く、線は細い。
髪は薄い金髪で、顔立ちは何処か狐のよう。
茶色のトレンチコートを着た白スーツ姿で、とにかく雰囲気が胡散臭い。
そして最も奇妙なのは、男の右腕だった。
男の右腕は手首から先がなく、断面の奥には暗闇が広がっていた。
腕自体も肘から先が緑色に染まっており、何処か竹筒のような印象を受けた。
その右腕からはゆらゆらと炎が立ち上っており、その炎は狐の姿を象っている。
どう考えても、真っ当な人間ではないのは明らかだった。
だが。
この男は、今自分を助けてくれた。
胡散臭く、正体も分からない。
しかし、この場で頼れる存在である事は、確かだった。
そんな少女の、心の機微を悟ったのか。
男はにやりと笑みを浮かべ、少女に語り掛けた。
「私は