血の大海に身を沈める、巨大な怪異。
その
先程の怪異は、喰物は、精々車程度の大きさだった。
だが、この喰物は違う。
その全長に、果てが見えない。
ジンベエザメすら、比較にならない。
まるで軍艦の如き威容を誇る、眼の存在しない巨大な鮫。
それが、この血の大海の主である喰物の玉体であった。
「な、なんなの、これ……?」
「
まあ、普通の親子のような愛情があるかどうかは知らないが、と九十九は敢えて軽く告げる。
だが、その眼は油断なく眼下の怪物を見据えており、いつでも戦闘に入れるよう準備している。
さっきの怪異を苦も無く倒した九十九が、険しい表情を浮かべている。
つまり、この怪物はそれだけの脅威なのだ。
威圧感も、先ほどの怪異とは比べ物にならない。
モノが違う、とはこの事だろう。
「精々が仮想霊体の変態能力、肉体拡張能力しか持たない分体と違って、原種は独自の固有能力を持っていて、自分の『領域』に獲物を引き込める────────それが、『捕食結界』。この血の海は、あいつの胃袋の中同然なんです」
胃袋、というのは言い得て妙だろう。
もし、巨大な生物の胃袋に落とされた獲物が見る光景があるとすれば、こんなものなのかもしれない。
そんな気色の悪い想像が、葵の中に沸き上がる。
自分は、自分達はこのまま成す術なくあの怪物の餌になるしかないのか。
そんな諦観が、葵の中に浮かび上がる。
嫌だ。
このまま何も為せず、ただ命を捨てる他ないのか。
そんなのは、絶対に御免だ。
故に、縋る。
この場を切り抜ける可能性を唯一持っている、男に。
「一応聞くけど、何とか出来る?」
「…………すまないが、厳しい、と言わざるを得ません。本来原種は、喰物狩り単独で倒せるようなものじゃない。入念な準備の末に、一級以上の喰物狩りが複数で仕掛けてようやく食えるような相手なんです」
私の術は、お世辞にも広域破壊に向いたものじゃないしね、と九十九は告げる。
そう、と葵は努めて冷淡な声でそう呟いた。
多分、本当なのだろう。
こんな所で、嘘をつく理由などない。
きっと本当に手詰まりで、それを正直に話してくれたのだろう。
けれど、それを認めたくなくて。
葵は、みっともなく縋った。
「それなら、普段はどうやってるの? こんな所に出るような相手なら、同じ状況になった人もいるんじゃない?」
「いえ、そもそも原種がこんな所に出るなんておかしいんです」
まず、と九十九は続ける。
「原種は基本的に自分の領域から出ないし、その本体は『禁足地』と呼ばれる場所にいます。だからこんな街中に、幾ら分体がやられたからと言って出て来る筈がないんです」
異常事態だ、と九十九は言う。
つまり、こんな状況はまず有り得なくて、その為の対抗手段も持ち合わせていない。
そう解釈する他、ない状況なのだ。
眼下の怪物は、何処にあるか分からない眼窩から憎悪に満ちた視線を葵達に向けている。
あのサイズじゃ自分達を食ったところで腹は膨れないだろうに、と見当違いな思考が浮かぶ。
ああ、駄目だ。
これは、諦めの思考だ。
これ以上先がないと、捨て鉢になった者の考えだ。
そう思って自らを叱咤するが、身体が動かない。
それはそうだろう。
すぐ近くに、勝てる筈もない巨大過ぎる怪物がいるのだ。
しかも、唯一の希望である男は、この状況に対する対抗手段を持っていないのだという。
諦めろ。
弱気な心が、脳裏に囁いてくる。
諦めて、楽になってしまえと、弱い心が口にする。
そうなった方が、楽だろう。
食われるのは嫌だから、男に頼んで燃やして貰った方が良いのかもしれない。
(いや、燃やされるのも嫌だな────って、何を考えてるのわたしっ! 諦めちゃ、駄目っしょっ!)
ぶるぶると顔を振り、弱気な思考に蓋をする。
そして心の中の弱気な自分を蹴っ飛ばし、九十九に向かって顔を近付けた。
彼に縋る、為ではない。
この状況を、打破する為。
その為の策を、得る為に。
「ねえ、さっき────────貴方もわたしと同じようなものだ、って言ったよね?」
「え、ええ」
「なら、わたしも────────貴方みたいに、やれる? あの化け物を、倒せるのかな?」
その言葉に、と九十九は顔を硬直させた。
それは、見当違いの事を言われた者の顔ではない。
逆だ。
その可能性に思い至った、そんな者のする顔だった。
「…………た、確かにお嬢さんには素質があります。何に憑かれているかにも依りますが、場合によってはあの原種を打ち倒す可能性もあるでしょう」
ですが、と九十九は続ける。
「本来、私のような喰物狩りになるには────────つまり、己が身に宿す『獣』を制御するには、相当な時間がかかります。制御を誤れば身体を乗っ取られ、喰物に成り果てる事すら有り得ます」
たとえば、と九十九は自分の右腕を指さした。
「私の場合は、日本の伝承にある『管狐』になぞらえた形を与える事で、己に宿る『獣』を制御しています」
そして九十九は、核心を告げる。
「名前を、確たる形を与える事で、内なる獣を制御し己が力とする。それを為した者が、獣を駆り獣を喰らう者────────
獣を操り、獣を狩る者。
それが、喰物狩り。
世に蔓延る喰物という怪異を駆逐する、狩人達の名。
それになれるか、と九十九は問う。
恐らく、これは生涯を左右する問いかけだ。
一度足を踏み入れれば、二度とは戻って来られない。
これは、そういう類の分岐点だ。
(日常を捨てるか。それとも日常を抱いて、死を受け入れるか)
全てを諦めて、命を投げ出す。
そういう選択肢も、あるにはある。
だがそれは、葵としては選べなかった。
生きたい、という願望はある。
こんな所で終われるか、という反骨心もある。
それに何より、今まで厭うてすらいた自分の力を、活かせる場所がある。
その誘惑は、葵にとってこの上なく魅力的だった。
故に、告げる。
自分の、意思を。
生死の二択を突き付けられたが故の、仕方のない選択ではない。
自分で選んだ、問いの答えを。
「────────やってやる。わたしも、
「良い答えです。では、すぐに始めましょう」
葵の返答を聞き、九十九は懐から小さな瓶を取り出した。
瓶の中には虹色に輝く液体が入っており、それは毒々しいながらも、何処か美しいと思える光を放っていた。
「この薬品は、『獣憑き』が発現している者の内に眠る獣を強制的に表に出す代物です。これを飲めば、本来必要な精神鍛錬をショートカットして獣の力を引き出せます」
ですが、と九十九は続ける。
「勿論、それだけのリスクがあります。精神的な鍛練を経ずに獣の力を引き出そうというのですから、獣に身体を乗っ取られる危険性も高い。これは本来であれば、まず使用されない禁薬の類です」
「でも、今はそれしかないんでしょ?」
「ええ、ですがかつてこの薬を飲んだ者の約八割が、獣の浸食に耐え切れず『喰物』として処理されています。それでも、やりますか?」
分の悪い賭けだと、九十九は言う。
どちらに転ぼうが地獄だと、葵は理解する。
「上等。やってやるわよ」
だが、葵の答えは変わらない。
一度決めたからには、最後までやり遂げる。
それが、葵のモットー。
幼少期からその心を支えて来た、揺るがぬ信念。
最早、逡巡する時間すら惜しい。
葵は九十九から奪い取るようにその瓶を取り上げると、即座に蓋を外しその中身を喉の奥へ流し込んだ。
「が……っ!?」
────変化は、すぐに訪れた。
熱い。
身体中が、熱い。
まるで内側から火で炙られているような熱が、全身を覆っている。
渇きが、脳を支配する。
水を。
いや、違う。
肉を。
肉を、寄越せ。
何処からともなく沸き上がったそんな思考が、脳を冒す。
(これ、何……? これ、が、わたしの中の、獣……っ!?)
そして、気付く。
これは、獣の思考だ。
葵に宿っていた、正体も知れぬ獣の衝動。
それが今、葵を支配しようとしている。
「あ、あ、ああ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああははははははははははははははっははははああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ……っ!!!
葵は、絶叫した。
それが彼女自身の叫びなのか、獣の産声なのか、それすら分からない。
葵の両腕が、その身体をかき抱いた。
爪が脇腹に食い込み、血が滲む。
それは、内なる獣を抑えようとしての咄嗟の行動なのか。
それすら分からず、葵は必死に己が身体を抱き締めた。
メキメキと、身体の中から音がする。
それは、葵の何かが致命的に変わっていく音だった。
それまでの、外見だけは可愛らしい女の子のそれではない。
内に閉じ込め続けて来た、獣の如き本性が表に出ようとしている。
瞳孔が、開く。
その瞳の色が、変わっていく。
薄い黒から、どす黒い赤へと。
口内の犬歯は獣の如き鋭さとなり、その爪は凶器の属性を帯びる。
少女が、獣に変わる。
理性が、本能に食い潰される。
その、刹那。
────葵は、葵のままでいなさいね────
ふと、祖母の言葉が蘇る。
あれは、山で子連れの熊と遭遇し、命からがら逃げ帰った日。
あの日、自分の弱さに泣いた葵を慰めながら、祖母はそう口にした。
思えば、あの時の祖母はこうした事態も予見していたのかもしれない。
昔イタコをしていたという祖母は、獣憑きの事についても何か知っていたに違いないのだ。
あれは、こんな力に頼るな、という忠告だったのかもしれない。
もしくは、力に頼る事になっても、飲み込まれる事のないように、という忠言だったのかもしれない。
どちらにせよ、葵がやる事は一つ。
(こいつを、わたしのものにする事……っ!)
思えば、幼い頃から葵は自分の力を持て余していた。
その力を、今度は本当の意味で自分のものとする。
此処まで来て、代償だとか犠牲だとか、そんなものを払うつもりはない。
わたしはなにも渡さない。
だけど、お前の力は全部寄越せ。
葵は、心の中でそう叫んだ。
なんて傲岸。
なんて不遜。
だけど。
だけど。
これが、わたしなんだ。
これが、わたしの進む道なんだ。
わたしは、何も失わない。
失ってなんて、やるものか。
全部、全部手に入れてやる。
目の前の化け物を、貪り喰らってでも……!
────よかろう。その傲岸、気に入った……っ! 我が力、使いこなしてみせよ……っ!────
声が、響く。
他ならぬ、葵の中に響き渡る。
それは、妖艶な女の声。
間違っても、人のそれではない。
溢れ出る獣性を煮詰めたような、そんな獣臭さ。
それが、その声に凝縮されていた。
「……っ!」
瞬間、身体を巡る熱が変わった。
身体を炙り、痛めつけるものから。
四肢を巡り、動かす血液のように。
葵の身体に、馴染んでいく。
全身の血管に、炎が流れていくかのような熱さ。
だが、不思議と痛みはない。
まるでそれが当然だったかのように、葵の血液が別のものに置き換わる。
それは、炎の血脈。
異形をその身に顕現させる為の、触媒にして着火剤。
燃え上がる血液が、その変転を終える。
「く、ああ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ……っ!!!」
炎が、吹き上がった。
外から、ではない。
葵の内から漏れ出た炎が、柱となって燃え上がった。
「く……っ!」
その勢いに、九十九は気圧された。
一部始終を見守っていた彼だが、最悪の場合彼女をこの手で処断する事も、覚悟の上だった。
内に眠る獣との対話に、他者が介入する事は出来ない。
むしろ、余計な介入は失敗の可能性を高めるだけだ。
だが、どちらにせよこれは成功率の低い賭け。
少女が自失し、獣と化す可能性の方が高いと九十九の常識は訴えていた。
(けれど、大丈夫。きっと、彼女は────)
しかし、九十九は信じていた。
先程、やってやる、と意気込んでいた少女の言葉を。
根拠はない。
ただの、直感。
けれど、不思議と信じられたのだ。
会って間もない、少女の言葉を。
それは、『原種』などという化け物と遭遇し、打つ手のなくなったが故の捨て鉢じみた思考などでは断じてない。
むしろ、逆だ。
この状況を覆すのは、彼女しか有り得ない。
そんな、根拠のない確信が、九十九にはあった。
(さあ、どうなった……?)
炎の柱が、消える。
否。
凝縮し、形を為す。
燃え上がる白炎が、晴れていく。
「あれは……」
────────現れたのは、美しく変生した少女だった。
身体の周囲に鎧のように炎を纏い、まるで天女の羽衣のよう。
熱に耐えきれなかったのか、服は燃え落ち跡形もない。
だが、その肢体を覆う薄手の巫女服のような衣装が、彼女の身を覆っていた。
少女の瞳の色は、紫。
喰物特有の眼、赤色ではない。
何より、その瞳には────────確たる少女の理性が、宿っていた。
「捕食展衣────────『白面』」
少女の祝詞が、響く。
同時に、その背に明確な変化が現れる。
まるで翼のように広がるのは、三本の────────炎の、尾。
そしてその顔には狐を象った、上半分だけの仮面が現れる。
少女の、力の象徴。
それが今、この世界に現出した。