鷺沢文香と一知半解の物書き 作:ペンデュラムの根っこ
この世界には、何事にも隠と陽の種別がある。
例えば、大学におけるヒエラルキー。
「月島のやつ、彼女できたんだってな」
「え、マジで?」
苦々しい顔を浮かべた大野の言葉に、俺は仰天した。
「マジ。この間、急に言われてさ。ついでに顔写真も見せられたんだけど、結構かわいい子だった」
「あー、それで最近付き合い悪かったのか……え、じゃあさ。まさか今あいつがいないのって──」
「多分彼女とメシ食ってんだろ」
「うおー、マジか」
俺たちが男2人で寂しく学食を食べているというのに、月島は恋人と楽しくランチタイム。月島を祝う気持ちよりも先に、醜い妬み嫉みがため息と共にこぼれた。
逃避するように周りを見渡せば、男女で机を囲むグループがしばしば目に入る。一丁前にキャンパスライフを謳歌する彼らは眩しい笑顔を浮かべていて、ただイライラが募るばかりだった。
「まあ、大学生にもなって、彼女いないやつの方が少ないのかもな……」
大野がどこか遠くを見つめて呟く。
「そんなことはないだろ。俺の知り合いもまだ独り身のやつの方が多い────はずだ」
「案外知らないだけかもよ? 素朴で清純そうに見える子も、意外と遊んでるもんなんだよ」
「……そう言えば松葉さんも、男とっかえひっかえしてるらしいな」
「え、嘘だろ?」
「誰かがそう言ってたんだよ。実際のところは知らん」
「はー、マジかー」とうなだれる大野を横目に、俺は窓の外を眺めていた。空はひつじ雲の浮かんだ晴れ模様。食堂の喧騒とは対照的な長閑な風景に、心が癒しを求めていた。
と、そこを長い髪の女性が横切る。前髪が目元まで隠していて、顔はよく見えなかった。ゆったりとした服を着た彼女は、一冊の本を両手で大事そうにかかえ、のんびりと歩いていた。見るからに素朴で地味だったが、汚れている風ではない。
今しがたの大野の言葉を思い出し、何となく目で追ってしまう。
あの子にも、彼氏とかいるのだろうか。
だとしたら、なんと切ない世の中だろう。
──────────
「ドクソン」
帰り支度をしていた俺に、月島が声をかけてきた。
「ああ月島。お前、彼女ができたそうじゃないか」
毒吐くようにそう言うと、月島は目を丸くした。
「大野から聞いたのか」
「おう」
「じゃあ話は早い。その彼女から聞いたんだけど、お前、『千曲書店』って知ってるか?」
「千曲書店? 知らないけど」
「コインランドリーを左に曲がったしばらく先にあるらしいんだよ。小さな本屋で、古い本も結構置いてるらしい」
俺は本屋を、というか本を探していた。大学図書館でも悪くはないのだが、より雰囲気のある書店で本を買って、手元に置いておきたかった。友人たちにはそのことを相談していたのだが、月島がそれを覚えていて、自分に教えてくれるとは正直思っていなかった。
「月島、ありがとな。試しに行ってみるよ」
「おう。まあ、彼女ができたことを黙ってたお詫びってことで」
「それとこれとは話が別だ。俺はお前を許さん」
月島は口をへの字に曲げた。
「ていうか、俺にも写真見せろよ」
「あー、うん。ほら──」
スマホの画面に写った女性は、見知らぬ人だった。大野は結構かわいい子だと言っていたので、こっそり期待していたのだが、写真を見る限り、俺の好みとは少しズレているらしい。
「……お、かわいいじゃないか」
「だろ?」
月島は屈託のない笑みを浮かべる。俺は彼を許し、彼の幸せを願うことにした。
──────────
大学帰りのコインランドリーを左に曲がると、一軒家の並んだ住宅街になっている。大学の近くに比べると店も人影も見当たらなくなるこの辺りには、一度も訪れたことはなかった。本当にこの先に、月島の言う書店があるのかと半信半疑ながらも、俺はカバンを肩から下げて黙々と歩いた。
5分ほど歩くと、道の左側に深緑の庇のついた建物を見つけた。古めかしい木造二階建てで、庇の前面に掠れた白文字で『千曲書店』と書かれていた。どうやら月島の言葉は真実であった。
辺りはポツンと静まり返り、太陽のチリチリという音すら聞こえそうなほどだった。見慣れぬ風景に心が据わらず、背伸びするようにしてこっそりと中を覗き見る。
薄暗い店内にはこれでもかと本が並べられていた。縦4列に複数並べられた背の高い本棚に、隙間なく本が詰まっている。背表紙は色とりどりで背丈もバラバラだったが、それがまた寂れた書店という風で乙な感じがした。
しかし、入りにくい。大衆向けのスーパーや量販店に慣れてしまった現代の若者には、こういったこじんまりとした個人経営らしき店は案外アウェーである。近所では評判のラーメン屋、そこに入ろうと寸前まで近づいて引き返した経験は一度や二度ではない。だてに陰気を20年近く続けていないのである。
とりあえず今日は場所の確認ということで、中に入るのはまた今度にしようか。
そう思い、体勢を戻した時だった。
「あの……」
唐突に後ろから声をかけられ、振り返ると、見覚えのある女性が立っていた。昼休み、食堂の窓の外を歩いていた人だった。相変わらず前髪に隠された目元から、僅かに双眸が覗いていた。
「あ、はい。何でしょう」
「いえ……あなたが店の前で、じっと立っていたので……何か、ご用なのかと……」
ともすれば聞こえる前に溶けてしまいそうな細い声で、彼女はそう言った。服装と同様に、ゆったりとした口調の人だった。
「えと、すみません。怪しい者ではなくて、ただ少し、中に入ろうかどうか迷っていたものですから……」
「でしたら、どうぞお入りになってください。中は冷房も効いていますし……冷やかしでも、構いませんから……」
彼女なりの愛想笑いなのだろうか。僅かに口元を緩ませて、女性は右手で店を示した。つまり、彼女はこの店の関係者なのだろう。
そこまで言われては帰れない。「じゃあ、そうします」と彼女に告げて、俺は『千曲書店』に入った。後ろから彼女もついてきて、そのまま俺を追い越して店の奥に消えていった。
レジカウンターには中年男性が座っていた。俺と一瞬目が合うと、「いらっしゃい」と素っ気なく呟いて、すぐに目を逸らした。店員は彼一人だけであるらしい。
改めて店内を見回すと、漫画や雑誌の類はなく、純粋な活字の本だけを扱っているようだった。どこを向いてもインクの匂いがするここは、俺の探していた本屋そのものだった。
ぼんやりと棚の本を眺める。聞いたこともない作者の、聞いたこともない作品ばかりだった。背表紙を指でなぞり、題名を頭の中で反芻していく。それだけで知識人になった気がした。隅っこの方に梶井基次郎の『檸檬』を見つけて、更に賢い人である気がしてきた。
俺はこの書店に具体的な何かを求めてきたわけではなかった。一般的に本と言って想像される、適当な小説を見繕うつもりだった。難しい言葉がたくさん並んでいて、深いストーリーと凄まじい文量を保持するものであれば、何でもよかった。
しかしただ眺めるだけではどれがいいのかなんて分かるはずもなく、かといって手に取って確かめる気にもなれず、俺はただ時間を持て余していた。変な客だと思われていないか心配で、レジカウンターの方を見ると、いつの間にか中年の店主は先ほどの女性に変わっていた。女性は熱心に文庫本を読んでいて、俺のことなどどうでもいいようだった。
店内をうろつくこと数分。一通りタイトルを眺めて、直感で一冊の本を選んだ。カバンから財布を取り出してレジに向かうと、女性はまだ本を読んでいた。
「すみません」
声をかけるが、彼女は無視した。
「あの、すみません」
再度声をかけるが、再度彼女は無視した。完全に本の世界に没頭しているようだった。
「あの、あの、ちょっと」
繰り返し話しかけるが、彼女は全く気づかない。猫背気味にじっと本を見つめていると思ったら、おもむろにページを捲った。
「あの!」
「っ! は、はい……」
今しかないと思い、少し大きな声をかけると、流石に気づいた彼女が驚いてこちらを見上げた。
ふわっと揺れた前髪が一瞬、彼女の顔を離れて、隠れていた目元が見えた。
息を呑むほどに、美しい女性だった。
「………………」
「……あの、何でしょうか?」
言葉を失っていると、また顔の隠れた彼女が怪訝そうな声でそう尋ねてきた。
「あ、すみません。お会計をお願いします」
慌てて本を出すと、それを受け取って表紙を眺めた彼女が、ほんの僅かに仰け反った、ように見えた。しかし何を言うでもなく、代金を俺に告げ、俺はちょうどの金額で支払った。
「カバーは、おかけしますか?」
「あー、そのままで大丈夫です。袋も要りません」
「そうですか……では、どうぞ……」
差し出された本を受け取り、小脇に抱える。「どうも」と簡素に告げて店を出ると、「ありがとうございました」という声が聞こえた。
相変わらず人気のない道を歩きながら、『千曲書店』のことを考える。いい店だった。雰囲気がよくて、店員さんがとびきりの美人だった。ほんの一瞬しか見えなかったが、見間違いではないはずだ。
あんな美人であれば大学でも噂になっているはずなので、きっと彼女の素顔を知る者はほとんどいないのだろう。美人の秘密を覗いた優越感を感じ、無意識ににやけてしまう。
また近いうちにあの店に行こう。そう心に決めたが、まずは購入した本を読まなければ。手に持ったままの本を掲げ、表紙を眺める。
『裸のランチ』
タイトルしか分からないが、きっと面白い作品に違いない。