鷺沢文香と一知半解の物書き 作:ペンデュラムの根っこ
「あ、先生! 待ってましたよー!」
「ちょ、やめてくださいよ綿井さん……」
カフェに入るやいなや、コーヒーを飲んでいたスーツ姿の女性が立ち上がり、こちらに向かって激しく手を振った。他の客の視線が俺に集まり、恥ずかしさに背中を丸め、慌てて女性に駆け寄る。しかし女性──綿井さんという──は気にした様子もなくカラカラと笑った。
「ま、座ってください」
「お願いですから、目立つようなマネはやめてください。恥ずかしいったらありゃしない」
「気にしすぎなんですよ、先生は」
「あんたが気にしなさすぎなんですよ」
「あはは、すいません」と彼女は後頭部を掻くが、そこに反省の色は全く見られない。似たようなやりとりはもう何度も繰り返していて、それでも一向に改善しないということは、つまりそういうことなのだろう。
諦めて彼女の対面に座り、ホットコーヒーを頼んだ。
「いやあ、お久しぶりですね。半年ぶりくらいですか?」
「多分それくらいじゃないですか。3巻が発売した頃でしたから」
「富士見先生はその後お変わりなく?」
「真っ当に大学生をしてますよ」
「それは良かった」
そう言いながらも、彼女の静音は平坦で、至極どうでも良さようだった。
「3巻の売れ行きもまあまあですし、いい感じじゃないですか」
「あれでまあまあなんですか?」
「まあまあですよ。今時の数打ちゃ当たる戦法で出された中では、中堅くらいの無難な売れ行きです」
「……今一嬉しくないですね」
「ぜひ喜んでください、富士見ドクソン先生?」
語尾の上がった口調が腹立たしくて、俺は溜飲を下げようと今しがた届いたコーヒーに口をつけた。
「──っ、あっつ!」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫です!」
俺はどうにも、綿井さんが苦手である。いつも笑顔で愛想もいいのだが、何だか彼女の視線には微かな嘲りが含まれているように見えるのだ。彼女が使う“先生”という言葉には、こちらを揶揄するような冷たさがあった。
「……最近、友達に身バレしたんです」
「え、そうなんですか」
「言いふらしたりはしてないみたいですけど、それから友達にはドクソンって呼ばれてます」
「あー、まあ良かったじゃないですか。友達だけで」
「みんなにバレたら俺は死にますよ、マジで」
俺がそう言うと綿井さんはまた大きく笑う。開かれた口元から犬歯が覗いていた。
「あー面白い……えと、それでですね。今日来てもらったのは、最近の先生の作風についてお話ししたかったからなんですよ」
「作風?」
「ええ、ええ。まーあの、ズバリ言ってしまうと……最近、小難しい単語をよく使ってますよね」
テーブルに両肘をつき、ぐいと顔を近づけてくる。三日月形に歪んだ目はまっすぐにこちらを射抜いていて、黒い瞳にはきっと強張った俺の顔が映っているのだろう。
「それをね、止めてほしいんですよ。できるだけ早くに」
「…………」
「分かります。物書きとして成長して、社会的に認められるような作品を書きたいという先生の熱い想いはよーく分かるんです、けど! ほんの少しだけ、それは読者が求めているものとは違うと思うんです────ほんの少しだけですよ?」
彼女の提言は非常にシンプルだ。書き方を元に戻せ、ただそれだけ。同じ漫画で急に画風が変わったら困るから、とっとと元の絵柄に戻せ、みたいなこと。理屈は正当だし、聞き入れるしかないことは分かっていたが、俺にはそれが堪らなく受け入れ難くもあった。
俺の連載している作品は、いわゆるテンプレ的なネット小説である。つまらない人生を過ごしてきた主人公が、高校一年生に逆行して、美少女たちと改めて青春を過ごす、二束三文にもならない話。たまたまランキングに載ってPVが増え、たまたま出版社の目に留まり、たまたま複数冊の書籍化がされただけの、つまらない自己満足。
多くの反響があったことに最初はただ喜んでいたが、段々と居心地が悪くなった。元は退屈な高校生活の憂さ晴らしに始めたものだったのに、取り返しのつかないところまで来てしまったのだ。
「…………」
「ね、お願いしますよ先生」
正直、難しい言葉を使って文章を書くのは苦しくもあった。類語や熟語を一々調べて、一つの文章を書くのに何分という時間を要するのだ。どうにかしばらく続けてはいたが、彼女に止められるまでもなく、俺は挫折していたかもしれない。
「……分かりました」
「そうですか、助かります!」
先程までより椅子に浅く腰掛け、背もたれに体重を預ける。
「別に今までのを修正してもらう必要はありませんから、どうかそのまま更新を続けてください。またそのうちに次巻の話が来ると思います」
「……はい」
「じゃあ、お会計は私がしておくので、先生はごゆっくりどうぞ」
用は済んだとばかりに、綿井さんはそそくさと立ち上がった。その顔は溢れんばかりの笑顔をしている。きっとスムーズに話が終わってご機嫌なのだ。
ちょっと、イラっとした。
「──あの」
「はい?」
足早に立ち去ろうとする背中に声をかける。振り返った彼女に、カバンから取り出した一冊の本を手渡した。
「それ、ぜひ読んでみてください。今度メールをいただく時に、感想も一緒に送ってもらえると嬉しいです」
「『裸のランチ』、ですか。へえ、聞いたことのない本ですね」
「オススメですから、ぜひ」
「ありがとうございます! 感想、お送りしますね!」
会計を済ませ、退店していく彼女をぼんやりと眺める。ああまで言ったのだから、全く手をつけないなんてことはないはずだ。俺は3分の1も読まないで挫折してしまったが、彼女ならきっと読破して、素晴らしい感想を俺に教えてくれるだろう。
少しだけ、胸のつかえが取れた気がした。
──────────
「……いらっしゃいませ」
静かな店内に、小さな挨拶が控えめに響いた。カウンターの向こうで軽く頭を下げる彼女は、相変わらず前髪で顔が隠れている。
先日買った本のチョイスは失敗だったと言わざるを得ない。あまり読書経験のない自分でも分かる程度には、あれは普通ではない代物だった。もしあれが文学のスタンダードであるなら、一生をかけても理解することは叶わないだろう。
であるからして。今回は、まともな本を選びたい。しかし王道の名著に関する知識もなく、どう調べたら良いのかもよく分からなかったため、結局フィーリングで選ぶハメになる。
また背表紙をなぞりながら店内を練り歩き、熟考に熟考を重ねた末に、2冊の本を手に取った。もし片方がおかしな作品でも、もう片方を読めばいい。その上、前回は原作が外国人の本を選んで失敗したから、今回はどちらも日本人の作者のものだ。我ながら賢い選択である。
レジカウンターに向かうと、女性はまたも本を読んでいた。紙面にかなり顔を近づけて、熱中しているように見えた。
「すいません」
うっすら予想はしていたが、やはり女性は反応を示さない。
そのまま再度声をかけたりせず、じっと読書する様を眺めていると、少しして彼女はページを捲った。
「すいません!」
「あっ、え──」
気づいた彼女が顔を上げる。残念ながら前髪の奥はよく見えなかった。先日も似たようなことがあったのを覚えていたのか、彼女は慌てた様子で「も、申し訳ありません」と頭を下げた。
「お願いします」
本を差し出すと、彼女は1冊目の表紙を見て固まり、2冊目の表紙を見て恐る恐るこちらを見上げた。しかし特に何を言うでもなく、淡々と料金の生産を終えた。
「……カバーをお付けしますか?」
「大丈夫です。袋もいりません」
「……かしこまりました……では、どうぞ」
両手で差し出された本を、こちらも両手で受け取る。卒業証書をもらうような体勢だった。
「……ありがとうございました」
彼女の言葉に軽く会釈を返し、店を後にする。
外に出ると、傾いた日が空を赤く染めていた。静かな町並みとじんわりと暖かい空気はノスタルジーに満ちていて、夕陽を眺める足をしばしば立ち止まらせた。
こういう雰囲気を、俺は作品に求めているのだ。落ち着きがあって、優しく涙腺を刺激する、大人な文章。
それはきっと、俺が胸に抱くこの2冊に詰まっているに違いない。
『ドグラ・マグラ 上』
『乳と卵』