鷺沢文香と一知半解の物書き   作:ペンデュラムの根っこ

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大野と変人な読書家

「……文学って、何なんだろうな」

 

 机に顎をつけ、力なく呟く。前の席に座る大野はスマホをいじったまま、これといった反応を見せなかった。

 

「……文学って、何なんだろうな」

「何だよ。聞こえてるよ」

 

 大野は顔を上げ、俺を睨みつけるように目を細めた。

 授業開始前の講義室にはまだ人は疎らで、気怠げな雰囲気が漂っている。時々誰かの欠伸が目に入り、こちらまで眠気を誘われた。

 

「最近、本を買ったんだ。3冊」

「ほう」

「それを読んでたんだけどさ、面白くないというか、どうにも読み辛いというか」

「どんな本を読んでたんだよ」

「『裸のランチ』ってやつと、『ドグラ・マグラ』──あと、『乳と卵』だったかな」

「それはお前のチョイスが悪いわ」

 

 大野は呆れを含んだ声でそう言った。

 

「なに、お前も読んだことあるの?」

「『乳と卵』ってのは知らんけど、他の2つは一応な。どっちも変な本で有名なやつだよ」

「なんだ、やっぱりそうだったのか」

 

 自分の感性がおかしくなかったことに安堵する。あやうく読書家はみな変態だという偏見を持つところだった。

 上体を起こし、伸びをする。肺から息が漏れ出て、変な声が出た。

 

「でもどっちも面白いぞ。何度も読めって言われたら嫌だけど、一回は読んでみるといい」

「そうなのか?」

「ああ」

 

 それから大野はペラペラと、2つの作品やその作者についての豆知識を教えてくれた。本のことを話す大野は楽しそうで、やや早口になって熱心に語る様子は普段とはまるで異なり、彼の新たな一面を垣間見た気がした。

 

「……お前、意外と本とか読むんだな」

「うーん……まあ、人並みに? そんなに沢山読んでるわけじゃない」

「へえ」

「……良かったら、面白そうなのを何冊か貸してやろうか?」

「あー……いや、いいわ。タイトルだけ教えてくれ」

 

 どうせなら、千曲書店で本を買うときの参考にしたい。借りるのが嫌なわけではなく、本を所有する感覚を味わいたいのだ。

 

「ていうか、お前はあんまり本とか読まないのかよ。作家なのに」

「だからこれから読んでいこうと思ってるんだ……それに、俺は作家じゃない」

 

 ネット小説なら読み漁った。手軽に無料で読めるのだから、これほど使い勝手のいい媒体は中々ないだろう。

 けれど、やはり。陽キャも深夜アニメを語る時代になったとはいえ、未だにサブカル軽視の風潮は変わらない。ネットに顔を出して活動することへの不安はむしろ募るばかりなのだ。ネット小説が好きだとか、ましてや自分でも書いてるだなんて、自分から誰かに言えるわけがない。

 ネット上の物書きを『作家』と呼ぶことに、そして自分がその範疇にあると思われることに、俺は激しい拒否反応を示していた。

 

「ドクソン」

「何だよ」

「何であれ、多くの文章を書いて、それを他の人に発表できるってのは結構凄いことだと思うぞ。長い間ペースを落とさずに書くなんて、簡単にできることじゃない。少なくとも俺には無理だった」

 

 背もたれの上で腕を組み、大野は言った。まっすぐに見つめてくる彼の瞳がやたらと眩しく見えて、たまらず目を逸らした。

 大野がどういう気持ちで、どんな感情を込めていたのかは分からない。彼との付き合いは大学に入学してからの短いもので、俺は彼が読書家であることも知らなかった。こんな風に真面目な顔で語らうことは、俺たちの気楽な空気には不似合いだと思っていた。

 だが、彼に『ドクソン』と呼ばれるのは、不思議と不快ではなかった。

 

「お前、いいやつだな」

「だろ?」

 

 

──────────

 

 

 大野曰く、古い作品は癖があって、難解な構成のものが多いから、初めに読むなら最近の作品の方がいいらしい。

 ジャンルも多種多様であるが、綺麗な文章を読みたいのなら、純文学がオススメだそうだ。

 

 また千曲書店を訪れた俺は、適当に本棚を眺めることはせず、まっすぐにレジカウンターに向かった。今日も今日とて本を読み耽る店員に、機を見て声をかける。

 

「あの!」

「っあ……はい」

「『博士の愛した数式』、という本はありますでしょうか」

 

 大野に聞いた題名を伝えると、女性はふむと天を仰ぎ、すぐにこちらに向き直って「……おそらく、あったかと思います」と言った。その間も彼女の顔は隠れたままであった。

 

「……探してきますので、少々お待ちください……」

 

 閉じた本を机の上に置き、立ち上がった彼女は迷いなく右から2番目の通路に入っていった。

 女性の後ろ姿をじっと見るのも憚られたので、視線をカウンターの上に置く。積み上げられた本は売り物ではなく、彼女が読むためのもの、あるいは読んだ後のものだろう。暇があれば読書に励んでいそうな彼女は、年間で何冊くらいの本を読んでいるのか。その頭の中には、何百何千という物語が詰め込まれているに違いない。だとしたら、彼女の作家としての資質は俺の何倍であるだろう。

 ふと、本の山の隣に置かれた一冊が目に映る。彼女が先ほどまで読んでいたものだ。その表紙の絵のタッチには見覚えがあって、顔を近づけてよくよく見てみれば、俺が読破を諦めた『ドグラ・マグラ』の下巻であった。

 

「……お待たせ、しました……」

 

 女性が戻ってきて、うやうやしく本を差し出した。男の子が立っている絵の横に、『博士の愛した数式』と大きく書かれている。優しい印象を受ける表紙だった。

 

「こちらが、お探しの本です……」

「あ、ありがとうございます」

「……ご購入なされますか?」

「えと、はい」

「ありがとうございます」

 

 俺の横を通り抜け、彼女は再びカウンターのイスに座った。

 

「あの……」

「……何でしょうか」

「それ、『ドグラ・マグラ』ですよね」

 

 彼女の前に置かれた本を指差して、尋ねる。

 

「……ええ、そうですが……」

「それ、面白いですか?」

 

 唐突な質問に女性は困惑しているように見えた。しかしすぐに落ち着いて、左手を口元に寄せたまましばらく考え込んだ後、またこちらを見上げ、ゆっくりと口を開いた。

 

「……とても興味深い作品であると、思います……独特の世界観と、斬新な構成で、読み始めてからしばらくは、中々ページが進まないのですが…………終盤の畳み掛けが秀逸で、序盤、中盤で積み重ねられた疑問が、一気に氷解する……そのカタルシスは、それまでの不満を吹き飛ばす、実に素晴らしいものです……」

 

 彼女は語る。じっくりと言葉を確かめるような、温かみのある語り口だった。

 

「……ただ、話の流れが理解し難く、探偵小説であるにも関わらず、明確な解答が出るわけではないので……人を選ぶ内容であることは、確かだと思います…………他人に薦めるのは憚られますが……私個人としては、好きな作品の一つです」

 

 そう言って彼女は『ドグラ・マグラ 下』を手に取り、表紙を優しく撫でた。終始平坦な口調ではあったが、並々ならぬ熱い想いが感じられた。

 

「前にも読んだことがあるんですか?」

「……しばらく読んでいませんでしたが、おそらく、今回で5回目くらいかと…………先日、お客様が購入されたのを見て、また読みたくなったんです」

 

 5回。人を選ぶ難解な構成の作品を、5回。

 その回答に驚いて、つい口が滑った。

 

 凄い、読書家なんですね。

「凄い、変な人なんですね」

「えっ」

 

 言おうとしたことを間違えて、つい本音が漏れてしまった。

 

「あ、ごめんなさい。読書家なんですね、って言いたかったんです」

「え、あ……はい……」

 

 今一腑に落ちないようではあったが、ともあれ代金の支払いを済ませると、俺は彼女にお礼を言って店から出た。

 左手で胸に抱く本には、友人から勧められたこともあり、かなりの期待を寄せている。

 

 誰もいない道を行きながら、先程の彼女との会話を思い出す。

 

『他人に薦めるのは憚られますが……私個人としては、好きな作品の一つです』

 

 彼女の言葉には敬意があった。作品を尊敬し、作者を敬愛し、発言の節々から、彼女がその本を本当に好きであるということがありありと伝わってきた。

 では、俺の作品はどうか。

 俺の書いた物語を読んで、とても面白い、大好きな作品だと言ってくれる人は、どれだけいるだろうか。

 今や世に溢れた娯楽群のほんの一部に過ぎない、無数の内の一つでしかないものが、終わったとて誰の心に残るというのか。

 『ドグラ・マグラ』は古い本だ。それなのに今も多くの人に読まれていて、好きだと言ってくれる人がいる。彼女に、好きだと言ってもらえる。

 

 羨ましい、妬ましい。

 

 だから俺は、作家になりたいのだ。

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