鷺沢文香と一知半解の物書き   作:ペンデュラムの根っこ

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退屈と居合わせた大学生

 いい文章、そうでない文章。

 いい設定、そうでない設定。

 いい構成、そうでない構成。

 いいラスト、そうでないラスト。

 

 有識者でないから、俺には分からない。

 

 でも、いい話だと思った。

 

 

──────────

 

 

 退屈な授業だった。興味のない分野の、対して面白くもない内容。ただ単位を取るために選択した科目だった。

 大野も月野もいない。彼らは別の科目を取っていて、俺の前後左右には誰も座っていなかった。教授のこもった声は低くて聞き取りづらく、それがまた眠気を誘った。

 欠伸を噛み殺し、左から右に講義を聞き流す。

 その時だった。

 

「じゃあ2人1組でグループを組んでください」

 

 気を抜いていて、その言葉を理解するのが遅れた。

 ハッとして回りを見渡すと、既に周囲は粗方グループになっていた。出遅れたことを察し、より遠くにまで目を向ける。まだ誰とも組んでいなさそうな人はチラホラ見えたので、手頃な相手を探す。できれば同性で、話しやすそうなやつがいい。ぐるりと目線を体ごと後ろに向けると、後ろ方の席にぽつんと座る人が目に入った。

 長い黒髪。顔が前髪で隠れた、ゆったりとした服の女性。そこまで視力は良くないが、それでも紛うことなく千曲書店の店員だった。そう言えば同じ大学だったが、同じ授業を取っているとまでは思わなかった。

 呆けていると、彼女がこちらを向いた。目が合った──気がした。

 

 

──────────

 

 

「あ、じゃあえっと、よろしくお願いします」

「……こちらこそ、お願いします」

 

 彼女の名は鷺沢文香さんであった。お互いに自己紹介を終え、授業の課題を始めることにした。

 課題は討論だった。提示されたテーマについて、賛成と反対に別れて話し合う。

 

「賛成と反対、どっちがいいですか?」

「……そう、ですね……賛成でしょうか……」

「じゃあ俺が反対やりますんで」

「……分かりました」

「──じゃあ、討論開始です」

 

 俺は反対だから、とりあえず、賛成の意見を聞いてからの方がいいだろう。そう思って彼女の発言を待つが、一向に彼女の口は開かない。周りの盛んな喧騒だけが耳に届いて、お互いに無言のままでいた。

 

「あー、えっと……」

 

 痺れを切らし、こちらが声を出す。しかし二の句が続かない。つい先程まで呆けていたのだから、授業なんてほとんど聞いていたわけもなく、かろうじて議題の理解はしていても、自分の意見なんて持っているはずもなかった。

 だが、そのまま黙るわけにもいかない。とにかく何かしら話題を出そうと、がむしゃらに言葉を繋げた。

 

「バイト、いつからやってるんですか?」

「え?」

 

 授業と全く関係のない質問に、自分でも困惑した。鷺沢さんも困惑していた。

 

「あ、いや、ちょっと気になっただけなんで、あの変なイミじゃないんですけど──」

 

 変なイミってなんだ。焦りがまた焦りを読んで、最早自分でも言葉の制御ができていない。

 

「えっ、と……『千曲書店』の、ことでしょうか……」

「あ、まあ一応」

 

 意外にも彼女はこの話に乗ってくれるようだった。授業そっちのけの世間話ではあるが、教室の最後方で周りには他の人はいないので、咎める者はいない。

 

「……あそこでバイトを始めたのは、私が高校に入学してまもなくです……本を買うお金が欲しかったのと、お客さんがいない時は、本を読んでいて構わないと言われたので……」

「あ、そうなんですか」

 

 俺がいた時にも気にせず読書に励んでいた気がするが、あえて突っ込む理由もない。適当な相槌を返すと、また無言になるのが嫌だったのか、彼女はまた呟くように言った。

 

「……『千曲書店』は、叔父の店なんです……」

「へえ」

「…………」

「…………」

 

 で、どうしろというのか。大野や月島が相手であればいくらでも話題が出てくるのだが、彼女はどうにも話しにくい雰囲気があった。

 結局、押し黙ってしまう。手持ち無沙汰な右手が後髪をいじる。鷺沢さんはかしこまった様子で手を膝の上に置いていたが、不意に拳をキュッと握りしめた。

 

「……あの……」

「はい?」

「……本は、お好きですか……?」

 

 恐る恐る、こちらの顔色を伺うような発声であった。緩やかに揺れる前髪からチラチラと綺麗な双眸が覗き見えて、心音が高くなるのを感じた。

 

「あー、そうですね……好きになろうとしている所、と言いますか……」

「好きになろうと……?」

「ええ。今までほとんど読んだことがなかったので、少しくらいは、と」

「……なるほど……」

「有名な本とかも全然知らないので、なんかお薦めとかあったら是非教えてください」

 

 何も考えていない、社交辞令的な発言。無言の隙間をとにかく埋めようと、当たり障りのないことを言ったつもりだった。しかし相変わらず拳を握った彼女は、やけに真剣な様子でコクリと頷いた。

 

「鷺沢さんは、本とかたくさん読む人ですよね?」

「……そうですね。他の人と比べて、読みすぎなくらいであると……ある程度は自覚しているつもりです」

「何冊くらい読んだんですか?」

「…………すみません……ちょっと、具体的な数は覚えていないです……」

 

 それはそうであろう。お前は今までに食べたパンの枚数を覚えているのか、という話である。

 

「……ただ、今、叔父の書店に置いてある本は、おおよそ全て読んだのではないかと……」

「えっ!?」

 

 思わず大きな声を出してしまう。それに驚いた鷺沢さんの肩が跳ね上がった。慌てて謝ると、彼女は「……大丈夫です」と呟いた。

 数えてはいないが、あの店にはきっと千冊単位で本が置いてあるだろう。それをほぼ全て読むなんて、俺には一生かかってもできそうにない。

 改めて、格の違いを感じた。

 

「……少ないページ数の本も沢山ありますから、それほど凄いことではないと思います……」

「いや、だとしても相当凄いですよ、それは。なんか尊敬します」

 

 彼女は今までの人生のうちのどれだけを読者に費やしてきたというのか。またこれからの人生のうちのどれだけを読者に費やすというのか。

 

「……ありがとう、ございます」

 

 開いた両手を膝頭の辺りに置いて、彼女は小さく頭を下げた。

 先程からずっと、丁寧過ぎるくらいに丁寧な態度だった。

 

「あの、敬語じゃなくて大丈夫ですよ。同学年ですし」

「……すみません、敬語は癖のようなもので、つい無意識に、こうなってしまうんです……こちらこそ、敬語を止めていただいて構いませんので……」

 

 そう言われてはどうしようもない。ただ、敬語の相手に自分だけタメ口というのは、どうにも違和感があった。

 

「……じゃあ、とりあえずこのままで」

「……はい」

 

 その後もポツポツと言葉を交わしたが、鷺沢さんとの距離が僅かにでも縮んだ感覚はなかった。変わらず本屋の店員と客の間柄で、そこに同級生という情報が加わったに過ぎなかった。

 

 そして結局、討論は何一つ行われないのである。

 

 

──────────

 

 

 その日の帰り、千曲書店に立ち寄ると、鷺沢さんが何やら本を物色していた。彼女は既に高層マンションのようなブックタワーを抱えていたが、その上に更にどんどんと本を重ねていく。

 結構な重量であろうに、彼女は涼しげな様子だ。呆気にとられていると、こちらの存在に気づいた彼女が顔だけをこちらに向けた。

 

「……いらっしゃいませ」

「……こんにちは」

 

 『いらっしゃいませ』に返す言葉が思い当たらず、適当な挨拶を返す。

 大量の本を抱えたまま、彼女はこちらに近づいてきた。

 

「……まだ一部ですが、お薦めの本です。興味がおありでしたら、是非読んでみてください」

 

 柔らかい声で、口元は薄くはにかんでいた。目元が見えればたいそう美人であったろうに、ニヤついた表情からは仄かな不気味ささえ感じられた。

 確かに、お薦めの本があったら教えてほしい、とは言ったが、こんなに早く、こんなに大量に薦められるとは思っていなかった。こういったことは結構、なあなあで済まされたり、その場限りの約束だったりするのだが、彼女にとってはそうではなかったらしい。

 あるいは、せっかくのお客さんに逃げられたくない、という商売人の考えなのか。

 

 ともあれここまでされて何も買わないわけにもいかず、俺はひとまず塔の上3階分を受け取り、その場で購入した。そこまで困窮してはいないはずなのに、やけに財布が痛んだように感じた。

 

「……ありがとうございます……お薦めの本はまだたくさんありますから、読み終えたらまたいらしてください……」

「…………はい」

 

 嬉しそうな彼女の声音がまた辛い。3冊であれば彼女はどれくらいで読破するのだろう。3日か、あるいは1日か。遅くとも1週間くらいで読み終えないと、訝しむのではないだろうか。

 別に読めなかったから何があるわけでもないのだが、きっとこの店には行きにくくなるだろう。つまり彼女との接点もなくなるということで、それは嫌だと思った。

 まあ、頑張ろう。

 

 店を出て、こっそりとため息を吐く。

 

 妙なことになった。


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