鷺沢文香と一知半解の物書き 作:ペンデュラムの根っこ
「活字で目を回した?」
「はい……」
スクールカウンセラーは、両手にマグカップを持ったまま首を傾げた。
「それは勉強のし過ぎじゃないかい?」
「いや、そんなことはないと思います」
「課題とかで忙しいのかもしれないけど、根を詰め過ぎてもいいことはないよ。適度な休息を取って、パフォーマンスを上げることが重要なんだ」
「違いますって。勉強なんてさっぱりやってませんから」
コーヒーを俺の前に置き、彼は対面に座った。
昼過ぎの室内であるが、ブラインドで遮光された室内はオレンジ色のムーディーな灯りで照らされている。熱いから飲めないと分かってはいるが、俺はとりあえずカップの取っ手に指をくぐらせた。
「そうなの?」
「ええほんと。これっぽっちも」
「それはそれでどうかと思うけど……じゃあなんで目を回したのさ」
「本を読んでたんです」
カウンセラーはコメカミを指で押さえ、「ううん」と唸った。俺の言葉の消化に時間がかかっているようだった。
「……ええと、君は教科書じゃなくて、普通の本を読んでいて目を回したのかい?」
「はい」
「じゃあ本を読まなければいいじゃないか」
「そういうわけにも行きません」
俺は鷺沢さんから薦められた本をなるべく早く読み終えなければいけないのだ。誰からもそんなことを言われてはいないのだが、一種の強迫観念のような何かが俺を急かしていた。
「どうしても読みたい本でもあるのかい?」
「いや、別にそういうわけでもないんですけど──」
読みたいのではなく、読まなくてはいけない。
「なら読まない方がいい。読みたくもない本を読んだ所で、何の意味もないよ」
「意味はあります」
「へえ、どんなの?」
「女の子と仲良くなれるかも知れません」
「それは大事だね」
彼は背もたれに寄りかかって膝を組み、ニヤリと口角を上げた。
「可愛い子かい?」
「ええ、それはもう」
「なら尚更だ。なるほど、それで君はその子のために本を読みたいんだね?」
「そういうことです」
彼はふむふむと然りに頷き、腕を組んだが、すぐにそれを解いてコーヒーに口をつけた。合わせるようにこちらもマグカップを持ち上げるが、陶器から伝わってくる温度はまだ危険域にあったため大人しくテーブルの上に戻した。
「結構結構、僕はそういうのは否定しないよ。結果として善であるならきっかけなんて些細なモンさ。バンドマンなんて九分九厘モテたいがために活動してるんだし」
「それはバンドマンに失礼では?」
「バンドマンには言わないからいいんだよ」
まあでも、九分九厘は言い過ぎにしても、半分くらいはカッコつけるためにやっているとは思う。少なくとも、派手な色に髪を染めるようなやつは間違いなくそうであろう。
「ちなみに、どんな本を読んで目を回したんだい?」
「『黒い家』です」
「……うーん、まあ……分からないでも、ないことはない、か?」
彼は『黒い家』を知っているらしかった。そして彼にとっては、あまり難解な本ではないようである。
「先生は本がお好きなんですか?」
「好きだよ。基本ミステリー専門だけどね」
「最近読んでないなあ……」とカウンセラーは残念そうに言った。本を読んでいないことを残念がる心情は全く理解できるものではない。しかし何となく理知的な憂いを帯びる様子は、少し格好いいと思った。
「まあ、慣れだよ。習慣にさえできれば苦痛もなくなるもんさ。ほら、バイトなんかでもさ、3日、3週間、3ヶ月で辞めたくなるっていうだろ?」
「確かにそうですね」
実際、俺はコンビニのバイトは3週間で辞めたし、ファミレスは3ヶ月で辞めた男である。彼の言葉は嫌なくらいに的を得ていた。
「とりあえず、少しずつでもいいから毎日読むようにしたらいいと思うよ。そのうち面白く感じるようになるさ」
「……後4日くらいで、3冊読みたいんですけど」
「それは無理だね」
彼は苦笑し、カップに残っていたコーヒーを飲み干した。
──────────
読了後の感情は、達成感よりも満足感よりも、何よりも疲労感だった。
ホラー、というかサスペンス風味の話で、もっと感情移入できていれば怖かったのかも知れないが、活字を追うので精一杯だった自分には、気づけば物語が終わっていた、程度の認識しか残らなかった。
ネットで調べると、映画化されていることを知った。活字の世界がどういう風に映像化されるのかが気になって、すぐにレンタルビデオ屋でそれを借り、視聴した。
普通に面白かった。
──────────
店内に入ると、鷺沢さんは珍しくカウンターに座ったまま、本を読んでいなかった。
「……いらっしゃいませ」
「どうも。こんにちは」
挨拶を返しつつ、カウンターへと向かう。イスに座る彼女を見下ろす形になるので、少しでも目線を合わせるために軽く膝を曲げた。
「鷺沢さんに薦めてもらった本、読みました。まだ一冊だけですけど」
「……それは、ありがとうございます」
「『黒い家』、面白かったです」
俺がそう伝えると、彼女は胸元に手を当て、「そうですか……」とどこか安心したように呟いた。
「気になって映画版も見てみたんですけど、そっちも面白かったです」
「あ……そうなんですね……」
そこで、会話が止まる。読了報告に来ただけだったので、店員と客との間に繋がる言葉がもうなかった。互いに無言でいると、ふと鷺沢さんが焦った様子で口を開いた。
「す、すみません……私は、映画の方は、見たことがありませんで……」
「あ、いや、大丈夫です、全然!」
会話が続かないのを、自分が映画版を見ていないせいだと思ったらしい。
何が大丈夫なのだろう。彼女を謝らせたことに驚いて、おかしな取り繕い方になってしまった。焦ると言動がおぼつかなくなるのは、昔からの悪い癖だ。
「えっ、と──とにかく、面白い本でした」
「……ありがとうございます」
鷺沢さんが恭しく頭を下げる。肩から垂れ落ちた長髪が顔を覆い隠して、貞子みたいだと思った。
「後の2冊も、できるだけ早く読んでみます」
「……ありがとうございます……ご自分のペースで、ゆっくりとお読みください……」
「どうも。それじゃあ……失礼します」
そう告げて、店を出ようと背中を向ける。無事に感想を言えたことに一先ず安堵していると、「あの……」とか細い声に呼び止められた。立ち上がった鷺沢さんが、しとやかに両手を合わせていた。
「……少し、待ってもらえますか……」
「え、ああはい」
こちらが頷くと、彼女はカウンターを出て俺の横を通り過ぎ、本棚に向かった。そして本棚から迷う素振りもなく2冊の本を取り出すと、戻ってきて俺の前に立った。
「……同じ作家さんの本です……お代は要りませんので、どうぞ……」
顔をうつむけたまま、彼女が本を差し出す。上に置かれた本の表紙には、『クリムゾンの迷宮』と書かれていた。
「えっ、あ、ありがとうございます」
理解が追いつかぬまま、半ば無意識に本を受け取る。下の本は『青の炎』という題名だった。
数秒間、呆けて、また彼女から本を薦められたのだときづく。しかも、どうやらタダでくれるつもりらしい。
「いや、あの、お金払いますっ!」
「……いえ、結構です……これは、私があなたに読んでいただきたいだけなので……」
「でも──」
「大丈夫、ですから」
彼女は意外と頑固な人だった。どうしたものかと立ち尽くしていると、彼女はまたカウンターの向こうに戻ってイスに座った。
本を返されるつもりはないようだし、ここは大人しく受け取っておいた方がいいだろう。「ありがとうございます」と頭を下げると、彼女も小さく会釈した。
「えっと、じゃあ、また来ます」
「……お待ちしています」
3冊の本を買って、1冊読み終わったと思ったら、読んでいない本が4冊になっていた。できの悪いナゾナゾのような状況に首を傾げつつ、店を後にする。
去る間際に振り返って彼女を覗き見ると、本を開いてまた読書の世界に入り込んでいた。
今日はタダで本を貰えたし、少しは打ち解けてきたのだろうか。
前髪の奥は、見えないままであるけれど。