鷺沢文香と一知半解の物書き   作:ペンデュラムの根っこ

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松葉さんと乱高下する体温

 講義室にはまだほとんど誰もいなかった。早めに昼食を食べ終え、一足先に来たからだ。

 いつもの席に座り、鞄から一冊の本を取り出す。鷺沢さんから薦められて買った3冊の本、その最後の1冊。真ん中くらいのページに挟まれた栞を抜き取り、読み始める。

 少しだけ、本を読むことに慣れてきた。一文一文を深く読み込むのではなく、物語の波に乗って流れるように読み進める。文章を学ぶという点では間違っているのだろうが、比較的ストレスなく読むことができた。

 

「それ、ジュール・ヴェルヌ?」

 

 前から聞こえてきたのは、喜色を纏った女性の声だった。顔を上げると、猫のように愛らしい笑顔を浮かべた松葉さんがいた。

 

「『地底旅行』だよね、それ」

「あ、うん。そうだけど」

 

 そう答えると、彼女はワッと大きな声を上げ、机に両手を着いた。講義室にいた数人が皆こちらに顔を向ける。

 

「やっぱり! アタシ好きなのよ、ジュール・ヴェルヌ!」

 

 彼女の大きな声が室内に反響する。今にも踊り出しそうなほどに陽気な彼女は、肩を左右に揺らしている。

 

「意外だわ、キミもそういう本を読むのね。てっきり、マンガとゲームとアニメにしか興味がないのだと思っていたのだけれど」

「そんなことはない」

 

 ムッとして強く反論したが、彼女のイメージは概ね事実と相違なかった。この数日で成長はしているが、文学に勤しむオシャレ系では決してないのだ。

 俺の苛立ちが伝わったのだろう、松葉さんは「ごめんごめん」と言い、カラカラと笑った。小さじ一杯分も謝意は含まれていないように見えた。

 

「でも、嬉しいな。アタシの周りでそれ読んでる人、全然いないんだもの」

「っていうか、松葉さんはこういうの好きなんだね。あんまりそういうイメージなかった」

 

 快活な彼女は、硬式テニス部に入っている。名前だけのお遊びサークルではなく、しっかりとした部活動だ。浅黒く焼けた健康的な肌は、俺とは別のベクトルで文学からは遠い人だと思わせる。

 

「いやー、お堅い本はあんまし読まないんだけどね。ただなんとなく、ジュール・ヴェルヌは好きなんだ」

 

 そう言って彼女はにっこりと笑った。よく磨かれた白い歯は、小麦色の肌との見事なコントラストを形成していた。

 

「ねね、『月世界探検』は読んだ? 『海底二万里』は? 『十五少年漂流記』は?」

 

 机に着いた手を支点として、彼女がジリジリとこちらに顔を寄せてくる。彼女の瞳に反射した景色が見られそうなまでに近づいたところで、俺は羞恥に顔を背けた。

 

「ご、ごめん! 他のは1つも読んだことがないんだ! これも、他の人から薦められて読んでるだけでさ──」

「なーんだ、残念」

 

 露骨に失望した様子で、彼女は状態を起こした。間違いなく俺に対する好感度が下がっている。慌てた俺は必死にフォローする術を模索した。

 

「──あっ、そうだ! 鷺沢さんなら、読んだことあるかも」

「鷺沢さん? 誰それ」

「ええっと……」

 

 彼女について説明しようと思った矢先、前方の入り口から本人が入ってくるのが見えた。

 

「あそこの、前髪の長い女の子だよ」

「えっ?」

 

 振り返った松葉さんが、鷺沢さんを見つける。すると弾かれたように飛び出して、駆け足気味に彼女に近づいていった。

 

「キミ、鷺沢さん?」

 

 俺の現在地から彼女達までは多少の距離があるが、松葉さんの大きな声は十分に届いていた。しかしまごついた鷺沢さんの小さな声は流石に聞こえない。

 

「今、ドクソンから聞いたんだけどさ、ジュール・ヴェルヌ読んだことあるって、本当?」

 

 なぜか松葉さんが俺をドクソンと呼んだ。彼女に伝えたはずがないのに、どこから漏れたというのか。まさかネット小説のことまでバレてはいないだろうか。だとしたら、俺はもう大学に居られなくなってしまう。

 鷺沢さんは困惑しているようだったが、松葉さんが「あいつあいつ」と俺を指差すと得心した様子で何事かを話した。

 

「本当に!? いやあ嬉しいな、アタシの周りじゃ全然知ってる人いなくって」

 

 人気者の松葉さんと、よく知らない地味な同級生が話している珍しい光景に、周囲の視線は漏れなく集まっていた。松葉さんは気にしていないのだろう、楽しそうにマシンガントークをしているが、それに圧倒されている鷺沢さんは所在なさげに本を強く抱きしめていた。

 背中を丸め萎縮している姿は、松葉さんとの会話を好ましく思っているようには見えない。ある程度察してはいたが、彼女は人と話すことがあまり得意ではないようだ。

 

 彼女に松葉さんをけしかけて、悪いことをした。

 

 しかし衆目を集める2人の間に割って入る勇気はなく、俺はただ彼女たちを眺めていることしかできなかった。

 

 

──────────

 

 

 後で聞いた話だ。

 

「ねえ、なんで俺のことをドクソンって呼ぶの?」

「この間、大野くんと話していた時に知ったんだよ。聞いても教えてくれなかったんだけど、なんでドクソンって呼ばれてるの?」

 

 とりあえず、俺の名誉は守られていたようだ。

 

 

──────────

 

 

 授業も全て終わった帰り道。1人で歩いていた俺は、前を行く鷺沢さんを見かけた。小さな歩幅でよたよたと歩く彼女は、随分と疲れているように見えた。

 先程の負い目もあり、近づいて声をかけることにした。

 

「鷺沢さん!」

 

 俺の呼びかけに立ち止まり、彼女はのっそりと振り返った。

 

「あ……どうも……」

 

 丁寧な彼女は、やや深く礼をした。

 

「えっとさ、さっきはごめんね。鷺沢さんから本を薦めてもらったって、松葉さんに話しちゃってさ」

「……いえ……少し驚きましたが、それほど嫌ではなかったので……」

 

 多少は嫌ではあったらしい。

 

「……それよりも、あなたが『地底旅行』を、読んでくださっていると分かって……とても嬉しかったです……」

「え?」

 

 風が吹き、彼女の前髪がさらわれる。柔らかく、薄くはにかむ表情が、はっきりと見えた。

 宝石のように澄んだ瞳。気品と同時にほんの僅かな妖艶さが覗き見えた。ぞっとするくらい、綺麗な人だと思った。

 たまに見えるこのギャップは、ズルい。

 

「……よろしければ、またお店に来て、感想を聞かせてください……もちろん、大学でお声をかけていただいても……構いませんから……」

「あ、うん。分かった」

 

 そこまで話して、彼女への敬語が抜けていることに気づいた。

 

「あ、ごめん。タメ口になっちゃってた」

「……そのままで、大丈夫です……」

 

 彼女はクスクスと笑った。

 それから居住まいを正して、まっすぐにこちらを見た。およそ10cmの身長差。

 

「……ご存知のように、私は……人と話をするのが、あまり得意ではありません…………けれどなぜでしょう……あなたとの会話は、少し、面白いと感じています……」

 

 向かい風が彼女の声を押し、やけにはっきりと聞こえた。穏やかな風が頬を撫でる。

 心拍数が上がっているのが、自分でも分かる。早打つ鼓動が鼓膜を揺らしている。トキメキ、上昇する体温。思考に湯気がかかって、彼女以外目に入らない。

 幸せに心が浮かび上がった。

 

 けれど。

 

「……あの、私もあなたを……ドクソンさんとお呼びしても……よろしいでしょうか?」

 

 その熱は、一瞬で引いた。彼女の提案は、俺を地に縛り付けるためには過剰な強さを持つ楔だった。

 脈打つ血流は凪ぎ、代わりにべったりと不快な汗が背中を覆った。

 

 ドクソン。富士見ドクソン。

 

 それは、俺の恥だ。

 

「……あの、顔色が優れませんが……大丈夫ですか?」

 

 彼女が俺の顔を覗き込む。その目が無性に怖く感じた。

 彼女は文化人だ。俺なんかとは違う。

 もし、彼女に“ドクソン”の真実を知られてしまったら、どうなるだろうか。あんなものを書いていると知られたら、俺は──

 

「……ごめん。それは、やめて欲しい」

 

 自分でもゾッとするほどの、冷たい静音だった。鷺沢さんはピクリと肩を震わせて、うろたえる。

 

「え、あ……私は何か、粗相をしてしまったでしょうか……」

「違うんだ。ごめん。本当に、ごめん」

 

 あなたは悪くない。俺がこんなやつなのが悪いのだ。

 

「……それじゃあ」

 

 彼女の横を通り過ぎて、早足でまっすぐに歩いた。困惑したような吃った声が背中に届いたが、振り返ることはできなかった。

 振り返ったら、俺がバレてしまいそうで。

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