鷺沢文香と一知半解の物書き 作:ペンデュラムの根っこ
『青の炎』を読み終えたのは、鷺沢さんと気まずくなってから2週間が経った辺りだった。これで彼女から薦められた5冊の本を全て読了したことになる。
あれ以来、鷺沢さんとは話をしていない。元々接点が多かったわけではないが、たまたますれ違ったり、遠目に見つけてしまった時は、意図して目を合わせずに避けるようになってしまった。彼女と話すことが怖かった。ふとした拍子に“富士見ドクソン”のことがバレてしまうことを恐れていた。
しかし、俺は今日、全ての本を読み終えた。それはつまり、新たな本を買う必要があるということで、鷺沢さんに本の感想とお礼を伝える義務があるということだった。それは俺に残された彼女との唯一の能動的な接点である。その機会を逃せば、関わらないままの日が過ぎて、俺と彼女のぼんやりとした関係は緩やかに消滅していくに違いない。
それは嫌だった。彼女が綺麗だからとか、好きだからというわけではなく、無性に彼女を失ってはいけない気がした。
だから、是が非でも俺は『千曲書店』に行かなくてはならない。
──────────
食堂での一幕。
「やっぱり、菓子折りとか持って行った方がいいのかな」
「要らねえだろそんなもん」
月島は頬杖をつき、モゴモゴと口を動かした。こちらが真面目な相談をしているというのに、至極どうでもいいという態度であった。
「でも、謝るんだからさ。手ぶらってもどうよ」
「別に些細なことなんだろ? ちゃちゃっと行って『ごめんなさい』で済む話じゃないか」
「そうかなあ」
「そうだよ」
彼はやたらと自信満々に見えるので、何だかそんな気がしてくる。俺の知り合いの中で唯一の彼女持ちの彼ならば、少なくとも俺よりかは女心というやつに精通しているはずだ。その彼がそう言うのであれば、大人しく従うべきなのだろう。
「何て謝ればいいのかな」
「知るかよそんなこと。俺に聞かれても分かるわけないだろ」
「でもさ、もし変なこと言って怒らせたら嫌じゃんか」
「いいからとっとと会いに行けよ。謝る謝らない以前に、会わなきゃ何も始まらないだろ」
「……いいこと言うな、月島」
「そ、そうか?」
自分で言って恥ずかしくなったのか、月島は頰をポリポリと掻いた。
「……いやー、でもなー、何かなー」
「…………」
なおも渋る俺に、月島が厳しい視線を向けているのが分かった。けれど謝罪というのはとてもエネルギーを必要とする行為なのだ。怒らせたらどうしよう、嫌われていたらどうしよう、そういう後ろ向きな考えを引きずったまま相手の元に向かわなければならないのだから、相応の覚悟が不可欠なのである。
「……うーん……」
頭を悩ませていると、不意に月島が「ハァ」と大袈裟にため息を吐いた。
「俺、この後用事があるから。帰るぞ」
「ええっ、ちょっと待ってくれよ!」
「何だよ」
ともすれば舌打ちが聞こえそうな表情だった。
「その、1人だと心細いからさ、途中までついてきてくんない?」
「い、や、だ!」
言うが早いか、彼は乱暴に自分のカバンを掴み、小走りで去って行った。冷たい男である。
テーブルに両肘をつき、組んだ拳に額を乗せる。どうするべきかを考えているのに思考は纏まらず、形容し難い雑感がぐるぐると頭の中を巡っていた。
謝るべきだ。すぐにでも。文面にすれば簡単で結論はもう出ているのに、それを行使する勇気が足りない。どうでもいいことにはやたらと頭を下げるのに、大事なことには行動が伴わないでいる。
ネット小説を書き始めたのも自分のそういう特性があったからだった。日常に不満があって、けれどそれをぶつける先が見当たらず、乱暴に書きなぐったそれをネットの海に放り投げた。
変わりたいとは思う。それができるならどれだけ良いか。
「あの……」
こんな人間が、彼女のような美しい人と仲良くあろうとすることがそもそも間違いなのではないか。これ以上罪を重ねる前に、潔く離れた方が彼女のためになるのではないか。
「あの……」
いや、こういう思考がまずダメなのだ。屁理屈めいた言い訳をして、謝らなくて済む楽な道に逃げている。困難な方向から目をそらすための人間の防衛機制。そればっかり上手くなっても成長は望めないというのに。
「あの……」
謝罪はしなくてはならない。人を傷つけたのならば相応の誠意を見せるべきだ。今にでも。すぐにでも。今すぐにでも。『千曲書店』に出向いて、彼女に頭を下げよう。
「…………」
顔を上げると、目の前に鷺沢さんの顔があった。
「うわっ!?」
「あ……おはよう、ございます……」
「えっ、えっ?」
先ほどまで月島が座っていた椅子に、鷺沢さんが腰かけていた。会わねば会わねばと思ってはいたが、あまりにも突然過ぎて脳が空回りを起こしている。
「すみません……何度か声をお掛けしたのですが、反応がなかったので……失礼ながら、勝手に座らせていただきました……」
「あ、はい、いや、すみません、全然大丈夫っす」
状況が分かったような、分からないような。
とりあえずの事実は、対面に鷺沢さんが座っているということだ。
何を話せば良いのかが分からず、押し黙ってしまう。彼女も同様の気持ちなのか、目線をやや下のテーブルに固定して口を固く結んでいた。
普段は耳障りな食堂の喧騒が、今だけはありがたいと感じた。
10秒、20秒、息が苦しくなるくらいの時間が経って、ようやく口を開いたのは彼女の方であった。
「あの……」
「は、はい」
背筋をピンと伸ばし応答する。
前髪で隠れて窺い知れない表情が、緊張を倍増させていた。怒っているのか、悲しんでいるのか、色の抜けた無表情なのか、普段から声が平坦なために感情が掴めず、次に出る言葉の予想がつかない。
発声をためらって艶やかな唇から呼気だけを漏らした後、彼女はゆっくりと喋りだした。
「……本日お伺いしたのは……先日の、あなたへの非礼を……お詫びさせていただきたくて……」
理解ができなかった。先日の非礼。お詫び。彼女の言っていることが何を意味しているのか、皆目見当もつかなかった。というか、謝罪するのは俺のはずであるのに。
「えっ、と?」
「私の不躾な発言のせいで、あなたには、とても不快をさせてしまったと思います……本当に、申し訳ありません……」
そう言って彼女は、深々と頭を下げた。
瞬きを2回。光景は変わらず、彼女は頭を下げ続けていた。
少し思考に空白があって、ようやく彼女が言っていることを理解した。つまりこの人は、俺がドクソンと呼ばれるのを強く拒んだことを、自分が悪いと解釈してしまったのだ。
「ちょ、ちょっと待ってください! あなたが、鷺沢さんが謝る必要なんて全然ないんです! 悪いのは俺で、謝るべきは俺なんです!」
「いいえ……全ては私の軽率な行いがもたらした結果です……本当に、申し訳ございません……」
「いやほんとそうじゃなくって──とりあえず、顔を上げてください!」
俺がそう言ってから数秒後、ようやく彼女が頭を上げた。丸まった背中は罰を待つ子供のようで、罪悪感が重くのしかかる。
「違うんですよ、鷺沢さん。先日のことは僕が理不尽に怒ってしまっただけで、鷺沢さんは被害者なんです」
「そんなことは──」
「とにかくそうなんです。僕はあなたに謝罪をしなくちゃいけないと思ってましたし、実際これから謝りに行こうと思ってましたし……あの、ええっと──」
言葉の続きが思いつかず、後頭部を掻く。それでも何かしらアクションを起こすべきだと思い、とりあえず頭を下げた。
「──本当に、すみませんでした」
「え!?」
彼女が珍しく大きな声で──それでも他の人と比べたら小さめの声だったけれど──驚いた。
「あ、頭を上げてください、私は全然、気にしてませんから……」
彼女は手をわななかせて、目に見えて困って、焦っているようだった。
ひとまず、彼女に嫌われていなかったことに安堵した。胸の支えが取れて、緊張していた体が弛緩した。すると普段はぼんやりとしている彼女の慌てた挙動がおかしく感じ、思わずにやけてしまう。それを見て落ち着いたのか、彼女も手を膝の上に戻し小さく息を吐いた。
「……先日もお話ししたと思いますが……私はあまり、人との会話が得意ではありません……書物の登場人物のような、気の利いた掛け合いをしたいとは、思っているのですが……いざ誰かを目の前にすると……何を話して良いのか、分からなくなってしまいます……」
ぽつり、ぽつりと。軒下から零れ落ちる雨粒のように、彼女は独白する。
「……なので、私の不用意な行いが原因で、あなたを不快にさせて……剰え、嫌われてしまったらと考えたら……恐ろしくて、堪りませんでした……」
「…………」
自分だって、そうだった。彼女に嫌われて、疎遠になってしまうことが何よりも怖くて、立ち竦んで動けなくなってしまっていた。今だって物語の主人公のように彼女を慰めるべきなのに、何をどう伝えたら良いのかが分からない。
「……ですから、ええと…………すみません、上手く言葉を纏められず……」
彼女は頰に手を当て、照れ隠しに薄くはにかんだ。
言葉が止まる。無言が気にならないほどには、俺たちはまだ仲良くはなかった。なので、次は俺が喋るべきだと思った。
「『青の炎』、読みました。それから、鷺沢さんが薦めてくれた本は、全部」
「それは……ありがとうございます」
「だから、感想をお話しさせていただきたくて」
「……もちろんです。是非、聞かせてください」
「それから、またお薦めの本を教えてください。必ず読んで、また感想をお伝えしますから」
俺がそう言うと、彼女は何度も大きく頷いて、「はい、はい」と嬉しそうに笑った。
それからしばらく話をしたが、彼女は終ぞ『ドクソン』に触れることはなかった。単純に興味を失ったのか、触れない方が良いと思ったのか、彼女に『ドクソン』について知られずに済んだことには安心したが、同時に少し申し訳なくもあった。
(恐らくは)友人だと思ってくれている相手に隠し事をしている。その事実が小さな棘として胸に引っかかって、後ろめたさが膨れ上がっていた。
「……ところで、その……敬語を止めていただいても、よろしいでしょうか……何だか少し、距離が遠くなってしまった気がして……」
「あ、すみません──ごめん。なんか無意識で」
「いえ、ありがとうございます……」
「あー……鷺沢さんも、できれば敬語を止めてくれると嬉しいかなあ……」
「…………努力はします」
あまり、期待のできない返答だった。