鷺沢文香と一知半解の物書き 作:ペンデュラムの根っこ
先日の食堂での一件の後、鷺沢さんと2人で昼食を取るようになった。どちらが誘った、というわけでもないのだが、翌日にたまたま食堂で出くわし、当たり障りのない会話をしているうちに同じテーブルに座っていた。そうなると今さら席を離すわけにもいかずにそのまま一緒に食事をして、その時の流れが今まで続いているわけである。
俺が女子と昼食を共にしていると知った大野は中指を立てた。
話してみれば鷺沢さんは読書家なだけあり知識が豊富で、意外なほどに会話が弾んだ。彼女の語り口は整然としていて落ち着きがあり、説明も丁寧で分かりやすい。話すペースは緩やかだが話を咀嚼する時間が与えられているようで、存外に──と言っては失礼であるが──彼女はトークが巧みであった。
「──……ということで……フランス語のクロケット、という言葉が元になっているそうです……」
「へえ」
大判のコロッケを摘み上げ、マジマジと眺める。齧りつくとザクッと小気味の良いと共に、衣に閉じ込められたジャガイモの旨味が口いっぱいに広がった。鷺沢先生の教えを受けてから食べるコロッケは一段と美味しく感じる。
対面の鷺沢さんは生姜焼き定食を食べている。箸の持ち方と食べ方が綺麗で、やや猫背ではあるが補って余りある品が感じられた。
「それにしても、鷺沢さんは本当に何でも知ってるよね」
「そんなことはありません……本を読んで知ったことばかりですから……」
「いや、だとしても凄いというか、それが凄いというか」
「……ありがとうございます」
彼女の知識量は本当にズバ抜けている、と思う。専門的な知識というよりかは、もっと広範囲な雑学的素養がある。豆知識であったり、トリビアであったり、語彙であったり、それは恐らく作家に必要な教養であり、自分との明らかな差異はほのかな劣等感を抱かせた。
「……ただ、残念なことに、本の蘊蓄が常に正しいというわけでもありませんので……脚色されている場合も多いですし、本が記された当時の定説であったとしても、今もそうであるとは限りません……ですので、話半分に聞いていただけると、助かります……」
「あー、うん。そうします」
彼女は丁寧だ。礼節を重んじ、なるべく公正で厳格な結論を伝えてくれようとする。文学少女なのだが、どうにも理系っぽい。
その丁寧さは美点ではあるが、同時に少し寂しくもある。もう少しリラックスして欲しいというか、他愛のない世間話を楽しんで欲しいと感じた。
「鷺沢さんはさ」
「はい」
「本以外に、好きなこととかないの?」
「……本以外、ですか……」
鷺沢さんは俺の質問に少し戸惑った様子を見せた後、脇を向いてしばらく考え込んだ。
「何でもいいよ。絵とか、サッカーとか、サーフィンとか、ちょっと気になってるかも知れない、くらいのこと」
「……ちょっと気になっていること……」
悩む彼女は段々と顔が下に向いていき、遂には箸を置いて思考に没頭し始めた。その姿は人の死について考える哲学者のように埋没的で、とても自分の趣味趣向を探っているようには見えなかった。
やがて彼女は顔を上げ、申し訳なさそうに口を開いた。
「すみません……色々と考えては見たのですが、これと言って思い当たることはありませんでした……」
「あ、うん、全然大丈夫だよ。こっちこそごめんね、変なこと聞いて」
「いえ……ご期待に添えず、申し訳ありません」
彼女は本当に真面目だ。
何となく暗い雰囲気になり話題を模索していると、いつの間にか鷺沢さんの後ろに松葉さんが立っていた。俺の視線に気づいた彼女は口を三日月状に歪ませて、そこに人差し指を当てた。何か悪巧みを企んでいるようだった。
彼女はそろりそろりと鷺沢さんのすぐ背後まで近寄ると、両手を高く挙げ、大きな声と共に鷺沢さんの両肩に勢いよく下ろした。
「────わっ!!!」
「っっひ!?」
鷺沢さんの体がビクンと跳ね、前髪の隙間から大きく見開かれた目が見えた。悲鳴はあまり大きくはない、しゃっくりのような甲高く掠れた声であった。
「やっほー!」
「ま、松葉さん……」
鷺沢さんの肩に手を置いたまま、松葉さんは「ねえねえびっくりした、びっくりした?」と愉快そうにしている。未だ動揺が治らない鷺沢さんは胡乱気に空返事を返し、それを見て松葉さんはさらに喜んだ。
「『っっひ!?』だって! 面白い声出すねー、文香ちゃん!」
「え、あ……」
自分の悲鳴が恥ずかしくなったのだろう、鷺沢さんの僅かに覗く耳が見る見るうちに赤く染まっていく。頭の中が真っ白になっているのかただうわ言を口にするばかり、松葉さんにされるままであった。
松葉さんは「いやー凝ってますねー」と肩を揉み、そのまま手を鷺沢さんの顔の前に持っていくと、おもむろに彼女の前髪を分けた。後ろに立っている松葉さんには顔は見えていないだろうが、正面に座っている俺にはバッチリ見える。少し朱の差したきめ細やかな肌、整った目鼻立ち、焦点の合っていない大きな瞳、あまりの美しさに息を呑むと、松葉さんは一層笑みを深めた。
「文香ちゃん美人だよねー。アタシも最近知ったんだけど、可愛すぎると思わない?」
「え、ああ────っ松葉さん、ちょっとやり過ぎだよ。やめてあげて?」
「はーい」
どうにか正気に戻り注意すると、意外なほどにあっさりと松葉さんは手を離した。重力に従って前髪が垂れ下がり、また目の前に根暗な文学少女が現れる。
正直、少しだけ残念だと思った。
「ダメだよードクソン、マジマジと女の子の顔を眺めちゃあ」
「いや、松葉さんがやったんでしょ。あとその呼び方は止めてくれ」
「えー嫌だー」
奔放な彼女はどうやら悪戯好きなようで、相手にすると面倒なことこの上なかった。それでも怒りが湧かず、ため息で済ませてしまうのは彼女の愛嬌が故か。
「あの……」
正気を取り戻した鷺沢さんがおずおずと声を上げた。
「ああ文香ちゃん、やっほー」
「あ、はい……」
「いやーごめんね、文香ちゃんの無防備な背中見てたらつい、驚かしたくなっちゃって」
「いえ……確かに驚きはしましたが、気にしてはいませんので……」
「いやいや気にするよ! 文香ちゃんの寿命をわずかでも減らしてしまったわけですからして、ワタクシ大変反省しております」
言動の割には彼女の声は軽く、謝意はこれっぽっちも感じられない。
「ということでお詫びの品を────はいこれ!」
松葉さんはポケットから2枚の紙切れを取り出し、鷺沢さんに手渡した。
「え、あ、ありがとうございます…………これは、映画館の割引券、でしょうか……」
「イグザクトリー! 友達からたくさん貰ったんだけど、アタシそんなに映画見ないからさ。お裾分けー」
「……ありがとうございます」
「2枚あげるから、ぜひ誰かを誘って行ってね。そこで物欲しそうな顔をしてるドクソンとか」
「え……」
急にこちらに話を振られる。松葉さんはしたり顔を俺に向けると、パチンとウインクをして見せた。なぜだか無性に恥ずかしい気持ちになった。
「じゃあアタシこの後予定あるから、またね文香ちゃん!」
「はい……ありがとうございました……」
「ドクソンも、しっかりやれよー?」
「え、ああうん」
最初から割引券を渡す予定だったのだろう、目的を済ませた松葉さんはすぐに去っていった。唐突にやってきて場を荒らし、また唐突にいなくなる。嵐のような女だと、そう思った。
「あ、えと……」
チケットを握る鷺沢さんは所在なくオロオロとしている。時折こちらを見てはすぐに目をそらし、落ち着かない様子だった。
苛立つほどにあからさまではあったが、折角の松葉さんのアシストである。これを不意にすることは彼女に対し失礼であるし、それに俺は鷺沢さんと一緒に出かけてみたい。
側頭部を掻き、大きく息を吸う。大丈夫。彼女はきっと断らない。今までの対応からの推測を心の中で反芻し、ちっぽけな勇気を振り絞った。
「……鷺沢さんは、映画はよく見るの?」
「あ、いえ……ほとんど見たことはないです……」
「じゃあ、誰かと一緒に映画を見に行く予定はある?」
「…………ありません」
「じゃあさ──」
緊張からか、そのまま続けようとした言葉が止まってしまう。誤魔化すようにはにかんで、噛まないようにゆっくりとその先を告げた。
「──その映画、俺と一緒に見に行かない?」
「はい、ぜひ」
机の下で小さくガッツポーズをした。明日死んでしまうかもしれない。顔はきっとにやけている。喜びが全身を駆け巡り、安堵から脱力するのが分かった。
可愛くて、物知りで、心優しくて、綺麗で、べっぴんで、素敵な人。気にならない理由がない。
恋というものかはよく分からないが、彼女ともっと深い仲になりたいとは思う。
「……あの」
「ん?」
「……楽しみに、しています……」
「こちらこそ」
当日のプランとか、エスコートとか、話すこととか、不安材料を見ればキリがないのだろうけれど、今はとにかく、彼女とのデートが楽しみでならなかった。