胡桃ちゃんはおかしかった 作:生タマゴ
プロローグ
授業が終わったら、何をするのが普通だろう。
そんな風に尋ねるのは余程の変わり者か、若者に関心を持つ老人くらいのものだろうが、考えてみてほしい。
よく耳にするのは、友達と遊ぶこととか、部活に精を出すだとか、そんな微笑ましい営みで。
...少なくとも、つい先程まで語らっていた友人同士が組み合っていたり、挙げ句の果てに噛み付かれ苦悶の表情を浮かべたりすること……では、ない筈だ。多分。
そう、私は思っていた。
予め定められていたように巻き起こった現象。
始まりは数分前
何処からともなく現れた凶人が生徒も教師も男女も問わずに襲いかかり、噛まれたものは正気を失い『奴ら』となる。
まぁ端的に言ってしまえば、良くホラーの題材に取り上げられる感染爆発の一種が起こってしまった。
今私は、襲われている人など脇目も降らず、ある男を探していた。
黒髪短髪で平均より僅かに低い背丈、在学中の成績は中の中。
OBとしてたまに部活へ顔を出しに来る...好青年。という認識の人。
『私』個人としては特別な感情を抱いている訳ではないが、ソレは『胡桃』が先輩と呼び慕っている男。助ける理由がある人。
駆け足で二階へ上がり廊下を見渡すと、反対側の階段で先輩と男子生徒が組み合っているのが見えて焦る。
「お、おい!いきなりどうしたんだ■■!しっかりしろ!」
「ガアアアアッッッ!!」
明らかに言葉が通じてない相手へ声を掛けている様子の『先輩』。
駄目だ、今はそんな事をしている場合じゃない。
彼を逃がすべく足を早める。
彼我の距離は十メートル、二秒も掛からない。
けれどその瞬間、背後から襲い掛かる者に姿勢を崩され、彼が倒れこんだ。
残り半分と言ったところで肩口に狂牙が深く突き刺さり、男の顔が苦痛と驚愕に染まる。
...間に合わなかった。
「痛っ!いい加減に…!」
「こっちへ来て」
丁度彼が突き飛ばした辺りで手をとり、下階から上ってくる奴らから逃げるように屋上へと走る。
階段を駆け上り扉のドアノブを捻って勢いよく引くと、ガシャリと金属音。
「誰かいるなら開けてもらえないか!」
今の時間帯なら園芸部が居る筈。
声を張り上げながら扉を叩くと勢い良く開き、早く入ってと手招かれようやく一息ついた。
野菜が刺さりっぱなしの畑をぼんやり眺めながら手摺に背中を預け、耳に入る気色の悪い声に顔を顰める。
「アア……」
そう。繋がれた腕の先から響く声に。
「…駄目か」
するりと手を放し、突き飛ばす。
眼前で迫り来る、影。
煩い位に響く悲鳴と血の香が漂う中、うわ言のように名前を呟く。
数秒程度経ったらそれも聞こえなくなり、『奴ら』が一人出来上がった。
「仕方ない」
目が合った瞬間。
伸ばした腕先で襟口を強く握り締め、その根元にある重心をを片腕で強引に校庭へと投げ飛ばし、屋上から落ちてゆく影を見る。
ぱたぱたと服を靡かせながらソレは落下して地面に赤い花を咲かせた。
暫し中心の人形が動きを停止したのを確認し、後ろを振り返って。
「...この暴動について何か知ってるか?」
聞こえてくる僅かな悲鳴を聞き流し尋ねる。
この状況は一体何なのかと。
「わ、私は何も…」
彼女は黒い猫耳帽子の両端を両手で掴み、萎縮しきった様子で震えていた。
それが目の前で人を殺した人物に対するモノなのか、この異常事態に対してなのかは推測しかねるが、とにかく怖そうに。
その手を引き、屋上で最も高い場所、貯水槽の上に退避させてから唯一の出入り口に手を掛けて思い切り開いた。
ゾンビもどきがぞろぞろと雪崩れ込んでくる。
「ねえ、何処に行くの...?」
お誂え向きに放置されていたシャベルを構え、奴らを20体程潰す。返り血が少々不快ではあったが、殲滅出来たようだ。
「悠里と先生が居る場所に行く」
「え...」
「悪い意味じゃない。二人を助けてくる」
屋上から飛び降りて、三階の窓ガラスを割りながら枠にシャベルを引っ掛ける。
少し衝撃を受けたが、動くのなら問題ない。
「待って!」
待たない。
屋上から聞こえてくる声をまたもや聞き流し、二階の窓枠に飛び移る。
奴らをなぎ倒しながら二階を進んで行くと、見覚えのある人物が廊下の突き当りで座り込んでいた。
「悠里、逃げますよ」
焦燥した様子。半乾きの血液を至る所に付着させて、焦茶色のロングヘア―を汚されたのも気に留めず、放心したまま空に視線を漂わせている。
「どこに逃げても無駄よ...だって私、もう」
そう言って悠里は数か所の噛み傷が付いた右腕を差し出した。
「治療薬には心当たりがあります」
発症までの時間稼ぎの為にハンカチで腕の根元を縛り上げ、左手を引いて立ち上がらせる。
懐疑的な視線を向けられるが、この状況を事前に予測していたと告白する訳にもいかず口を噤む。
「...そう、ありがとう」
すると悠里は疲労の色を強くさせた。
恐らく、気休めか何かとでも思っているのだろうか。どうも表情から陰が抜けきらない。
「信じられないんですね」
「そういうつもりじゃないけれど…」
悠里は瞼をゆっくり閉じる。
止血だけとはいえ曲りなりにも治療行為を受けたことで安心したのだろうか、少しけだるげな様子が出てきた。
「何とか辛抱して」
そう言い残して階段を駆け下り、一階に。
廊下から教室トイレ等を順番に見ていくと、女子トイレの個室が一つだけ閉まっているのが目に留まる。
「先生ですか」
「胡桃さん、なの」
「助けに来ました」
周囲の奴らは一掃してあるため、先程と喧騒比べればかなり静かだ。
それで何かを察したのだろうか、個室の鍵が開かれる。
「ごめんなさい、折角来てくれたのに」
するとすぐさま右腕の爛れた噛み跡を見せられた。
…こう言ってしまっては失礼だが、つい先程の焼き回しのような光景。
特段揺れることもない精神を傍観し、思い浮かんだ疑問を投げかける。
「何も知らないんですか?」
予想外だったのか、彼女は呆気にとられた表情になった。
「え」
「この学校がこの状況を生み出した原因と、ほんの少しでも縁があるという事を」
「ここが?」
「はい。こんなものがあったので、先生なら何か知っているんじゃないかと思ったんですけど」
去年たまたま拾った教師用の緊急時マニュアルを見せる。
その中に書かれている頓痴気な内容に愕然としたと同時に、私は既視感を覚えたのだ。これは、絶対に無視してはいけない出来事なのだと。
故、『胡桃』が寝ている隙に。
パルクールについて知識を集め、神経を発達させるべくトレーニングに励んだ。
深い意味はない。
どちらもありとあらゆる競技に応用の効く技術を習得できるから、ロスが少ないとふんだだけ。
しかし私ながら馬鹿げているな、と思い始めた頃に事は起こった。
パンデミックと言えば適切だろう。何処からともなく発生した奴らによって、学園は速やかに壊滅し。
何とか屋上に逃がせたかと思えば...
...いや。
それよりも重要なのは、何故教師用のマニュアルにのみこれについての記述があったかだ。
その疑問に対する答えを知りたかったのだが。
「そんなの初耳ですか」
「ええ」
この様子だと、どうやら望めなさそうだ。
「…分かりました、取り敢えず三階で悠里と待機していてください、学校の封鎖と物資の回収をしてきます」
「胡桃さん」
ついさっき悠里から向けられた視線と酷似したものが私に刺さる。
「なんですか?」
「...貴女は、本当に胡桃さんなの?」
「違いますけど」
「…?」
「とにかく私はもう行くので、二階にだけ気を付けてくださいね?三階と違って殲滅しきれていませんから」
「ま、待って!」
「待ちません、早くしないと悠里が手遅れになる」
トイレを飛び出し、地下へと通ずるシャッターを力づくで持ち上げて、侵入成功。
何故か奴らが数体いたのが気がかりではあったが、地下二階最奥の扉を開いた瞬間にそんな懸念は吹き飛ぶ。
綺麗なまま、全ての物資が残っていた。
汚れ一つありはしない。
取り敢えず数日分の食品とありったけの抗生物質を持って、すぐ持ち出せるようにシャッターの前に置いておく。
それからロッカー、教壇、棚などを駆使して一階の窓と玄関を封鎖し、物資を回収してから三階へ移動した。
「悠里、先生、大丈夫ですか」
ピクリとも表情を動かさずに問う。
まぁ、二人とも何やら話し込んでいる様子で、私の到着に気付いていないようだ。
反応されなかった。
「お届け物の『薬』ですけど」
薬という単語を強調して、より大きな声で呼びかけるとこちらに気付く。
「胡桃...?」
「私は違いますよ、胡桃ではありません」
「なら誰?」
「わからないです、何でここに居るのか、何で貴女達を助けたいと思ったのか。さっぱり」
「本当の事を言って」
そんな真剣な目で見つめられたって何も出て来やしない。
「さあ、誰ですかね」
「胡桃さん」
「だから違います、私は胡桃じゃない」
「そんな事より薬打ちますよ、手遅れになる前に」
二人の二の腕に抗生物質を打ち傷口をガーゼで押さえた私は、後は安静にしていればいい、とだけ告げて教室を後にした。
さて次は、取り敢えず校内の隅々まで殲滅、清掃を行う事にする。
シャベルを固く握りしめて、階段を下り。
まずは三階、職員室、前倒れになったルッカ―と鍵のかかった教室。
二階は、トイレ、私が閉めた教室に。
一階はまだまだ倒していないので、教室を一つづつ開き、十数体ごとに分けて殲滅する。
奴らを掃除し終えたので、清掃。
水で濡らしたモップを使って、そこかしこにこびり付いた血痕や体液をふき取り。
あまり時間が経っていない汚れは大体落とせた。
掃除をサボられていたと思しき教室などは、寧ろ綺麗になったくらいだ。
外から入ってくる空気が悪いからか、異臭を取り除くことは出来ないけれど。
二階も同様に済ませ、使えそうな試薬と鍵束を回収してりーさんの元へと戻る。
外から入ってくる橙色の光が、私に夕暮れを知らせてくれた。
校舎の一階と二階を丸ごと掃除したのだから当然だ。
生徒会室の電気が付いていた。
さっきはついていなかったので由紀たちがいるのだろうと思い、扉に手を掛ける。
「開かない?」
鍵が閉められていた。
それを認識した瞬間、抗いがたい疲労感に襲われ。
膝から崩れ落ち、ドタンと音を立てて倒れ込む。
瞼がだんだんと降り、手足が意思に従わず。
そのまま意識が薄れて、完全に目を閉じた。