胡桃ちゃんはおかしかった   作:生タマゴ

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まだらヒゲの警官から軽い事情聴取を終えて、自由になったのは実に午後十時半。

 

たっぷり筋トレをした後に風呂も入らず自転車を漕ぎ。遺体の事で眠気を殺し頭を回し続けた結果、さしもの私ですら疲労困憊。

最早電話する気力も残っておらず、それで謝意を伝える等というハイカロリーな真似をしたら本当に倒れてしまいそうなくらいに。

…しかし、一報も入れないのはマズイだろうと理性が囁き、携帯をポケットから取り出す。

 

「えっと、確か…」

 

番号を思い出しながら打ち込み、待つこと四コール。

留守電になってしまった。寝ていてもおかしくない時間だ。仕方ない、伝言を残しておく。

 

「お名前とご用件をお話しください」

「私だ。連絡遅れてごめん、何かあったらこの番号に折り返しかけてくれると助かる」

 

殺人事件については後回しで良いだろう。今の半分寝ているような状態じゃ上手く話せる自信がないし、不十分な説明で二度手間を踏む羽目になるくらいだったら日を改めるべきだ。

 

そう結論づけて携帯をポケットにしまい込み、ふらふらと自転車に跨る。

なんせまだコンビニに行っていないのだ。ここまで手を焼いた以上、せめて清潔な体でぐっすり眠れないと気が済まない。

 

 

そうして二分ほど、自転車を漕いだだろうか。

私の耳に入ってきた心音が一つある。

それは、何度も止めてきた音。何十と溢れかえった共通の旋律を奏でる、おぞましい命の音。

 

「アア、アアアア...」

 

奴ら、だった。

 

 

赤い双眸、ふらふらと揺れる身体。意味のない呻き声が鼓膜を震わす。

何故ここに居るのかは分からない。けれど、あれが何なのかはよく理解していた。

間違いなくアレは、βに感染している個体で。

そして、災厄の破片。

ヒトを人で無くする、敵。

 

それを独り確認した私は、油断せずに距離を詰めて背後に回り、全力で奴の元へと走り出した。

本来持つ限界を遥かに越えた筋力から繰り出される圧倒的な速さで、十メートル先の個体を反応させず...否、認識しても対応不可能な初撃で絶命させる為に――――――!

 

「っらぁ!!」

 

ギリギリまで接近し、衝突する寸前で引き絞った右拳を顎に叩き込んだ。

 

「ガアアアアッッ!!!」

「なっ!」

 

しかし、首が落ちない。

それどころか倒れた身体がばね仕掛けのように跳ね上がり、お返しとばかりにラリアットが振りかぶられた。その剛腕を寸での所で回避し、左足で二撃目を脇腹に打ち込むが、これも大して効いていない。左足がじっとりと紅く濡れ、鼓動から一拍遅れて激痛が走る。右手も握りに違和感を覚えた。

 

「...αまでかよ、ちくしょう」

 

滴る鮮血を見て、疲労の滲んだ嘆息を洩らし。駆け寄ってくる怪物を見据える。

五感を研ぎ、攻撃の瞬間を見極めて。

 

「ガアアアアっッ!」

 

半身を逸らし、ローキックで転ばせ、前方へと倒れ込んだ背の上へとそのまま圧し掛かった。

すかさず顎の下に右腕を回し、左手で後頭部を押さえつけて力を籠める。

 

先の蹴りはほんの僅かではあったものの、奴の腹部をへこませていた。

つまり、私も怪力を使えば鉄皮を締め上げる事ならば可能。

血管に筋肉は無い。いかに硬化しようと、いかに怪力を持っていようと、脳への血流を止められればひとたまりも無い筈だ―――!

 

「ギイイイイィィィッッ!!!」

「静かにしろ、このっ!」

 

跳ねる身体を逃がさずがっしりと締め付ける。電柱に当たり、アスファルトの上を滑り、擦り傷も打撲も次々に増えていく。

奴に掻き毟られた肉は削がれ、殴られた部位は潰れる。筋肉が引きちぎれて、骨が悲鳴を上げる。それでも力を抜くことだけは止めない。

 

「アアアアッッ!」

 

七十秒ほど経つと抵抗も弱くなり。

 

「ガァ!...アアッッ!!」

 

三分もする頃にはすっかり脱力していた。

最早虚しく声を上げるばかりで、体は酸素不足で打ち上げられた魚のように震えている。

 

「......ア」

 

十分ほど締め続けて、漸く心臓が止まった。

普通人間は五分程で死ぬ。最初の内はちゃんと血流を止められていなかったようだ。

 

「はぁ、はぁ、ふうー...」

 

呼吸を整え背を伸ばしてやると、全身が痛む。

さてどうしようかと思った矢先、

 

「え?」

 

目の前の死体が、跳ねた。

...いや、よくよく見てみると人らしき影が屋根を蹴り、宙を跳ねている。

何者かが死体を持ち去ったのか。

 

「...どうなってるんだよ」

 

先刻にも増して今の私は疲れている。

これは明日になってから、見間違えも視野に入れて検討すべき問題だろう。

明日の自分にひとまず丸投げして、コンビニへと向かった。

 

 

二分後。

やけに眩しい照明と、虫の死骸がこびり付いた電撃殺虫器の点滅が眼前に。

朦朧とした意識の中、私は何度も転びそうになりながら、やっとの思いでコンビニに辿りついた。

四月の夜はまだまだ寒い。最低気温が一桁に落ち込むなんてしょっちゅうだ。

手に息を吐き、震えている手でドアを開いて。商品棚へ移動し石鹸を手に取る。

 

「あ、昨日の...」

 

その時、背後から聞き覚えのある声がする。

その足音。心音。息遣い。昨日聞いたもの。振り返った先に、黒い耳のような帽子と桃色の髪が見えた。

 

「ゆき?」

 

呼んでみると、ゆきは話し掛けられると思っていなかったのか、目を丸くし。

 

「うーんと…」

 

数秒ほどで悩み顔になる。

名前を思い出そうとしているのだろうか。こっちでは話していないので、思い出すも何もないのに。

 

「胡桃、だ」

「えと、胡桃ちゃんは何でコンビニに?」

「石鹸が切れててさ。ゆきの方こそ、何でこんな夜遅くに」

「うちのお母さん、晩御飯は作らないから。いつもこの時間に買いに来てるの」

 

晩御飯にしては遅すぎるような気がする。

いや、家によって生活サイクルは異なるから一概に変だとも言えないのだが。

 

「お父さんはどうしてるんだ?」

 

口に出してから、後悔した。

ゆきの表情がどんどんと曇って行き、音が変わる。

鋭敏になった五感が伝える。何を根拠にしているのか言語化はできない。しかし、眼前の人物は聞かれたくなかった、と。

 

「いないよ、ずっと前から」

「...嫌な事聞いちまったな、悪い」

「気にしなくていいよ、私も気にしてないから」

 

そう言って見せてくれたのは、明るくて楽し気で、何も悩みなんてなさそうな表情。

見慣れた笑顔だった。

 

「ほら、暗い顔しちゃ駄目だよ?胡桃ちゃん」

 

少し俯きがちになっていた顔が両手で挟まれ、上に持ち上げられる。

 

「っ!...はは」

 

一瞬、ぐにゃりと歪んだ変顔が見えて吹き出してしまった。

私が笑うのを見て、ゆきの音も穏やかになる。

 

「ねえ、一つ聞いてもいい?」

「何だ」

「このコンビニって初めてなの?」

「初めてって訳じゃないけど」

「なら、何で今まで一度も会わなかったのかな」

 

言われてみれば、何度かこのコンビニを使った事があるのに、ゆきとはこれまで一度も遭遇しなかった。

原因は恐らく―――

 

「時間帯が違うからじゃないか。ほら、私はこんな遅くに来ることは滅多にないし」

 

―――ならば何故今回は遭遇したのか。

それは遺体を発見したからだ。通報して警官と話すうちに、此処に来る時間がズレたからゆきと鉢合わせたのだ。

 

「...そっか。それじゃあ、多分明日からは会うことないんだね」

「どうしてそんな残念そうにするんだ?」

「だって、昨日助けた人と次の日の夜に再開したんだよ?何だかロマンを感じちゃうよ」

「ロマン、ねぇ」

 

頭が痛い、足元がふらふらと揺れている。

これ以上起き続けていると、帰りで事故を起こしそうだ。

 

「...それじゃ時間も時間だし、そろそろ帰るな」

 

レジの方へと歩みを進め、会計を済ませて外に出て。

帰路に就くべく自転車に跨る影。

 

その輪郭が、ぼやける。

 

ペダルを漕ごうとした瞬間。バランスが崩れて、倒れ込んだ。冷たいアスファルトへ受け身も取れずに投げ出され、頭から嫌な音がする。

上気した頭が、ズキズキと痛む。全身がブルブルと震えだす。

平衡感覚が崩れて、視界がぐるぐる回りだして。

 

「胡桃ちゃん!大丈夫!?」

「あ、ああ...平気だ。ちょっとふらついただけで...全然...」

 

そんな心配そうにされると何だか照れ臭い。自転車に乗るのは難しそうなので押して帰ることにし、ゆきと別れた。

 

 

十分ほど歩いただろうか。

震える指で鍵を閉め、居間の時計を見やる。

 

「...十一時頃か?」

 

目が霞んでいる訳ではないけれど、像が二重にブレて視認しづらい。

 

時折笑いだしそうになる膝を抑えながら入浴を済ませて。二階の寝室まで壁に寄り掛かりながら上がって行く。

 

最早立っているのが辛い、吐き気が止まらない。何とかベッドの上に寝転んだ瞬間。

 

意識が薄れ、痛みも微睡みの中に呑まれて。

夢へと誘われる。

どうかぐっすり眠れるようにと願いながら、瞳を閉じた。

 

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