胡桃ちゃんはおかしかった   作:生タマゴ

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---暗い場所。

 

真っ先に思い浮かんだのは、ひどく陳腐な感想だった。

何も無い。目は確かに開いている筈なのに、月明かり一つ見えないのは何かおかしい。

その違和感を探るうちに気付いたのは、この空間はとても居心地が良いということだけ。

 

「何だ...ここ」

 

きょろきょろと周囲を見渡していると、遥か彼方に小さな光が見える。

並の星よりかは眩しいが、陽と比べれば些か以上に劣る光量がただの一点のみ。

いつ消えてしまうかも分からない、と。わかったのはそれだけで。

 

「なんだ、あれ」

 

なのに、どうしてか。嫌な予感がする。

 

足の感覚はない。痛みも、感触も、疲労感でさえも。

あるべきもの全てを置き去りにして走る。光は遠ざかることもせず、ただ輝きを微かに弱めた。

 

眼前まで近づいて、漸く何の輪郭をしているのかが分かる。

取っ手のついていない、無色の扉が佇んでいたのだ。

 

「...これは」

 

見覚えがあった。

光は統合が行われる寸前の光帯に、見た目は死ぬ間際に感じる氷片によく似ている。

 

...だから。

ここまで必死に、走って来たのにも関わらず、この扉に手を伸ばすのは躊躇われた。

触れた瞬間にこの扉は溶けて、ここから出られなくなるのではないかと思ったから。

 

息をして、鼻を突く。人の体液が半分乾いたような、饐えた匂い。

何故か理解できてしまう。前提となる知識も経験も根拠も何もかもを無視して、コレはそういうものなのだと。

それが摂理であるように理解できる。

 

とても、死に近い場所。

 

此処にはきっと死人、ないしその儕輩がいるべきだと。

 

そう考えると確かに私は、二度の死を迎えた。にも拘らず生体を持っているのがおかしいのだから、中身だけが引きずり出されるのも道理というもの。

この扉に触れたくないのも、やけに居心地が良いのもそのせいだろう。

 

変な夢だ、不思議なくらいに現実味を帯びている。

 

私にはまだ死んでやる気は毛頭ない。まだやりたいことなど山ほどある、それは他の者も同じなのは重々承知、不公平など知ったことか。

 

眼を凝らす。光に照らされ黒茶赤が混じり合う幾多の死体が見えた。鼻を利かす。錆鉄の香り、汚泥の悪臭もしかと捉えられる。

いつの間にか鈍っていた感覚は、元を微かに上回る水準で私の元へ帰ってきた。

 

 

「...待ってよ、胡桃ちゃん」

 

その時、生暖かい風が頬を撫で、背後から聞き慣れた声がした。

風向きが逆転し、空気の輪郭から容姿を割り当てて正体を察する。

頭頂部にある特徴的な二つの突起と、ひらひらと腰回りを覆っている布切れ。

強い死の香りに混じって漂ってくる仄かな甘い匂い。ピタリ、と冷えた肉が腋を通った。

 

「お願いがあるの」

 

手が、ない。

私を抱くように絡められた両腕は、至る所に穴が開き、融解した皮膚が振袖のように地を擦っている。

顔は見えない。けれど多分、まともな状態ではないだろう。

 

此処が私の夢なら、これは恐らく最初のゆきだ。

二週目でゆきが撃たれる事はなかったから。

 

「うん、わかってる。だから、ひとつだけ」

 

見えない何かと話をして、頷いたゆき。じっとりと背中が濡れて、洟を啜るような音が断続的に聞こえる。

...何で泣いてるのか分からない。

 

理解できるのは、まだ夢を見ているという事だけ。

気味が悪い。

こんな悪夢からはとっとと目覚めて、朝の支度でも済ませてしまおう。

今日は寝るのが遅かったから、いつもより早めに起きないといけない。

一歩、扉に足を踏み出す。

 

「待って、待ってよ、胡桃ちゃん。私、まだ何も言ってないよ?」

 

縋るように、慈悲を乞うように響く鈴を転がすような声が耳から離れなくて。

一歩踏み出したが、二の足は踏んでしまった。

 

「何を頼むんだよ」

 

喉からは自分でも驚くほど冷たい声が出た。

息を呑むようながして、一拍置いて腹から腕が離れ、ゆきの気配が遠ざかる。

幾ばくかの罪悪感を覚えて振り返って見れば、そこには一つの氷片が落ちていた。

桃色の淡い光を放っているそれは、私のモノとも良く似ていて。

 

「その氷を、食べて」

「...食べたら、どうなる」

「多分、胡桃ちゃんの予想通りになる」

 

手に取ると帯のように光が形作られ、様々な光景が一つに重なって見えた。

音も聞こえる。臭いもだ。

 

「...私ね、心残りがあって」

 

癇癪を起こした妙齢の女性が、アパートの扉から出てくる光景。

近づくほどに視界は狭く、暗くなって。目があった瞬間、ヒールを履いた足が腹に突き刺さり、視点が転がった。

タバコの吸い殻と飲み残しの酒が入ったゴミ袋を投げつけられる。

自分の身体と同じ大きさのゴミ。記憶の主はランドセルを背負っていた。

 

「お父さんが出て行ったのはお前のせいだ、って」

 

先程よりも抽象的な光景だ。

記憶が朧気なのだろうか。黒い髪の男性が覆いかぶさって、骨盤が定期的に揺れている。

二十分程代わり映えしない光景が続いたかと思えば、急に男は荒い息を吐き。謎の行為の最中から時折漂ってくる口臭だけははっきり覚えていて、吐き気を覚えた。

 

そして男は決まって行為の終わり際、二人だけの秘密だ。と語っていた。

一枚の紙切れを握らせて、頬に鼻が当たる程に近づいて、目をかっ開いて。

それは親愛の確認というには悍ましく、恩着せがましい。脅迫だ。

辞めてもバラしても家族が壊れると語り、気持ちが良かっただろうと不仕付けで乱暴に頭を撫でられる。

痛かった。

 

「お父さんと、遊ぶようになる前は、優しかったのに」

 

次は、布団で寝るシーン。

ゆきは使い道も良く分からず、枕の下に紙きれを集めては、なんとなくそれを眺めて悪いことをしている気分に浸っていた。

電話が鳴り、女がイライラしながら部屋の電気を点け、起こされた男が女を殴る。

驚いた拍子に、紙切れが女の目に留まるのを見た。

 

「お母さんと仲直りしたい」

 

それから怪しまれ、部屋の中を半狂乱で引っ掻き回す女がゴミ箱の中身と、変な錠剤を見つけた。

男が乱雑にそれを奪い取り、ゆきを小脇に抱えて三駅も離れた安宿に逃げ込んで、行為を行い。

終わってから青くなった顔で何度も殴っていた。

あれほどバレるなと言ったのに、金はすぐ使えと言っただろうが、と。

 

理不尽なものだ。

この子は、金なんて生まれてこの方持たせてもらったことが無い。使い方なんて自販機ぐらいしか知らないのだ。それなのにゆきに渡された紙切れは自販機で使えなかった。

お金なのは何となく理解していたが、内緒にしろとの言いつけどうり無闇矢鱈に持ち出そうとはしなかったのだ。

だから使い道を見出せなかった。

 

それから二晩ほど滞在しただろうか。

体液と血が染みた汚いシーツの上で、男が取り押さえられていた。

ゆきは女にこれまた殴られて、涙を流す。

 

良かれと思ってやったことが、途中から悪い事だと気付いて。その時にはもう後戻りできなくなった。

 

...酷い話だ。

 

身の丈に合わない物を買い込む感情的な屑女と、自分の娘に手を出した暴力癖のある傲慢な屑男。

両親がどちらもロクデナシで可哀相に見える。

 

「お父さんにも戻ってきてほしいし、一緒にいたい」

 

女は精神病の診断を下され、隔離病棟に吸い込まれていった。

男はふつうに犯罪者として、暗い牢獄へと捕らわれていった。

 

後に残ったのは、国から生活補助を受けて、ボロアパートに独り取り残されたゆき。

 

「お願い。この未練を解消して」

 

時々、ゆきが酷く大人びて見える事が以前からあった。

何もかも見通されているような気がする、俯瞰の視線。

 

「死んだ私じゃ、出来ないから」

 

ぼんやりとゆきの姿が暗闇に映し出される。

頭蓋骨が見えている。目玉が溶けていた。髪なんて全然残っていない。

 

咄嗟にその場から後ずさり、喉の奥から込み上げる酸を飲み下す。

吐いちゃ駄目だ。膝を着き、下がりかけた頭を無理やり押しとどめる。

 

「...見た目もおばけみたいだし、生きてたとしても、無理」

 

臭い、酷い悪臭だ。内包物をぶちまけて楽になってしまいたかった。

 

...けど、醜悪な顔が寂しげに歪んで、瞳から一筋の涙が零れ落ちた瞬間、先の思考を後悔する。

 

記憶を垣間見た。

これが全てではないのだ。光帯にはまだまだイジメだとか嫌がらせだとか、いろんな光景が浮かんでいる。

性犯罪者の子供というレッテルは、きっと高校進学まで彼女から離れなかっただろう。

 

その辛さは想像して尚余りある。

 

それを、今よりも臨場的に見るなんて悪夢どころの話じゃない。そんなものは地獄だ。今手の中にある氷を呑んでしまえば、それを味わう羽目になると。そう告げている。

 

「...っ」

 

どれだけ苦しめばいいのだろう。実際に味わってきたゆきは、どれ程苦しかったのだろうか。

憐憫と恐怖、そして願いを聞きたがらない自身の不甲斐なさに涙が零れる。

 

「ごめんね、勝手なお願いして」

 

そう言われて頭を上げると、滲んだ視界の中で頭を下げる()()()()()()

 

謝らなくていい。ゆきは何も大層な願いをしたわけじゃない。それを受け入れられない私の狭量さが嫌になる。

 

「でも、頼める人が何処にも居なくて...だから...」

 

溶けた喉からは想像も出来ない。絞りだされた声は息を飲むほどに綺麗で。

 

「…待てよ。誰が嫌だ、って言った?」

 

それを聞いた途端、自分の内から躊躇が消えたのを感じた。

 

「―――え」

 

呆気にとられた表情のゆきを抱きしめ、耳元で思い切り氷を噛み砕いて飲み干す。

 

「知らない仲じゃないだろ、任せろって」

 

出鱈目に飲み込みにくい。ドロドロに熱された油を飲み干しているみたいに胸が焼け、掻きむしりたくなる。

許されるなら臓物を取り出して捨てたい程の、死ぬより不快な感覚が全身に広がる。

 

「…くるみちゃん」

 

いよいよ堪えかねなくなり、現実に逃避するべく、身体を離し、扉に手を伸ばした。

 

後悔する間もない、全てが白になって。

また暗くなってから瞼を開くと、さっきまでの光景は無く。

 

 

天井に向かって伸びている自分の手が、虚ろに空を掴んだ。

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