胡桃ちゃんはおかしかった 作:生タマゴ
意識が埋没してゆく。
光差さぬ海へと沈み込むアンカーのように、私の光はどんどんと遠ざかって。
彼女と同じ深さまで沈み込んだ時、私は。
「...胡桃」
目の前で瞳を閉ざした胡桃を見つけた。
血まみれで、体中に噛み跡を付けた無残な姿で、涙を流す胡桃が居る。
「お前は、誰なんだ」
「私は君の友ですよ、胡桃」
瞳孔以外充血しきっている、泣きはらした後のような表情で胡桃は私を見据えていた。
「何で、あんなことが出来る」
爛れた傷を撫でながら私を睨む。
もしや、胡桃は私と感覚を共有していたのだろうか。
「そんな事を知ってどうするつもりですか」
「「...私じゃめぐねぇもりーさんも助けられなかった」」
声を被せる。
何を言いたいのかは私だってよくわかる。
「まだ、早い」
「早くなんかない、むしろ遅いくらいだ」
「最初からお前みたいに動けたら、りーさんもめぐねえも、私は助けられたかもしれないのに」
涙目のまま悔しげに口元を歪ませて胡桃は告げる。
月のような、輝きを持って。
「...まだ、今の胡桃には」
胡桃の姿が遠ざかる。
否、私が沈んでゆく。
ああ、次に引き上げられるのはいつなのだろうか。
どんどん沈み続けると、やがて全身の痛みを流し込まれ。
それも終われば意識だけが底で佇むのみとなった。
...
私は、胡桃の友だった。
幼稚園にも入らない頃、発達心理学に於いて『私は私でよいのか』という疑問を抱く時期に。私は産まれた。
一人きりで寂しい思いをしていた彼女が『
紛れなく意味のない、負の投影として。
当然、胡桃に友人が出来るにつれて私はだんだんと駆り出される事が少なくなり。ついには全くの無反応になって、中学1年から高校1年までの3年間、何も干渉することができず。
このまま忘れ去られてしまうのだろうなと黄昏ていた時、奇跡が偶然か胡桃の体を動かせるようになったのだ。
...夜の間だけ。
それがこんな昼間になんで胡桃の身体を借りれたのか?
分からない。けれど、問題解決に向けて行動するべきだと思う。
そうすれば胡桃を手助けすることが出来る筈だから。
ーーーーーーーーーーーーー
目を開いたとき、視線の前には天井があった。
いや、仰向けの姿勢で寝ているのだから当然のことだけど。
「…起きれた、んだよな」
ソファーの上から降りようとしたら、私の左腕が手錠で拘束されている。
「あれ?何だこれ」
軽く床にぶつけたりするが、どうやらこれは鉄で出来ているらしい事が分かっただけ。
拘束されているけれど、声を出すのもどうかと思って、再び寝転がる。
「...生徒会室か?」
あいつの記憶では、扉の前でうつ伏せに倒れたはず。
それなのに私は手錠付きでソファーに寝かされている。
流石に命の恩人?を見捨てられず、介抱したといったとこか?
「あれ、くるみちゃん起きてる?」
頭上から声が聞こえる。
身体を起こして振り向いてみれば、そこにゆきがいた。
やけにテンション高いのが気になるけれど、無事らしい。
「あ、おはようゆき。喉乾いてるからさ、水ないか」
「水?」
由紀がテーブルの上にあった水筒を開き、コップに注いでよこす。
「お茶だけどいい?」
左手でカップを受け取って、中身を一気に飲み干した。
どこか振り切れなかった気怠さが抜けていくような気がする。
「ありがとう、気分が良くなった」
ぷは、と息を吐き出してから由紀にカップを返す。
「お安い御用だよ!」
「…なあ、この手錠って一体…」
受け取った由紀が、えへん。と腰に片手を当てて胸を張る。
その時、後ろのドアが開かれた。
「りーさん!」
そこに居たのはりーさん。探るような視線が顔に突き刺さって少しこそばゆい。
けど、気絶してからの事なんか話しても良く分からないと思ったので
「りーさん!無事だったのか!」
「元に戻ったの...?」
「ああ、ちょっと変になってたみたいでさ」
口角を上げて、できるだけ曇りのない笑みを浮かべる。
「良かった…どこか違和感のある所はない?」
「私は特にないけど、りーさんこそ大丈夫?」
「抗生物質がちゃんと効いてくれたみたいで、今のところは平気よ」
「そっか、良かった」
りーさんが柔らかにほほ笑んで、手をグーパーさせる。
動作に問題は全くなさそうで何よりだ。
「…二人とも、なんでリュックを背負ってるんだ?」
今更ながら、二人の格好が物々しい事に気付いたので尋ねてみる。
「ちょっと食料が心許なくなってきたから、『遠足』でショッピングモールへ行こうと思っていたの」
「あそこに?結構遠かったような」
「めぐねぇと一緒に車で行くんだよ!」
「...ええ、そうね」
りーさんの表情に陰が差す。
今の話に何か気になる点は特にないと思うんだけど、何かあるんだろうか。
「胡桃、ちょっとこっちに来て」
ドアノブを捻り、廊下に出たりーさんが私を手招いていた。
取り敢えず由紀に手錠を外してもらって、部屋の外に出る。
「どうしたんだ?めぐねぇ?の事が出た途端に」
「その事なんだけど、めぐねぇはね…」
「めぐねぇがいない?」
「ええ、抗生物質を打つのが遅かったみたいで」
「私もギリギリだったの、多分あと少し遅かったら...」
「いや、それなら由紀に言ってたのと食い違うじゃないか」
「...胡桃はどれぐらい眠っていたと思う?」
「三日ぐらいか?」
「三か月よ」
「え?」
「三か月の間、胡桃はずっと眠っていたの」
話を聞くと、私が倒れた次の日の昼に先生がいきなり倒れて、そのまま目を覚まさなかったらしく。
三日後に様子を見に行ったら、置手紙を残していなくなっていたそうだ。
それで由紀は暫く元気を無くしていたのだが、ある日突然『めぐねぇが戻ってきた』と言い出し。
以降は今の元気な状態になったのだと。
「マジか、そんな状況だったのに」
「...ごめん」
少し会釈しながら謝意を伝える。
こんな状況で三か月も眠りっぱなしだったなんて、無責任すぎると思ったから。
「良いのよ、胡桃がちゃんと目を覚まして、元に戻ってくれただけで十分」
目元を細められながら手を握られる。
「りーさん...」
微かに震える私の腕。
その揺らめきを辿った先に有るのは、りーさんの左腕。
悲しいのか、嬉しいのか、その心中を完全に察することなんて出来ないけれど。
不謹慎にも、こんな風に必要とされているのが、嬉しかった。
「『遠足』、私も行かせてくれないか」
由紀の反応からして、私が眠ったきりでも二人でショッピングモールに行く予定だったと思う。
その計画は恐らく今も変わっていない。
だって、病み上がりの人間を連れて化け物の中に突っ込むような無謀さも、無理やり連れていくような非情さも、二人は持ち合わせていないだろうから。
「それは駄目、今の胡桃に無理はさせられないわ」
予想通り、私を動かすつもりはさらさらなかった様子。
慌てて拒否される。それだけで引き下がるつもりはなかったけど、
「でも」
「お願いだから、部屋で待っていて欲しいの」
せっかく助かったのに、胡桃までいなくなったら。と言われては返す言葉も見えなくなった。
「...分かった。安静にしてる」
結局、りーさんの頼みを断ることが出来ない。
私の意向と真正面から競合する願いでも、それが私の身を案じてのものだと、押し付けられるでもなく理解してしまった。
「りーさん、時間だよ?」
生徒会室から由紀の声が聞こえる。
「じゃあ、出来るだけ早く戻ってくるから」
絶対安静よ、と再び言い残し。
廊下へ出て来た由紀の手をとり、二人は階下へと歩みを進め。
階段を降りる足音が聞こえなくなると、校庭の方からエンジン音が響き。
数十秒後にはそれも消え、僅かな呻き声が遠方から届くのみとなった。
「行ったか」
ほんの、ほんの少しだけだが、寂しくなる。
りーさんにはりーさんの考えがあって、私には私の考えがある。
当たり前の事がとても煩わしい、そんな感情。
「行きましたね」
背後に突然現れた気配。
そこに居るようなリアリティを持った幻覚。
「...お前、どうして」
驚きは無かった。
無意識にこいつが出てくることを理解していたからか、自然すぎるからか。
「どうしても何も、これが本来の在り方だとしか言えませんよ」
立っている、無表情で幼い。
写真の中でしか見られないような、セピア色の姿で。
「本来の在り方?」
視線を交わらせる。
「な...」
何の話だと口を開きかけた瞬間に、あいつは血を噴き出して崩れ落ちた。
傷を抉られたように、顔を歪めて。
「…」
ボロボロと泣き腫らし、自分の境遇の悲惨さを脚色して囁く。
何故か聞いているだけで背筋が冷えるような。
静かなトーンで。