胡桃ちゃんはおかしかった 作:生タマゴ
薄暗い部屋の中、目を開く。
視線の先で行きどころもなく宙を漂っている掌の平。
二の腕から伸びる斑点は、痣と火傷を混ぜて腐らせたような色。
普段と少しだけ毛色の異なる目覚め方をしたことに一抹の不安を覚える。
「...あ、れ?」
同時に感じた違和感。
しかし、その原因は何故か震える身体でも、頬を伝う雫の事でもない。
毎朝目が覚めた時覚えている夢の内容。便宜的に統合と呼んでいるモノ。
その一切が記憶に無かった。
「…?」
前例を考慮すると統合は最低でも数週間毎日行われ、それ以降は偶発的に行われるようになっていくもの。
三日も経たずに穴が開くのは初めてだった。
記憶の重複箇所が増えてくるにつれて頻度が減少する…という仮説に従っているとしてもあまりに早すぎる。
未知の記憶のみが映るのだから繰り返す内に少なくなっていくのは道理としても、二週目と比較して九割以上減はおかしい。
心当たりはないかと頭を捻った。
...駄目だ。皆目見当がつかない。辛うじて寝ぼけ頭に浮かんだのは、身体中に穴だらけの水膨れを起こした醜悪な化け物の姿だけ。尚の事薄気味悪い。
脳裏に過ったイメージを払うようにぶんぶんと頭を振るい、掛かった毛布を取り払って上体を起こす。
すると、忽ち饐えた臭いが鼻を突く。
それを認識した瞬間。胃袋が締め付けられるような感覚に襲われ、内容物が食道から喉の奥にせり上がって来た。
「うぶっっ!?う...」
ベッドの上でぶちまける訳にはいかないと判断し、ガサガサと布団から這いずりだして、傷口から滲み出た体液が半渇きのまま塗り広げられるのもお構いなしに、ゴミ箱の淵に顎を掛けて四つん這いの姿勢になる。
「……!っぐ、ゔぇえ゛ぇっ…!ゔっ、ぁ、おぇえ……!」
激しい痛みを発する全身に鞭打ちながら、胃液をぶちまけた。
幸い食物はすべて消化され切った後だったらしく、喉や鼻が若干ひりひりするだけでさしたる不快感は残らない。
「っ!はぁ、は、ぁ......どうして、今更...」
体熱の籠った布団。
生温かい部屋の空気、共に漂ってくる饐えた悪臭。
これまで嗅ぎ飽きるほど嗅いできた。その程度の悪臭の筈。
だというのに、それを自覚した瞬間に凄まじい吐き気を覚えた。
抗う気も起らないような強烈さ、いきなり胸の内側に溶けた蝋を垂らされるような不快感と、厚手のコートを着ている時に氷水を背へ注がれた様な寒気。
それは、恐ろしい『何か』。体の震えが止まる気配がない。
臭いの元を更に辿ると目につく、滲出液と血液の染み。
恐る恐る酸性の唾液を飲み下して再び鼻を近付けてみる。
「...ぐっ!」
特段嗅覚が過敏になっている訳でもない。
膿や滲出液の乾いた香も、混ぜ溶けた血液の香りも殆ど変わらない。
自分のものだと理解している。
なのに、なのにその臭いが気持ち悪くて仕方ない。
目の前がチカチカと眩しい、頭はズキズキと痛む、平衡感覚はさらに揺らいだ。
そこではたと気付いた。
携帯の時刻は午前四時三十分。
夜間になると、地表面が熱を赤外線として放射する為、温度が下がる。
放射冷却といい、太陽がちょうど昇りはじめた時間帯が最も冷却された状態だ。
今は丁度その明朝に相当する時間。
四月は室温が一桁になるなんてざらにある。ましてやストーブの一つもないこの部屋は尚更だろう。
なら、
「熱、か...?」
ぐらぐらと揺れる中、手摺りを頼りにしながら千鳥足で一階にある両親の寝室へ行き。
箪笥の中の薬箱から非接触型の体温計を掴み上げて、額に照準を定めトリガーを引く。
しかし、体温はおろか何の数値も表示されなかった。
電源はない。電池を入れさえすればコレは機能するものだ。つまり、電池切れなのだろう。
「電池は、確か外の物置に、予備が」
玄関を開いて脇にあるゴミ箱の下から鍵を回収し、家の横手にある物置を開く。
中を見渡してみると、そこには殆ど使われなかった大きなスケボーや、バイク用プロテクター、高そうなゴルフクラブや良く分からないトロフィー達が窮屈に収納されていた。
その中で、場違いそうに鎮座している樹脂製の工具箱からシュリンクに包まれたままの電池を取り出し、体温計のものと入れ替える。
腰を下ろして体温を測ると今度は電子音が鳴り、数値が表示された。
『30.2』
小さな液晶画面に映し出されている数字は、人の体温として初めて見る値を示している。
「は、ぁ」
頭が上手く回らない、それでも何となく自分が危険な状態にあると理解できる。
こんな碌に手当てもされてない生傷だらけの人間が低体温による免疫不全を引き起こしたらあっという間に感染症になるだろう。
人間が意識を喪失するのが確か30.0度の筈だ。今私が覚醒しているのは奇跡と言う他ない。
携帯から119に電話をかけて数コール。ガチャリと音が鳴り、女性の声が聞こえてくる。
『はい119番消防です。火事ですか?救急ですか?』
「救急、です」
『あなたのお名前と住所を言ってください』
そう言われて住所を思い出そうとするが、何故か分からない。
「...え?」
おかしい。
人付き合いで住所を滅多に使わないとは言え、暗唱すら出来ないというのはあり得ない。
...ああ、記憶障害か。
『もしもし?聞こえていま』
通話を切り、物置の床で横になる。
「う、ん」
そう言えば最初の週でもおかしな点はあった。
ただ市内のモールに向かうだけなのに、りーさんもゆきもしきりに地図を眺めていたり、既知である筈の物に対する反応に違和感があったようなきがする。
頭を回していると、だんだん眠気が強くなってきた。
身体が鉛のように重く、靄かかったように音も映像もぼやけてくる。
「あ、そうだ」
起きたらアヤカに電話しようと思っていたんだ。
電話帳から名前を選んで発信すると、驚くことにワンコールでつながった。凄い速さだ。
『...何』
寝起きなんだろうか、いつもより声が少し低い気がする。
「物置で倒れてるから助けてくれ」
『は?何があったのよ』
「怪我をほっといたら倒れた。起きれないし、眠い」
喋る気力も残ってない。私はもう寝たい。
じわじわ感じる寒気に身を委ね、留めていた意識を徐々に手放していく。
『こっちの指示を無視しといて、虫が良すぎると思わないの?』
「悪いとは思うけど、こっちにも事情があってさ」
『冗談だったら只じゃ置かないわよ、覚悟してなさい』
「...ごめんな、ちゃんと説明する」
通話を切った瞬間、それを待っていたとでも言いたげに瞼が落ち。
携帯が手から滑り落ちる感覚を最後に、今度こそ意識を手放した。
―――――――
――――
――――
―――――――
揺れている。
ゆらゆらと、ぐらぐらと。
前髪がさわさわ額を擦るのでむず痒くて仕方がない。
「んん...なんだ?」
腹回りへの妙な圧迫感とこそばゆさに耐えかねて目を開き、体をよじる。
すると掛かっていた毛布がずれて、私のシャツの中に手を入れたまま、目を瞑ったアヤカが露わになった。
むわっ、と汗や吐息混じりの空気が溢れて溶ける。
見覚えのない部屋だ。
西洋風の調度品が必要最低限に置かれたシンプルな空間。
その中で目立たない程度のフリルと天蓋の付いたベッドに寝かされている...?
暫し唖然としていたら、眩しさで目を覚ましたのか、アヤカが上体を起こす。
「何やってんの、あんた。血まみれで」
その目元はぐっしょりと濡れていた。
肩を掴まれ、頬に手を添えられて、目と目が合う。
「...昨日何があったのよ」
そんなことを言われたって、起こった事しか私は話せない。
色々あった。頭の中で一旦整理しないと上手く話せなさそうなくらいに。
「ちょっと待ってくれ、厄介な事になってる」
まず不要な情報は統合と記憶障害。ゆきとの会話内容。
一緒くたにして話しても混乱の種になるだけだろうし、悪戯に不安感を煽るのも良くない。
逆に話さないとマズそうなのはβとαについて、既に感染個体が存在しているという事。
これは絶対に必要だ。いくら怯えようとも。
αβを使う個体とアヤカが素手で遭遇したら十中八九死ぬ。間違いない。
機敏な動きと硬化能力、両方を扱う最悪の敵。鉄板を殴りつけたような感触だった。
私ですら先手を打って満身創痍。事前情報が要るだろう。
よし、整理完了。
「...昨日の夜、『奴ら』と接触した。新しいタイプだ」
「新種、って。どういう意味よ」
「そのままの意味。走って来たし、肉質が異常に固い正真正銘の化物がこの街をうろついてた」
「...冗談でしょ」
信じられない、否。信じたくないのだろう。
アヤカは顔をにわかに青ざめさせながら私の言葉を否定する。
いやまぁ私としても、冗談じゃないってのが正直な感想だが。
「それじゃ、もうパンデミックが始まってるって事?」
「その可能性も否定できない...けど、ある事件が絡んで来るとまた話が違ってくるんだ」
「ある事件?」
「ああ、『無戸籍者連続殺人事件』…」
「...聞いたことはあるわね。けどそれ、もう何ヶ月以上も前の事件じゃなかった?」
「それなんだけどさ、まだ続いてるらしいんだよ。三、四日に一体のペースで死体がアガッてるらしい。今も起こってる事件だ」
「...だとしても、それと『彼ら』に何の関係が?」
そう話したあと、少しアヤカは考え込むような素振りを見せる。
「...まさか、その被害者達が『彼ら』だなんて言わないわよね」
導きだした結論はあまりにも的確で、思わず笑みが零れそうになった。
今笑ったらそれこそおかしいのでかみ殺すことにする。
「っ、被害者の外見的特徴が『奴ら』の一部と一致している」
「一部……」
「そこで新種が出てくるんだ。『奴ら』の特殊個体にはα、β二種類があって、今回遭遇したのはその二種の混合だった」
「片方のタイプとは一致している...って事」
「流石。その通りだ」
「ここまで言われれば分かるわよ。要するにあんたはこう言いたいのね?『パンデミック以前から個体の流出か発生かは分からないけれど、『奴ら』は存在していて...」
「だとすれば起こっているコトの規模が小さすぎるから…」
「『奴ら』を殺していた存在が居るんじゃないかと睨んでる』って」
「...ああ」
私の返事を聞いたアヤカは、再び毛布の中に潜り込む。
「あ、アヤカ?いきなり何を...」
「何?嫌だったかしら」
「いや、そういう意味じゃなくて...あ、違う、別に良いんだけどさ」
「...何なのよ」
「どうして私のシャツの中に腕入れてたんだ?」
その返答は、無情な程に強烈なデコピン。
結構痛い。
「…どうでも良いでしょ。ちょっと疲れたから寝させなさい」
―――記憶の定着には睡眠が適してるの。
それだけ言い残してアヤカは目を閉じる。
数分もすれば、寝息を立て始めてしまった。
起こすのも悪いし、私も若干疲れが残っている。
どうせだから、そのまま瞼を閉じて二度寝をすることにした。
次に目を覚ましたら此処がどこなのか聞こう、と決めて。