胡桃ちゃんはおかしかった 作:生タマゴ
数十秒ほど盲目になったが、今度は気絶せずに済みそう。
徐々に明瞭になりつつある視界で、平衡感覚を取り戻した。
ある程度の回復を待ち、椅子に腰かけなおす。
「いきなりどうしたの?」
りーさんが机を迂回して私の隣に移動し、少し屈んで目線を同じ高さに合わせる。
「いや、ちょっと立ち眩みがしてさ」
幻覚の事を今話すのも余計な不安の種を撒く行為にしかならないし、思いついた適当な言い訳をした。
「やっぱり無理をしすぎたのよ...」
「別に私は休まなくても平気なんだけど」
「だ、め。食料も十分にあるから、今度こそちゃんと休みなさい!」
ほっぺを膨らませて茶化すように言ってこそいるが、その目からは有無を言わせぬ気迫が漏れている。
「わ、分かった」
得も言われぬ気迫を笑顔のままで放たれると、なかなか恐ろしい。
これと比べれば、唸るだけの奴らなんてかわいいものに見えてくる。
やはり生きている人間が一番怖いというのは本当だったんだな。
「それじゃ、夕食にしましょう」
りーさんとカップ麺を食べる。
想像以上に食欲があって、自分の事ながら呆れるほどお代わりをしてしまった。
「「ごちそうさま」」
手を合わせ、二人一緒に食事を終わらせ。後は眠るだけ。
由紀の寝ている部屋―――へ、りーさんが案内すると言い、私の手が握られる。
「私はここで良いよ」
「そう?」
けれど、断った。
呆気にとられた表情でりーさんが私を見ている。断る理由もないと思ったんだろう、あたりまえだ。しかし、これからの行動をりーさんに見られるのはマズイ。
「ああ、ソファーの寝心地が気に入ってさ」
「念のために言っておくけれど、夜更かしはしちゃダメよ?」
「わーった」
ちゃんと寝るのよ、と一言残してからりーさんが部屋を去った。暫くの間息をひそめて、何も音が聞こえなくなると、思い切り吐き出し。
制服を脱ぐ。
傷の具合を確かめる為に。
「...見間違えじゃないな」
記憶の中で噛まれていた場所も、今日噛まれた部位も、全く傷跡がない。いや、それどころか掠り傷一つ見当たらなかった。
痒さから存在を確かめる事は出来るが、見た目はキレイなまま。
これは間違いなく幻覚だ。
痒みの方じゃない、無傷に見えている事が異常。
「もしかして」
その時、酷く傷ついたあいつの姿が脳裏に浮かぶ。
思い返してみれば、まるで私の分も傷を負っているようだった。
自分の状態はロクに見ていないので、比較することは難しいけれど、幻覚だけを見るなら、無傷の私とズタボロのあいつという構図になる。
しかし、この予想が当たっているなら何故あいつは私にあんな事を言ったのだろうか。
逃げ遅れたりーさんのせい。そんなの本人が一番分かっているはずだ、私に責める筋合いはない。
不可抗力だった。あの状況なら転ぶことくらいあるだろう。
陰りを見せた思考に横槍を入れて中断させる。
そもそも私の力不足が原因なんだ、りーさんは悪くない。
「本当にそう思っているんですね?」
ふっと瞬きをした瞬間、あいつが向かい合った席に座っていた。
夕陽も弱まり、だんだんと薄暗くなってゆく部屋の中で、昼間と全く同じコントラストのセピア色で。
「...どういう事だ」
昼間の発言の意図が私に分からない以上、こいつに聞くしかない。
「彼女は悪くないと、微塵も思わなかったんですか」
「胡桃は、自分で思っているほど強くはないんですよ」
あいつは、傲慢すぎるだけとも言えますね、と呟き、右足を左膝の上に乗せ、両肘をテーブルについた。
今も流れ続けている血がクロスを汚している。
「強い弱いじゃなくて、私の考え方としてりーさんを責めるなんておかしいだろ」
「そうですか」
目元が僅かに細められ、何かを咎められているような気分になる。
「おまえが本当に私なら、何故あんな事を言ったのか教えてくれ」
事実、咎められているのだろう。あいつの目線は無言の非難とでも形容できそうな程、鋭く研ぎ澄まされていた。
「...そんなに知りたいというのなら、私の手を取ってください」
血だけが艶やかに映える、奇妙な右腕が私の眼前で開かれる。
握手をするには高すぎる位置で、どうしたものか迷う。
「こうか?」
パッと開かれた手の平を合わせると、あいつが指と指を絡みつかせてくる。
不思議なことに、湿り気のある感触が酷く心地良く思えた。
「それでいいです」
手がギリギリと締め付けられ、僅かに痛む。
「傷が、見える?それに耳と目も...」
すると痛みは間を置かずに広がりだし、発生源の数か所に傷跡が見えた。
それだけじゃない、傷以外にも、視界が明瞭になって、音も鋭敏に捉えられる。
先程まで靄がかっていた事を気付けなかったほうがおかしいくらいに、様々な感覚が研ぎ澄まされていた。
「...」
その時、廊下の方から足音が聞こえて来る。
「ま、待ってくれ!」
同時にあいつの姿が薄くなり、だんだんと空に溶けてゆく。
足から頭の順番で消えて、固く握りしめていた手も、拳を作るのみとなった。
どうやらあいつは私以外の人間が来るといなくなるらしい。
音の発生源は扉、由紀の音。
あと少しで何か聞き出せそうだったのに、と歯痒い思いになるが...
「胡桃ちゃん、大丈夫?何かあったの?」
「いや、何でもない。起こして悪いな」
「...そっか」
「しかし何だってわざわざ生徒会室に来たんだ?」
暗にそのまま寝ていれば良かったというニュアンスを含む。
「それは、ほら、わたしたちって同じ部活のメンバーだし、何か嫌な事あったら教えて欲しいなって、思って」
「...胡桃ちゃん、本当に辛かったら教えてね?」
「心配すんなって。ほら、早く寝ないと明日に響くぞ」
「うん。おやすみ、胡桃ちゃん」
「おう、おやすみ」
適当にあしらった。
こんな≪≪血まみれの姿≫≫を見られたら大事になるかもしれないから―――
―――血まみれ?
自分の抱いた懸念に違和感を覚えてテーブルを見下ろしてみれば、空を掴んだままの右腕から血が流れていた。
「うわ」
これは酷い、早く包帯を巻くぐらいはした方が良いだろう。
昼間に開きっぱなしにしていた薬箱から包帯とガーゼを取り出して適当に処置をした。この際巻き方なんて気にせず、ただ迅速に巻き上げる。
取り敢えず形にはできたので薬箱を閉め、頭を入り口に向けてソファーに寝そべった後に両手を頭の後ろで組んだ。
さて、どうしたものか。
あいつは消えてしまったし、今度こそ起きている人間の音が無いので話し相手もいない。
時計を見ると、今の時間は午後の十一時。
いい加減に寝ないと明日起きれなくなるかもしれない。早く起きる必要があるのかと言えば特に思い当たる節は無いのだが、睡眠不足になる可能性を考慮すると、どちらにせよ寝なければいけないので目を瞑った。
それから暫く経ち、時計を見ると、八時十三分。
どうやら眠れなかったらしい。
頭が中身を何かで殴りつけられたように痛み、つい舌打ちが出る。
その後も暫く強い疲労感に襲われたが、廊下の足音で目がはっきりと覚めた。
一つは由紀のもの、もう一つは恐らくりーさん。
部屋の前で足が止まり、ノックが響く。
私を起こしに来たのだろうか。
「胡桃、そろそろ朝食だから開けてもらえる?」
違った。
そう言えばガスコンロもポッドも流し台もテーブルもこの部屋にある。
朝食はここで摂るらしい。
「今開ける」
鍵を開けると、由紀が私に飛びついてきた。
「うわ!いきなりどうしたんだ、ゆき」
「なんだか胡桃ちゃん、暗そうな顔してたから、つい」
引っ付いたのを剥がして尋ねると、瞳がほんの少しだけ不安げに伏せられる。
すぐ照れくさそうな笑みに変わったが、その一瞬見えた表情は私を案じているように見えた。
「...そっか、ありがとな」
由紀は昨日の夜の事が気がかりだったのだろう。
余計な心配をかけてしまったかもしれない。
笑顔でわしゃわしゃと頭を撫でると、由紀はくすぐったいと言って私から離れ、それを何度か追いかける。
結局、朝食が出来るまでの数分間は生徒会室での追いかけっこに費やした。
「二人とも、朝ご飯できたわよ~」
りーさんがニコニコしながらレトルトカレーを配膳して、呼びかける。
「わ~!カレーだ!」
「いいねえ」
椅子座った由紀がオーバーに喜び、私も率直な感想を述べて。
「それじゃ...」
「「「いただきます!」」」
三人一緒の食事が始まった。