胡桃ちゃんはおかしかった 作:生タマゴ
窓から差す日光が目に痛い、私が食後に生徒会室で覚えたのはそんな感覚だった。
朝食を摂り終わったりーさんの皿を洗う音が耳に入り、いやに朝の爽やかさを引き立てている。
「あら、もう行くの?」
「うん、今日は何か早く行きたいんだ」
「そう、いってらっしゃい」
「いってら」
「いってきま〜す!」
由紀がリュックを背負い、教室へ向かった。
なので、この部屋にはりーさんとテーブルに突っ伏す私だけになる。
「りーさん...」
酷い頭痛に苛まれて、うわ言のようなものが口を突いて出る。
「食べてる時から調子悪そうだったけど、どうしたの?」
「それがさ、昨日から一睡もできなくて。頭痛が止まらない」
どうすれば良いんだと頭を掻いた。
すると、流し台の水音が蛇口を捻る音で止まり、薬箱の中を漁る音に変わる。
「...頭痛薬ってあったかしら」
皿洗いを中断して薬を探してくれているようである。
不意に、胸の辺りが温かくなった。
数十秒ほど経過すると、りーさんの気配が近付く。
顔だけを向けて見れば、ややマイナーな頭痛薬と水の入った透明なグラスを持っている。
既に箱からは取り出されており、小袋の封を切って粒状の薬を水で流し込む段階だ。
背を起こすのも億劫だったけど、さすがに突っ伏したまま水を飲める気はしなかったので、起き上がる。
「入っていて良かったわね」
ひと心地ついたような表情でグラスと頭痛薬を置き、りーさんは皿洗いへと戻っていく。
「うん、助かった」
私は以前この頭痛薬を噛み砕いたことがあるが、とんでもなく苦かった記憶がある、少しの覚悟をしてから薬と水を口に含んだ。
...苦味が無い。
何の味もしない。
さっきのは何かの間違いだと思いたかったが、どうやら悪い予想が当たったらしい。
理由を考えてみると、最有力はあいつ。
視覚と聴覚に変調をきたした前科もある。
次点で奴ら。
抗生物質の副作用か感染の症状なのかは知らないけれど、可能性としては十分だけど...
結局どちらに絞ることも出来ないので、思考を打ち切って口内の薬液を飲み込んだ。
「りーさん、今日の予定って何かある?」
濡れた皿を静かに布で拭いているりーさん。
その背中に問いを投げ掛ける。
「特にないけど...何かやりたいことがあるの?」
「大したことじゃないんだけど、メッセージを飛ばしてみようかな、って」
「メッセージを?」
「ああ、鳩の足に括り付けたり、風船で飛ばしたりしてさ」
「それで誰かが気付いてくれるかもしれないだろ」
「...それ、先週ゆきちゃんと一緒にやったわ」
先週にやっていたということは、まだ何の反応も無いのだろう。
「マジか...それじゃ、今のところは望み薄かな」
「そうとも限らないわよ?もしかしたら明日にでも自衛隊とかのヘリが飛んでくるかもしれないじゃない」
「自衛隊ねぇ」
自衛隊。
そういえば自衛隊基地はあのマニュアルに連絡先が載っていた施設の内の一つだ。
現状を把握する足掛かりとして、そこに電話してみるのも良いかもしれない。
顎に手を当て、足元に視線を漂わせる。
「どうかしたの?」
「や、自衛隊基地に連絡を取れないかなって」
「基地に?」
「うん。電話番号は知ってるからさ」
「でも携帯は...」
「電波が駄目なら電線を使えば良いさ、確か職員室に固定電話があったはず」
「それでも駄目なら...」
そして連絡手段を探すうちに、倉庫の中に無線機があることに気付く。
通電してみれば、そこには自衛隊基地からのsosが入っていた。
翌日、朝日が顔を水平線の下に沈めている頃。私は自転車で基地に向かう。
ーーーー動かない。
足に力を入れても、腕を振りかざすこともできない。
「がっ、あ...」
じくじくとした痛み、まるで肢体が腐らされていくかのような冷たさが浸透してゆく。
鳥肌が立つ、まるでぬるま湯に浸かり続けていたかのように。
抑えきれない悪寒が脊髄を辿り、相反するようにほんの僅かな熱が胸に残っていた。
咄嗟に頭を引き剥がして、目の前の人を無線機らしき物の方へと蹴り飛ばす。
1メートル程距離を引き離せただろうか、男は地に伏した。
その口元から垂れてくる私の肉は、肩口を噛み千切られたのを示し。
喉から零れる低音域の声は、無線を通じてここに呼び出した人物のモノ。
込み上げてくる内包物を躊躇うことなく口外へ吐き捨て、より悪化した視界の中で奴を睨む。
摩耗しきった足、その膝を立ててから順に立ち上がる。
「っ、呼び出しといて」
その瞬間に襲ってくる奇妙な感覚のズレ。それは、目の前の光景から自分自身の視点が遠ざかるよう。
「そんな、姿になってるなんて」
しかし、今ここで仕留め損なうわけにはいかない。
スコップを握り、奴の首を見据えて振るう。
「...悪い」
幾分か新鮮な血液を浴びながら謝意を零す。
「はぁ、嫌になるな」
私の二の舞になるような人間が残っているとも思い辛いけれど、念のためにこの電波は止めておいた方が良いか?
しかし、適当にそれらしいキーを操作しても全く変化が起こらない。
ふと画面の端を見てみると、音声データの日付が確認出来た。
二週間前。
この録音を無差別に垂れ流していたのだろうか。
「面倒、だ。基盤を壊せば、いいか」
いくら弄ってもうんともすんとも言わない機械にだんだん痺れを切らす。
肩の激痛も焦りを加速させる要因となり、破壊してしまおうと思った
その瞬間。
カチリ、という音と共に―――、部屋に砂嵐のような音が響く。
『...受け手、が居るみたい、だが』
「え!?」
『生存、者か』
「私たち以外の生存者...?」
『君は何処の誰だ』
「私、は恵比寿沢、胡桃って言います、あなたは」
『...名乗るほどの、者じゃない』
『ただ、私達は、君たちのような、者を救助しに、行くんだ。ヘリで』
「...本当、ですか?」
『ああ、本当さ』
「なら!巡ヶ丘、高校へ」
『...ある手紙が、手掛かりになって、ね』
『本当なら、後日向かう予定なんだが』
『確実に居るんだね』
「はい、学校の生徒が、二人」
『...分かった、今日の内に向かおう』
そこで通信がプツリと切られる。
「よかった...のか、これで」
うちの学校に、救助が来るかもしれない。
相手が本物かどうかの確証は得られなかったが、それでも気休めにはなる。
発信者のいなくなった無線に翻弄されたかと思えば幸運が舞い込んできた。
存外悪いことばかりが続く訳でもないらしい。
尤も、それは不幸中の幸いでしかないけれど。
「いや、まだだ、りーさん、と」
由紀が、心配だ。
と。その一言を呟く前に肢体は重力に逆らう術を失い、ぐちゃりと倒れこむ。
徐々に強くなる倦怠感と、脱力感。
目の奥が痛い、耳の奥が痛む、もし帰ることが出来たとしてもこの傷だ。
化膿は避けられないだろう。
「ゲホっ!、げほっ...」
少し朦朧とする意識の中で噛み千切られた右肩を見やると、白い何かが顔を見せていた。
今まで一度もお目にかかることはなかったもの、自分の骨。
「はは、最悪だな...私は」
自分が死体とした者と自らの吐瀉物から放たれる悪臭が混ざった空気、満身創痍の身。
もはや望むべく奇跡すら思い浮かばないような現状に辟易し、鼻がツンと痛んだ。
「りーさん。怒るかな、勝手に車使っちゃったこと」
末端の感覚が薄れ、瞼がだんだんと重くなり。
徐々に出血も勢いを衰えさせた。
無論、止血できたからじゃない。流すべきモノが無くなったが故の停止であることは火を見るより明らか。
それを証明するように血溜まりは広がりを衰えさせる。
「ごめんな」
口角を僅かに上げ、弛緩させた。
すると、目を閉じていないのに、徐々に視界が暗くなり。
腕が自分の意に反して傍の男を掴んで、私の方に引き寄せる。
―――ああ、何でこんなに、おなかが すくんだろう
五指の肉を削ぐ。
フランクフルトから肉を啄むように、鳥の手羽を食むように。
しかし、飲み込むことができない。引き攣った様に喉が痙攣して吐き出してしまう。
これじゃ、ただ噛み啜る方が余程満足できるだろう。
そう思い至り、死体の肩口に何度も噛みついた。
予想通りだ、食い千切るよりも何度も噛んだ方がマシ。
気付いてからはただただ噛み続けた。
窓のない部屋で、蛍光灯に照らされながら、一心不乱に死肉を噛み続ける。
満たすことの出来ない欲求に苦しめられながら、ただただ。
死者の尊厳を踏み躙り尽くした。
人ひとり分の死肉が、ただのひき肉になるほどの時間がたった時のこと。
聞き覚えのある音がした。
そう、あれは間違いなく由紀とりーさんの足音だ。
きっと私を迎えに来てくれたんだ。
それに気づいた時、すでに身体は部屋の外へと向かう。
しかし、ドアノブの回し方が分からない。どうなっているんだ。
「...ガ」
苛立たしい、力づくで開けてやる。
鉄扉を殴り、頭を打ち付けて破壊しようとするが、びくともしない。
「アアアアアッ!!!」
何度も叩きつけて右の拳が完全に潰れる。
その時、扉が吹き飛んで私を弾き飛ばした。
「...が...の」
「うん...だと思う」
「...は..だった。...が、結果を...」
あの男、何処かで聞いたような声をしている。
それに、何故か安心するような…
「アアアアアァァァァ...」
ドアの下から這い上がり、音を頼りに走りだす。
「...君に、やらせるわけにはいかない」
「ガァ!?」
蹴り飛ばされた。
凄い力で。
何で私の邪魔をするんだろうか。
気分の悪い。
「ギイイイイィィッ‼‼‼‼‼」
歯軋りして、有らん限りの憎しみを込めて威嚇する。
お前は邪魔だ。
逃げるのなら追いかけはしないが、由紀たちから離れないなら...
全力で駆ける。
よくわからないが、たぶんそんなに離れてはいない筈だ。
「ガアアアアアッ!!!」
なのに、何故。
何故音が遠ざかり続ける?
等速で移動しているみたいに離れていって、怠慢にしか距離を縮められない。
「...二人とも耳を塞いで」
黒光りする筒が額に向けられる。
なんだ、それは。
何故かわからないが、とても怖いもののような気が―――
―――次の瞬間、筒の前に伸びた腕が撃ち抜かれ。
貫通した何かによって飛び散る自身の脳髄を眺めながら、お腹がすいたと陳腐な感想を抱いて。私の意識は崩れていった。